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第12話 旧居留地の社屋

 勇馬が慌てて店を飛び出した、少しあとのこと。


「あら、忘れ物だわ」


 ヴィオレッタは、レジ台に小さな包みが残されていることに気づいた。


 包みの大きさからして、例の「謎の社員」から頼まれたケーキだ。


 ヴィオレッタは作業場にいる大夏に、店番をするよう言いつけた。それから、エプロンの結び目をほどく。


「悪いんだけど、ちょっと届け物をしてくるから。そのあいだ、お店のことをお願いね。作業場と行ったり来たりで大変だけれど」


「任せてください! 作業場のほうは、あとは片付けをするだけでしたから。全く問題ありません」


 笑顔で承諾する大夏とは反対に、モネは渋い顔をしている。


「わざわざ届けてやるのか? 忘れて行ったあいつが悪いのに」


「レジで死角になっていたとはいえ、すぐに忘れ物に気づかなかったのは、こちらの落ち度だもの。それに、せっかく作った可愛いケーキよ。食べてもらわないと困るわ」


「それは、そうだが……」


 渋い表情のまま、モネがうなずく。


「それに、ちょっと興味もあるのよね」


「興味?」


「例の『謎の社員』のこと。秘密の部屋とか、合図のベルとか。すっごく、面白そうじゃない? 魔女の血が騒ぐわ……!」


 ヴィオレッタは、瞳を輝かせている。魔女は総じて好奇心旺盛なのだ。


「確かに、俺もちょっとは気になるけど……」


「じゃあ、一緒に行きましょう! 間木様の話を聞きながら、だいたいの場所は見当がついてるのよ。行ってみたら、すぐに分かると思うわ」


 ヴィオレッタは、うきうきとリードの準備をする。


 それを見たモネが「げっ」と声をあげた。


「お、おい。ヴィオレッタ。まさか、歩いて行くなんて言わないよな……?」


「歩くのよ。決まってるじゃない。久しぶりの街歩きよ~~! 神戸って素敵な風景がたくさんあるから、歩いていると楽しいのよね。今日は小春日和だし、きっと気持ちが良いわ!」


