今日から五月に入った。ヴィオレッタは、レジ台の横にある壁掛けカレンダーをめくり、ビリリと破る。
来週から、モン・プチ・ジャルダンに女の子がやってくる。期間限定で、いわゆる職業体験をしてもらうのだ。
兵庫県では、県内の公立中学校に通う二年生を対象に、職場体験などを通して地域について学ぶ活動を実施している。
期間は一週間で「トライやる・ウィーク」と呼ばれる。一九九八年度から始まったらしい。
地元民を自称するヴィオレッタは、残念ながらつい最近までこの活動を知らなかった。
屈んでレジ台の下をのぞくと、昼寝をするモネの姿があった。ヴィオレッタはしゃがみ込んで、モネを揺り起こす。
「モネ、来週から女の子がひとり来るからね! ちゃんとお利口にしててよ?」
ユサユサと揺らされたモネが、薄目を開ける。
「わたしは人間で、普通のお姉さん。モネは、わたしに飼われているごくごく一般的なわんこだからね。魔法使いだとか、使い魔だとか。ぜったいにバレちゃダメだからね!」
ヴィオレッタは、モネに念を押した。
「ん? なんだ? 女の子……?」
眠たい目を前足でこすりながら、モネが訊ねる。
「もう! 来週の月曜日から働いてもらう話、ちゃんとしたでしょ?」
「き、聞いてないぞ! 新たにバイトを雇うのか?」
モネは飛び起きて、ヴィオレッタに詳細を確認する。
「働いてもらうのは、一週間だけだけどね」
「なんだそれ。短期バイトか? 一週間だけ雇って、何か意味があるのか?」
「ぜったいにあると思うわ! トライやる・ウィークは、素晴らしい取り組みだと思うの」
ヴィオレッタが腕組みしながら、うんうんと納得していると。
「なんだ? とらい……?」
「トライやる・ウィークよ。簡単に言うと職業体験ね。毎年、この時期になると実施されているみたいなのよ。わたし、すっかり神戸を地元だと認識していたけど、知らないことってまだまだたくさんあるのねーー!」
「そ、その職場体験とやらで、人間の女の子がうちに来るのか……?」
「そうよ!」
「冗談だろ?」
「あら、わたしは大真面目よ。なんかね、最近は受け入れ先の企業を探すのがたいへんみたいなの。先生方も、とっても苦労されているみたいでね」
常連のお客様に、中学の先生がいるのだ。
あれは、先々月のこと。先生が来店した際、職業体験の話題になった。受け入れ先を見つけるために奔走していると聞き、それならとヴィオレッタは立候補したのだった。
「すごくお困りのようだったし、話を聞いていると興味もあって。受け入れても良いかなって。ほら、うちはお菓子を作ったり、接客をしたり、ハーブのお世話をしたり。たくさん仕事があるじゃない? とりあえず、ひとりなら受け入れ可能かなって思って!」
男子でも女子でも受け入れ可能。ただし、なにぶん初めてのことなので、受け入れる生徒はひとりとお願いした。
結果、お菓子作りが趣味だという女生徒が来てくれることになったのだ。
先生から連絡を受けたときは、とにかく嬉しかった。同時に責任を感じた。
「ちゃんとお預かりしなきゃね!」
と、モネに話した記憶があるんだけど……。
そういえば、あのときもモネは微睡んでいた。まさにここ、レジ台の下で。
「俺はムリだぞ。子ども相手なんて! ぜったいにお断り!」
モネが地団駄を踏む。
「社会貢献にもなるのよ?」
「魔女が社会貢献なんてして、どうするんだよ!」
「もうOKの返事しちゃったもの。来週から、うちでも『トライやる・ウィーク』が始まるのよ!」
「な、そんな勝手に……」
「忙しくなるわ~~! とりあえず、大夏くんと詳しい打ち合わせしなくっちゃ!」
モネのことはサクッと放置して、ヴィオレッタは大夏のいる作業場へと向かった。
「とりあえず、笑顔の練習をしています」
作業場へ行くと、極めて真面目な顔をした大夏がいた。「笑顔の練習」とやらの真意が分からず、とりあえず話を聞いてみる。
「そんなもの練習して、どうするの?」
「女の子を怖がらせないようにするためです。顔の造形は変えられませんが、せめて愛想を良くすれば、好印象かと思いまして」
そう言って、大夏が練習を始める。に、にこ……と笑顔を作った。
残念ながら、顔が引きつっている。口角の上がり方も不自然だ。慣れないことをするものではないな……と、ヴィオレッタは心の中で思った。
「接客は、わたしが教えようと考えているんだけど。作業場のほうは、大夏くんにお願いできないかと思って。簡単な飾り付けとか、他にもいろいろ」
