勇馬が慌てて店を飛び出した、少しあとのこと。
「あら、忘れ物だわ」
ヴィオレッタは、レジ台に小さな包みが残されていることに気づいた。
包みの大きさからして、例の「謎の社員」から頼まれたケーキだ。
ヴィオレッタは作業場にいる大夏に、店番をするよう言いつけた。それから、エプロンの結び目をほどく。
「悪いんだけど、ちょっと届け物をしてくるから。そのあいだ、お店のことをお願いね。作業場と行ったり来たりで大変だけれど」
「任せてください! 作業場のほうは、あとは片付けをするだけでしたから。全く問題ありません」
笑顔で承諾する大夏とは反対に、モネは渋い顔をしている。
「わざわざ届けてやるのか? 忘れて行ったあいつが悪いのに」
「レジで死角になっていたとはいえ、すぐに忘れ物に気づかなかったのは、こちらの落ち度だもの。それに、せっかく作った可愛いケーキよ。食べてもらわないと困るわ」
「それは、そうだが……」
渋い表情のまま、モネがうなずく。
「それに、ちょっと興味もあるのよね」
「興味?」
「例の『謎の社員』のこと。秘密の部屋とか、合図のベルとか。すっごく、面白そうじゃない? 魔女の血が騒ぐわ……!」
ヴィオレッタは、瞳を輝かせている。魔女は総じて好奇心旺盛なのだ。
「確かに、俺もちょっとは気になるけど……」
「じゃあ、一緒に行きましょう! 間木様の話を聞きながら、だいたいの場所は見当がついてるのよ。行ってみたら、すぐに分かると思うわ」
ヴィオレッタは、うきうきとリードの準備をする。
それを見たモネが「げっ」と声をあげた。
「お、おい。ヴィオレッタ。まさか、歩いて行くなんて言わないよな……?」
「歩くのよ。決まってるじゃない。久しぶりの街歩きよ~~! 神戸って素敵な風景がたくさんあるから、歩いていると楽しいのよね。今日は小春日和だし、きっと気持ちが良いわ!」
浮かれるヴィオレッタを見て、モネがげんなりしている。
「ホウキに乗ろうぜ。魔女なんだからさ」
「モネは歩きたくないの?」
「当たり前だ。疲れるだろうが」
「仕方ないわね……」
ヴィオレッタは棚をガサゴソと漁り、布バッグのようなものを取り出す。
犬用のキャリーバッグだ。お出かけの際に役立つ優れもの。バッグの中にすっぽりとわんこを入れ、ななめ掛けができるようになっている。
実際にわんこを入れて装着すると、パッと見はただのショルダーバッグに見える。しかしよく観察すると、わんこの顔だけがひょっこり出ていて、可愛いのだ。
モネをバッグの中に入れ、忘れ物の包みを持ち、準備万端。ヴィオレッタは、意気揚々と出発した。
歩く必要がなくなったのに、なぜかモネはブスッとした顔のまま。
「どうかしたの?」
「俺、この犬用バッグ苦手なんだよな」
「あら、なぜ?」
「いかにも犬って感じだろ?」
「そうね」
「しかもこれ、居心地がわるいんだよな。ヴィオレッタが歩くたびに揺れるから酔いそうになるし」
「それじゃあ、歩く?」
念のため持って来たリードをちらつかせると、モネは無言でバッグの中に頭を引っ込めた。
ヴィオレッタは苦笑いしながら、テクテクと坂道を下っていく。
目指すの場所は「謎の社員」がいる香椎社の別館。旧居留地だ。
旧居留地(神戸外国人居留地)は、三宮の南側一帯に広がる。もともとは、神戸港が開港した際、神戸にやって来た外国人のためのエリアだった。
今も重厚感のあるビルディングが健在で、海外の街角のような風景を残している。
モン・プチ・ジャルダンがある北野異人館街からは、歩いて二十分ほどの距離だ。
しばらく歩くと旧レイン邸が見えてきた。華やかな門構えが特徴で、結婚式が出来る人気スポットでもある。
今日もウエディングパーティーが催されているようだ。
「モネ、見て。結婚式だわ」
ヴィオレッタの声掛けに、反応はない。
バッグの中を覗くと、なんとモネは寝ていた。それも、仰向けになって。かなり気持ち良さそうだ。
ハンモックでくつろいでいる人間のようにも見える。あれだけ「居心地がわるい」「酔いそう」と文句を言っていたのに……。
起きる気配がなさそうなので、ヴィオレッタは遠慮なくズンズン歩くことにした。思いっきり揺れているけれど、モネは相変わらずグウグウと寝ている。
メイン通りに入ると、観光客の姿が一気に増えた。この周辺には、まだ活気が残っている。少し歩くと、重厚なレンガ造りの外観が見えてきた。
ここは、旧トーマス邸。屋根上にある風見鶏が特徴的なことから「風見鶏の館」と呼ばれている。
ドイツ人貿易商の住宅として建てられ、今は国の重要文化財に指定されている。北野異人館街で、最も有名なスポットだ。
街路樹の葉が、風に揺れてサワサワと音を立てる。
思わず見上げると、濃い緑の葉が太陽の光を浴びて、気持ち良さそうに揺れていた。