 浮かれるヴィオレッタを見て、モネがげんなりしている。


「ホウキに乗ろうぜ。魔女なんだからさ」


「モネは歩きたくないの?」


「当たり前だ。疲れるだろうが」


「仕方ないわね……」


 ヴィオレッタは棚をガサゴソと漁り、布バッグのようなものを取り出す。


 犬用のキャリーバッグだ。お出かけの際に役立つ優れもの。バッグの中にすっぽりとわんこを入れ、ななめ掛けができるようになっている。


 実際にわんこを入れて装着すると、パッと見はただのショルダーバッグに見える。しかしよく観察すると、わんこの顔だけがひょっこり出ていて、可愛いのだ。


 モネをバッグの中に入れ、忘れ物の包みを持ち、準備万端。ヴィオレッタは、意気揚々と出発した。


 歩く必要がなくなったのに、なぜかモネはブスッとした顔のまま。


「どうかしたの?」


「俺、この犬用バッグ苦手なんだよな」


「あら、なぜ?」


「いかにも犬って感じだろ?」


「そうね」


「しかもこれ、居心地がわるいんだよな。ヴィオレッタが歩くたびに揺れるから酔いそうになるし」


「それじゃあ、歩く?」


 念のため持って来たリードをちらつかせると、モネは無言でバッグの中に頭を引っ込めた。


 ヴィオレッタは苦笑いしながら、テクテクと坂道を下っていく。


 目指すの場所は「謎の社員」がいる香椎社の別館。旧居留地だ。


 旧居留地(神戸外国人居留地)は、三宮の南側一帯に広がる。もともとは、神戸港が開港した際、神戸にやって来た外国人のためのエリアだった。


 今も重厚感のあるビルディングが健在で、海外の街角のような風景を残している。


 モン・プチ・ジャルダンがある北野異人館街からは、歩いて二十分ほどの距離だ。


 しばらく歩くと旧レイン邸が見えてきた。華やかな門構えが特徴で、結婚式が出来る人気スポットでもある。


 今日もウエディングパーティーが催されているようだ。


「モネ、見て。結婚式だわ」


 ヴィオレッタの声掛けに、反応はない。


 バッグの中を覗くと、なんとモネは寝ていた。それも、仰向けになって。かなり気持ち良さそうだ。


 ハンモックでくつろいでいる人間のようにも見える。あれだけ「居心地がわるい」「酔いそう」と文句を言っていたのに……。


 起きる気配がなさそうなので、ヴィオレッタは遠慮なくズンズン歩くことにした。思いっきり揺れているけれど、モネは相変わらずグウグウと寝ている。


 メイン通りに入ると、観光客の姿が一気に増えた。この周辺には、まだ活気が残っている。少し歩くと、重厚なレンガ造りの外観が見えてきた。


 ここは、旧トーマス邸。屋根上にある風見鶏が特徴的なことから「風見鶏の館」と呼ばれている。


 ドイツ人貿易商の住宅として建てられ、今は国の重要文化財に指定されている。北野異人館街で、最も有名なスポットだ。


 街路樹の葉が、風に揺れてサワサワと音を立てる。


 思わず見上げると、濃い緑の葉が太陽の光を浴びて、気持ち良さそうに揺れていた。


 続いてヴィオレッタの目に留まったのは、旧シェー邸。なんと、シアトル系カフェのコーヒーチェーン店になっている。白とグリーンのカラーで有名な、あのチェーン店だ。


 外壁が白とグリーンで、塗り直したのかと思いきや、もともとこの色だったらしい。建物の中は、異国情緒あふれる雰囲気が残っている。


 贅沢な気分でコーヒーを楽しむことができるから、店内はいつも観光客でいっぱいだ。


 北(山側)のほうから、かなり南(海側)のほうにやって来た。坂道が終わると、三宮駅が見えてくる。


 ここまで来ると、旧居留地まであと少し。


「ん……? ここはどこだ?」


 寝ぼけた表情で、モネがひょっこりと頭を出す。


 どうやら、駅前の賑わいで目が覚めたらしい。


「駅前よ。もうすぐ着くわ」


 バッグの中でモネが、ぐいーーっと伸びをする。


「ずいぶん気持ち良さそうに寝てたわね。ゆりかごにでも入ってる気分だったのかしら」


 ヴィオレッタの嫌味に気づくことなく、モネは呑気にあくびをしている。


「そうだな。今日は天気も良いし、最高の昼寝日和だ」


 そんなこんなで、ヴィオレッタとモネは旧居留地に到着した。


 さっそく、例の「謎の社員」がいるという別館を探す。


 ヴィオレッタはマップを確認しながら、重厚な石造りのビルディングが立ち並ぶ通りを進む。しばらくすると、旧居留地の中でも特に印象的な「旧居留地38番館」が見えてきた。


 現在は、百貨店として有効利用されている。建築されたのは昭和四年で、壁面には太い円柱の柱が何本か確認できた。このイオニア式円柱が、レトロさと重厚感を漂わせているのだ。


 国内外のファッションブランドが路面店を構えるエリアを抜けて、少し進んだところ。石造りビルディングの隙間に、ひっそりと佇む二階建ての社屋があった。


 人通りの多いエリアから少し離れているせいか、しんと静まり返っている。


「本当にここなのか?」


 バッグから顔だけ出したモネが訝しそうな表情になる。


「間違いないわ。ほわ、ここに『香椎社・神戸別館』と書かれたプレートがあるもの」


「外から見ると、薄暗くて不気味なビルに思えるな。人間の気配がないぞ。無人じゃないのか?」


「たぶん『謎の社員』以外は、誰もいないのよ」


 ヴィオレッタの足音が、エントランスにコツ、コツ、と響く。


「ごめんください。どなたか、いらっしゃいませんか?」


 カーテンがかかった管理人室に向かって、ヴィオレッタは声をかけてみる。


 返答はない。怖いくらいに、ビル全体が静まり返ったままだ。


「……返事がないんだから、あの方法を試すしかないわね?」


 ヴィオレッタが、いたずらっ子のような笑みを浮かべる。


「ずいぶん愉快そうだな。それに『あの方法』とは、一体何のことだ?」 


 モネが不思議そうな顔でヴィオレッタを見上げる。


「あら、あなた忘れたの? 間木様が言っていたでしょう。『謎の社員』を呼び出す、秘密の合図があるって」


 ヴィオレッタの瞳が、キランと光った。


「あ! あの『鍵を開けるベル』のことか?」


 どうやら、思い出したようだ。


「わたし、手動式のエレベーターに乗ったことないのよね。間木様のお話を聞いてから、ずっと乗りたいと思っていたの!」


「ふうん。年寄りのくせに、乗ったことがないのか」


「ちょっと。わたしは魔女の中では、まだ若手なのよ?」


 モネを軽く睨みながら、ヴィオレッタが異を唱える。


「まったく。勝手に年寄り扱いしないでよね……。あ、あった! これだわ!」


 管理人室の窓を開けて、カーテンの向こう。そこに、なんとも古めかしいハンドベルが置いてあった。


「間木様の言った通りね。ベルには繊細な模様が入ってる。とっても綺麗だわ」


 思わずヴィオレッタがうっとりしていると。


「おい、ヴィオレッタ。早く鳴らせよ。というか、俺が鳴らす!」


 バッグの中から身を乗り出して、モネがベルに前足を伸ばす。


「モネに出来るの?」


 ヴィオレッタは、モネにベルを渡しながら訊ねた。


「当たり前だろ。俺はただの犬じゃないんだぞ」


 外見は犬にしか見えないモネが、器用に前足を使ってベルを掴む。そして……。


 チリリリン! リリリーーン! 


 軽やかなベルの音が、ビル全体に響き渡った。


 モネは「どうだ?」と得意気な顔をしている。はいはい上手ですよ、とヴィオレッタが適当にあしらっていたとき。


 薄暗い廊下の奥から、ガチャリと音がした。


「きっと、エレベーターが開錠したのね」


 ベルを元の場所に戻し、ヴィオレッタは廊下を進んだ。昼間とは思えないくらいに暗い。コツン、コツン、という自分の足音さえ、不気味に聞こえてくる。


 廊下の角を曲がると、オレンジ色の光が見えた。


 薄暗い中、そこだけぼんやりと輝くオレンジ色の光に誘われるように、ヴィオレッタは歩いていく。


「手動式のエレベーターだわ……!」


 ヴィオレッタは、思わず声をあげた。

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