数日後、不機嫌な新入社員が再びモン・プチ・ジャルダンにやって来た。
「もーー! マジでやってられない! 雑用ばっかさせられるし、ぜんぜん面白くない!」
彼は、
「大変ですね……。でも今は、研修期間なんでしょう? それが終わったら、きっと間木様も、大きな仕事を任せてもらえると思いますよ」
「研修期間が終わるまで、持たないかも……」
勇馬が肩を落としている。
「ふん! 堪え性のないガキだな。最近の若い奴は軟弱だ。けしからん!」
モネが勇馬を見ながら小言をいう。かなり年寄りじみた小言だけれど、モネは正真正銘の「長生き犬」なので、仕方がない。
「そんな風に言っちゃダメよ。間木様は今、初めて社会の荒波にさらされてるんだから」
「荒波? 本人の様子からして、ほぼ絶望的じゃないか?」
モネが、しょんぼりした勇馬に視線をやる。
確かに、ぺったんこになった彼の心情が透けて見える気がする。
荒波の中、遭難寸前のような感じだ。溺れそうになりながら、必死に小舟にしがみついているような……。
そんな勇馬は、ぼそぼそとヴィオレッタに愚痴を吐いた。
「俺は、本社勤務が良かったんですよ。でも希望が通らなくて。それで神戸支社勤務になって……。俺は、東京生まれの東京育ちなんですよ? 関西に住むとか、初めからムリだったんです」
レジ台に肘をつきながら、間木の愚痴が止まらない。
「俺は、お前みたいな奴がムリだけどな」
ヴィオレッタの足元で、モネがボソリとつぶやく。
「神戸は良いところですよ。夜景が綺麗だし、美しい街並みがあるし。中華街の肉まんも美味しいです」
神戸で洋菓子店を始めて、早や数年。すっかり神戸に馴染んだヴィオレッタが、地元愛を語る。
「……俺も、ここに来る前はそう思ってましたよ。オシャレで、華やかで、住みやすい街だって」
「実際に来たら、違ってたんですか?」
ヴィオレッタが訊ねると、間木が大きくうなずく。
「まず、坂道がムリです。俺、神戸に坂道のイメージとか、まるで無かったんですけど。やたら坂が多いじゃないですか。この店に来るのだって大変なんですよ! どれだけ坂道を上って来たと思ってるんですか」
疲れた顔で、勇馬がふくらはぎをさする。
「俺、足パンパンですよ」
「ふん、ひ弱な奴だな」
モネが鼻で笑う。
「特にひどい雑用の仕事があるんですよ」
勇馬が、疲労の色を滲ませながらため息を吐く。
ヴィオレッタは、聞いて良いものか迷いながら、遠慮がちに「どんな雑用なんですか?」と促してみた。
結果、促して良かったらしい。勇馬の口調に力がこもる。相当愚痴がたまっているようだった。
「神戸支社のすぐ近くに『別館』という建物があるんです。二階建てのビルで、もともとは倉庫だったらしいんですけど。しばらく使われていなかったそのビルで、数年前からひとりの社員が働いているんです」
「たった、おひとりで……?」
「そうです。変ですよね? お客様相談室に所属しているんですけど、お客様相談室は、ちゃんと神戸支店にあるんです」
「それなのに、その方だけ、別の建物にいると……?」
「そうなんです。謎でしょ? だから、皆は『謎の社員』って呼んでるんです。話した印象だと、暗ーーい感じですね」
「お話されたことがあるんですか?」
「雑用係ですから、俺。その女性社員の」
どうやら「謎の社員」というのは、女性らしい。声の感じから、おそらく二十代後半ではないかと勇馬は推察しているようだ。
「その方の雑用係というのは、具体的にどういうお仕事なんですか?」
「書類とか、マズい商品……たとえば、不具合があった商品とかですけど。クレームになった商品とか、これからクレームが発生しそうな商品の現物を運ぶんです。俺が、別館まで」
書類などは、たいていデータでやり取りをするものの、一部は紙ベースで閲覧する場合があるらしいのだ。クレームの電話やメールに対応するため、不良品が出たらすぐに部署内で共有しているという。
「俺は、総務部なんですよ? 部署が違うのに、若手だからって雑用をさせられて。おまけに、別館がまた意味不明だし……」
勇馬がうなだれる。声も弱々しいので、ヴィオレッタは心配になった。
「意味不明というのは、どういうことなんですか?」
「ちょっと薄暗いビルなんですよ。不気味なくらいに、ひとの気配がなくて。エントランスには、管理人室があるんですけど。誰もいないんです。ずっと無人で、カーテンも閉まってて。そのカーテンの向こうに、ハンドベルが置いてあるんですよ。やたら凝った模様のハンドベルです。それを鳴らすと……」
「……な、鳴らすと?」
なんだか、怪談でも聞いているような感じになってきた。
ヴィオレッタとモネ、その背後では大夏までもが、固唾を飲んで勇馬の話の行方を見守っている。
「音がするんです。廊下の奥のほうから。やけに仰々しくて、重たい『ガチャッ』という金属音が響いてくるんですよ」