続いてヴィオレッタの目に留まったのは、旧シェー邸。なんと、シアトル系カフェのコーヒーチェーン店になっている。白とグリーンのカラーで有名な、あのチェーン店だ。
外壁が白とグリーンで、塗り直したのかと思いきや、もともとこの色だったらしい。建物の中は、異国情緒あふれる雰囲気が残っている。
贅沢な気分でコーヒーを楽しむことができるから、店内はいつも観光客でいっぱいだ。
北(山側)のほうから、かなり南(海側)のほうにやって来た。坂道が終わると、三宮駅が見えてくる。
ここまで来ると、旧居留地まであと少し。
「ん……? ここはどこだ?」
寝ぼけた表情で、モネがひょっこりと頭を出す。
どうやら、駅前の賑わいで目が覚めたらしい。
「駅前よ。もうすぐ着くわ」
バッグの中でモネが、ぐいーーっと伸びをする。
「ずいぶん気持ち良さそうに寝てたわね。ゆりかごにでも入ってる気分だったのかしら」
ヴィオレッタの嫌味に気づくことなく、モネは呑気にあくびをしている。
「そうだな。今日は天気も良いし、最高の昼寝日和だ」
そんなこんなで、ヴィオレッタとモネは旧居留地に到着した。
さっそく、例の「謎の社員」がいるという別館を探す。
ヴィオレッタはマップを確認しながら、重厚な石造りのビルディングが立ち並ぶ通りを進む。しばらくすると、旧居留地の中でも特に印象的な「旧居留地38番館」が見えてきた。
現在は、百貨店として有効利用されている。建築されたのは昭和四年で、壁面には太い円柱の柱が何本か確認できた。このイオニア式円柱が、レトロさと重厚感を漂わせているのだ。
国内外のファッションブランドが路面店を構えるエリアを抜けて、少し進んだところ。石造りビルディングの隙間に、ひっそりと佇む二階建ての社屋があった。
人通りの多いエリアから少し離れているせいか、しんと静まり返っている。
「本当にここなのか?」
バッグから顔だけ出したモネが訝しそうな表情になる。
「間違いないわ。ほわ、ここに『香椎社・神戸別館』と書かれたプレートがあるもの」
「外から見ると、薄暗くて不気味なビルに思えるな。人間の気配がないぞ。無人じゃないのか?」
「たぶん『謎の社員』以外は、誰もいないのよ」
ヴィオレッタの足音が、エントランスにコツ、コツ、と響く。
「ごめんください。どなたか、いらっしゃいませんか?」
カーテンがかかった管理人室に向かって、ヴィオレッタは声をかけてみる。
返答はない。怖いくらいに、ビル全体が静まり返ったままだ。
「……返事がないんだから、あの方法を試すしかないわね?」
ヴィオレッタが、いたずらっ子のような笑みを浮かべる。
「ずいぶん愉快そうだな。それに『あの方法』とは、一体何のことだ?」
モネが不思議そうな顔でヴィオレッタを見上げる。
「あら、あなた忘れたの? 間木様が言っていたでしょう。『謎の社員』を呼び出す、秘密の合図があるって」
ヴィオレッタの瞳が、キランと光った。
「あ! あの『鍵を開けるベル』のことか?」
どうやら、思い出したようだ。
「わたし、手動式のエレベーターに乗ったことないのよね。間木様のお話を聞いてから、ずっと乗りたいと思っていたの!」
「ふうん。年寄りのくせに、乗ったことがないのか」
「ちょっと。わたしは魔女の中では、まだ若手なのよ?」
モネを軽く睨みながら、ヴィオレッタが異を唱える。
「まったく。勝手に年寄り扱いしないでよね……。あ、あった! これだわ!」
管理人室の窓を開けて、カーテンの向こう。そこに、なんとも古めかしいハンドベルが置いてあった。
「間木様の言った通りね。ベルには繊細な模様が入ってる。とっても綺麗だわ」
思わずヴィオレッタがうっとりしていると。
「おい、ヴィオレッタ。早く鳴らせよ。というか、俺が鳴らす!」
バッグの中から身を乗り出して、モネがベルに前足を伸ばす。
「モネに出来るの?」
ヴィオレッタは、モネにベルを渡しながら訊ねた。
「当たり前だろ。俺はただの犬じゃないんだぞ」
外見は犬にしか見えないモネが、器用に前足を使ってベルを掴む。そして……。
チリリリン! リリリーーン!
軽やかなベルの音が、ビル全体に響き渡った。
モネは「どうだ?」と得意気な顔をしている。はいはい上手ですよ、とヴィオレッタが適当にあしらっていたとき。
薄暗い廊下の奥から、ガチャリと音がした。
「きっと、エレベーターが開錠したのね」
ベルを元の場所に戻し、ヴィオレッタは廊下を進んだ。昼間とは思えないくらいに暗い。コツン、コツン、という自分の足音さえ、不気味に聞こえてくる。
廊下の角を曲がると、オレンジ色の光が見えた。
薄暗い中、そこだけぼんやりと輝くオレンジ色の光に誘われるように、ヴィオレッタは歩いていく。
「手動式のエレベーターだわ……!」
ヴィオレッタは、思わず声をあげた。