目を閉じて、神経を集中させる。
頭の中に香椎舎の別館が見えた。レトロな社屋。二階に意識を向けると、かすかに話し声が聞こえてきた。
「どうして、俺に言ってくれなかったんですか……。ヴィオレッタさんには言えて、俺に言わなかったのはなぜですか」
勇馬の声だ。
「……ちょっと、怒ってるな」
モネの言う通りだった。勇馬の声色には、わずかに怒気が含まれている。
「病気のこと? それなら、間木くんの耳には入っていると思ったから」
それで、彼女はあえて言わなかったようだ。
「あんまり言うと『配慮しろ』って押し付けているみたいじゃない? それがイヤだから」
少しずつ、語尾が尻すぼみになっていく。
ヴィオレッタは、ふたりのやり取りを聞きながらヒヤヒヤした。
もしもふたりが仲違いして、前よりももっと気まずい関係になってしまったら……。
自分の魔法のせいだ。やはり魔法というものは、気安く使うものではない。ヴィオレッタは激しく後悔した。
それなのに、モネは興味津々といった感じで聞いている。瞳を輝かせている鼻ぺちゃ犬。どこか憎めないその風貌に、普段は癒されているけれど。今は、とっても憎らしい。
「それ以外にも、思っていることとか……。これからは、俺に言って欲しいです」
「間木くんに?」
「俺が、運び屋なんですから」
「運び屋って……。なんだか、外国の映画みたい」
くすりと彼女が笑う。
ほっとしたのも束の間。カシオは、真面目なトーンで話を続けた。
「……わざわざ、ここまで運んでくれているもんね。面倒な仕事をさせてしまって、間木くんには申し訳ないと思ってる」
「俺は、仕事が出来るひとのサポートをしているだけです」
「仕事が出来る……? そんな、わたしなんて。皆に迷惑をかけてるだけで」
「香椎さんが、サポートを受けてるのは事実ですけど。でも『迷惑をかけてるだけ』なんて、どうやったらそんな認識になるんですか」
「認識もなにも、本当のことだよ」
「卑屈にならないでくださいよ。支店で手に負えないクレームを処理してるのは、香椎さんなんですよ? 迷惑どころか、助かってるに決まってるじゃないですか」
「でも、わたしは縁故採用だし……」
「だから何ですか。きちんと仕事をしているんだし、それで良いじゃないですか。会社だって、香椎さんを雇ってプラスになってますよ」
「プラスに……? ど、どういうこと……?」
彼女は、信じられないといった感じで勇馬に問う。
「香椎さんに話を聞いてもらったお客様たち、また注文してくれるんですよ。こっちのミスが原因でのクレームもありますから。普通なら、もう二度と香椎舎で買物をしたくないって思うじゃないですか。でも、また注文してくれる。それは香椎さんが、ちゃんと仕事をしているからです」
カシオが、思わず顔を覆った。
小刻みに身体が震えている。その映像が、ヴィオレッタには見えた。
「わたし、ここにいてもいいの……?」
カシオの声が濡れている。
「ここにいる意味が、ちゃんとあるの……?」
縋るように、カシオが勇馬に問いかける。
「そこにいて良いですし、いてもらわないと困ります。ガチでヤバいクレームの対応できるの、香椎さんしかいないんですから。いや、本当に。ガチのクレームは難易度が高すぎます」
ちょっとおどけるように、勇馬が言った。
「……仕方ないわね」
カシオが流れる涙を拭う。
「間木くん」
「なんですか?」
「辞めないでね」
カシオの声に、勇馬が息を飲む。
「お客様の気持ちは、いつも声から汲み取っているんだけれど。ちょっと難しいなと思うこともある。でも、ここに来る社員の気持ちはいとも簡単に分かる」
「か、簡単……? どうして分かるんですか」
「足音でね、分かるんだ。歩き方に顕著に出るみたい。ダルそうに歩いているのは、きっと別館に来るのが面倒なんだろうな、とか」
言い当てられた勇馬は、気まずそうにうつむく。
「間木くんの前の運び屋さんは、いつもやけに急いでいたな」
「……そんなに、忙しくはないはずなんですが」
「たぶん、この別館が怖かったんだと思う。一刻も早くここから出たい! という感じで、書類や商品を置いたら、慌てて逃げて行くのよ」
「……『謎の社員』の話は、ちょっとホラーでもありますから」
苦笑いしながら、怖がりな社員を勇馬がフォローする。
「辞めそうな社員も、分かるんだ」
「……足音で?」
「うん。イヤなんだろうなって。つまんない仕事だもんね、こんなところに来るのは」
「間木くんも、そうでしょう? ごめんね……」
ぽつりと、彼女が寂しそうに言った。
「辞めませんよ」
きっぱりと、勇馬が扉の向こうに向かって宣言する。
「香椎さんの言う通りです。ここに来るの、『めんどくせーー!』って思ってました」
「うん」
「でも、辞めませんよ」
「……本当?」
「俺にしかできない仕事を見つけたんで」
勇馬が、ちょっと自慢気に胸を張る。
「そんな仕事、この世に存在するのか?」
モネが首をかしげている。失礼すぎるわんこだ。
「香椎さんにしかできない仕事があるように、俺にしかできない仕事があるんです」
「そうなの? どんな仕事?」
「……秘密です。そのうち教えてあげますよ」
「そのうちね」
ふたりの声が、とても柔らかい。
扉越しに会話するふたり。ちょっとだけ名残惜しかったけれど、ヴィオレッタは目を開けた。
その瞬間、ふたりの声がプツリと切れる。
「あぁ……! もうちょっと聞きたかったのに~~!」
モネが不満そうな声を漏らす。
「約束したでしょ?」
「そうだけどさ……」
残念そうに、しょんぼりとモネが肩を落としている。
「盗み見と盗み聞きが好きだなんて、まったく。しょうがない使い魔ね」
呆れながらヴィオレッタは、モネのふかふかな毛並みをサラリと撫でた。