ヴィオレッタとモネ、大夏が無言でうなずく。
「音の正体は、鍵が開いた音なんです。エレベーターが手動式で。いやもう、令和の時代に手動式のエレベーターって何? って感じなんですけど。とにかく時代物で、謎に鍵がかかってるんです。そのエレベーターに乗って二階に行くと、奥に『お客様相談室・分室』と書かれた扉があるんです」
どうやら、エレベーターを使用しないと二階には行けないらしい。『お客様相談室・分室』の扉は、一部がすりガラスになっており、ひとの気配を感じるというのだ。
「その扉は、ぜったいに開けちゃいけないんです」
先輩社員や上司から、何があっても開けるなときつく言い含められたらしい。
「でも、いい加減、俺だって腹立つじゃないですか」
「いや、腹は立たないが……?」
モネが、真剣な顔で勇馬に言う。もちろん、モネの声は聞こえていないのだけど。
「だから俺、開けてやったんですよ」
ヴィオレッタは、なんだか背筋が寒くなった。
大夏も同じらしい。青い顔で「幽霊とかじゃないよな……」とつぶやいている。
モネは、ひたすら呆れ顔だ。
「そ、それで……? どなたか、いらっしゃったんですか?」
ヴィオレッタは、おそるおそる間木に聞いてみた。
「誰もいませんでした」
「でも、気配を感じたんですよね?」
「はい。絶対に誰かいたはずなんです。その証拠に、飲み物が温かかったんです」
デスクにはマグカップが置いてあり、湯気が立ち上っていたらしい。
「パソコンの画面には、書きかけの日報があって。かなり不自然なところで終わってましたから。俺が部屋に入る寸前に『謎の社員』は、部屋から消えたんだと思います」
「き、消えた……?」
やっぱり、怪談だ。ホラーだ。
ヴィオレッタは、ブルッと身震いをした。
「結局、決まりを破って部屋に入ったこともバレて。上司には怒られるし、散々ですよ」
勇馬は「あの陰険上司め……!」と、くちびるを尖らせる。
「規則を守れないなら、サラリーマン勤務はムリだな」
一度も社会経験などないのに、モネが知った風な口をきく。
「それ以降、俺は『謎の社員』が大キライなんですけど。俺がこの店におつかいに行っていることを、どこからか聞きつけたらしくて。ついでに自分のぶんも買って来いとか言いやがるんですよ……!」
勇馬がワナワナと震える。かなり怒っているらしい。
「そして憎らしいことに、かなり有能らしいんです……!」
「有能?」
「そうです。お客様相談室なんで、クレームの対応をするんですけど。こっちで対応できない相手……たとえば、相手がめちゃくちゃ怒ってるとか、なかなか電話を切ってくれないとか。そういう『ヤバい相手』を別館に回すんですよ」
「そ、それで……?」
気になったヴィオレッタは、勇馬にたずねた。
モネも興味津々なようで、食い入るように話を聞いている。後ろの大夏も。
「しばらくしたら、対応完了の連絡が来ます。納得させて、相手から電話を切らせるんですよ」
「すごいですね……!」
感嘆するヴィオレッタとは反対に、勇馬は不満そうだ。
「いつか俺も有能な社員になって、おつかい係から卒業します。それで後輩をアゴで使ってやるんだ……!」
「自分がされてイヤなことは、しないほうが良いんじゃないか?」
モネが尤もな意見を述べる。勇馬には届かないけれど。
ヴィオレッタは『謎の社員』からの注文を確認する。正体不明のホラーな社員であっても、お客様には違いない。包みを開けた瞬間から、素敵な気分に浸ってもらいたい。
「その方の好きなハーブとか、ご存知ないですか? 小さなブーケを飾りで付けているので、もしご要望があれば……」
「知りませんよ。何でもいいです。というか、飾りとかいらないです。春の新商品? 何て言ってたっけ? あ、そうそう。桜のケーキでしたっけ? それが食べたいだけだと思うんで」
勇馬も、モネと似た感性の持ち主のようだ。
「……そうですか」
ヴィオレッタは張り付いた笑みで返事をしながら、しっかりとブーケの飾り付けはしておいた。これがモン・プチ・ジャルダン流なのだ。
「げえ。上司から着信だ」
ヴィオレッタがケーキの包みを渡す寸前、勇馬のスマートフォンが鳴った。
勇馬は電話に出て、しばらくすると通話を終えた。
「ちょっと長居しちゃったみたいですね。叱られちゃいました」
てへっと舌を出す。勇馬がやると、不思議と可愛げを感じる。
これは間違いなく武器だろう。使えるのは、新入社員である今だけかもしれないけれど。
「じゃ俺、社に戻ります! またおつかいに来ると思うんで。そのときはまた話、聞いてください」
叱られたはずなのに、そんなことを言いながらバタバタと勇馬が店を出ていく。
「まったく、忙しない奴だな! 」
呆れたように、モネが扉に向かってブスブスと鼻を鳴らした。