「分かりました」
不自然な笑顔で大夏がうなずく。
「怖がらせたくないって思う大夏くんの気持ち、とても良いとは思うんだけど。一週間も作り笑顔でいるの大変じゃない?」
「実は、これかなりしんどいです。もうすでに表情筋が限界で……」
不自然な笑顔から、悲しげな表情に変わる。
「大夏くんは、そのままの大夏くんで良いと思うわ! 心配しなくても、女の子は怖がらないと思う」
ヴィオレッタの予感だ。
魔法使いであるヴィオレッタの予感なので、間違いなく的中する。予知夢のようなものだ。
自信満々のヴィオレッタに対して、大夏は「本当に大丈夫だろうか……」と落ち着かない様子だ。
「身体を小さくする方法ってないでしょうか? ちょっと威圧感があり過ぎますよね?」
作業場にある鏡の前に立ち、大夏が筋肉もりもりな自分の身体をチェックする。真剣な顔つきで鏡を凝視している。
さすがは「気にしぃ」な性格だ。
「人間の身体を小さくする方法なんて、あるわけないじゃない」
魔法を使えば、できないこともないんだけどね……。またしても、ヴィオレッタは心の中でひっそりと思った。
✤
翌週、職業体験をする女子生徒がモン・プチ・ジャルダンにやって来た。
少女の名前は、
「よろしくお願いします」
深々と頭を下げる。ひとつに結んだツヤツヤの長い髪が、さらりと揺れた。
「こちらこそ、よろしくね! わたしは、店主のヴィオレッタ。こっちは常盤大夏くん。たいてい作業場にいて、お菓子を焼いたり、ケーキにデコレーションをしたり。ときどき接客もしてくれるの!」
紹介をしながら、肘で大夏をつつく。
「よ、よろしく……」
ヴィオレッタに促されて、ちょっとビクビクしながら大夏が挨拶をしている。
怖がられないか心配するあまり、無愛想になってしまったらしい大夏を見て、ヴィオレッタは苦笑いする。
気を取り直して、モネの紹介もする。
「この白いわんこは、モネといってね。うちの看板犬なのよ」
「お、俺が看板犬……? そんなの、初めて聞いたぞ!」
ちょっと焦ったモネの声が、頭の中に響く。
「洋菓子店に意味もなく犬がいるなんて、よくよく考えたら変でしょ? だから、急遽看板犬ということにしたのよ。ちゃんと、普通の犬のふりをしてよ?」
「……分かったよ」
「看板犬なんだから、愛想良くして」
「うるさいな」
文句を言いながら、モネが笑顔を作る。
ニ、ニヘァ……。
ちらりと舌をのぞかせながら、なんともいえない顔つきになる。ぎこちない笑みだ。
モネといい、大夏といい、どうしてモン・プチ・ジャルダンの男子は笑顔が下手なんだろう。ヴィオレッタは、密かにため息を吐いた。
音々のために準備していたエプロンを手渡し、ちょっとたどたどしく着用する彼女をヴィオレッタは見守る。
「……フリフリのエプロンだな」
「可愛いでしょ? わたしとお揃いよ」
モネの声に、ヴィオレッタは満面の笑みで反応した。
真っ白な生地にレースがついたお気に入りのエプロンなのだ。
「ちょっとチグハグじゃないか?」
「……確かに、そうね」
音々は、ブルーの体操服を着用している。残念ながら、体操服は可愛さとは無縁だ。音々の可憐さをも失わせている。
「音々ちゃん。制服じゃなくて、体操服なんだね」
彼女が通う中学は、公立だけれど制服がけっこう可愛い。シンプルだけど、クラシカルな印象もあるセーラー服なのだ。ヴィオレッタは、密かに「いいなーー!」と思っていた。
「ふん。良い年してなにが『いいなーー!』だよ。人間の制服? まったく! 魔女として恥ずかしくないのか?」
モネが何やら言っているけれど、そんな戯言は、さくっと無視をして。
「決まりなんです」
後ろに手を回して、エプロンを結びながら音々が答える。
「そっかーー!」
かなーーり、残念だ。小柄で妖精みたいに可憐な音々には、もっと似合う服があるのに……!
二階のクローゼットに眠っている洋服を着せたい衝動に駆られる。
繊細で可愛いドレスとか! シルエットが美しいワンピースとか!
あれ、ワンピース……?
ヴィオレッタは、自分が来ている淡いグリーンのワンピースをまじまじと見た。自分で縫ったワンピース。お気に入りの、とーーっても可愛い洋服。
これは、モン・プチ・ジャルダンの制服で、作業着で……。
「音々ちゃん。お店に制服があったら、それを着ることはできるの?」
もしかしたら、彼女に可愛いワンピースを着てもらえるかも!
ヴィオレッタが、音々にたずねると。
「はい」
こくん、と音々はうなずいたのだった。