店に入って来たのは、スーツ姿の青年だった。
初めて見るお客様だ。整った顔立ちで、かなり若く見える。
真新しいスーツだし、ちょっと着慣れない感じもする。もしかしたら、この春、社会人になったばかりかもしれない。
「ここって、モン……ジャン? なんとかって店で合ってます?」
スマートフォンを片手に、お客様がキョロキョロと店内を見まわす。ちょっと疲れたような、苛立っているような。そんな雰囲気だった。
「そうです。ここは、洋菓子店『モン・プチ・ジャルダン』でございますよ」
「……はぁーー! やっと着いた。マジで分かりにくいんだけど」
ネクタイを緩めながら、お客様が大きなため息を吐く。構って欲しいタイプのため息ではなく、正真正銘の「ダルい」感じが出ている。
「申し訳ございません。この辺りは細い路地が多くて、目立つ建物もありませんから」
「洋館を改築した店って聞いてたからさ。すぐに分かると思うじゃん。でも来てみたら、そこらじゅう洋館だらけなんだもん」
「本当に、申し訳ございません」
お客様の横柄な態度を気にした様子もなく、ヴィオレッタはニコニコと謝罪をする。
ヴィオレッタの足元では、モネが憤怒の表情になっていた。
「なんだ! このクソ生意気な人間は! ここは北野異人館街なんだから、洋館がたくさんあって当然だろ。バカ! 無知のくせに威張るな! 人間の分際で魔女に楯突くとは良い度胸だな。火あぶりにしてやるぞ! お前なんて丸焼きだ!」
物騒なことを叫ぶ使い魔に苦笑いしながら、ヴィオレッタは接客を続ける。
「ご注文はお決まりですか?」
「……これ。欲しいんだけど」
お客様がスマートフォンの画面をヴィオレッタに見せる。
アプリのメモに、焼き菓子やプリン、ケーキなどのリストがあった。
そのラインナップを見て、ヴィオレッタはピンときた。
「もしかして、
香椎舎は、生活雑貨を扱うチェーンストアだ。
全国に店舗を展開しており、ネットストアにも力を入れている。
現在は東京に本社があるけれど、もともとは神戸の居留地に本店を構えていた。
「確かに、俺は香椎舎の社員だけど……。何で分かったんですか」
「よくご利用いただくんです。なんでも、重役の方が当店のお菓子をたいへん気に入ってくださっているとかで。神戸支店には、ときどき視察に来られると聞いています。うちのお菓子があれば、その重役の方は終始ご機嫌なんだとか。それで、社員の方がうちによくお見えになるんです」
ヴィオレッタが説明していると、青年の眉根がギュッと寄っていく。
「チッ」
青年が軽く舌打ちをした。
「なんだよ。完全に子どものおつかいじゃん。わざわざ俺が来なくたって、誰にでも出来る仕事なのにさ」
レジ台に寄り掛かるようにして、青年が肘をつく。
それを見たモネが、フガフガと鼻息を荒くする。
「ふん! 誰でもできる仕事だから、上司はお前に頼んだんだろうが。なーーにが、子どものおつかいだよ。おつかいに来る子どもは、もっと可愛げがあるぞ! お前は可愛げ皆無。欠片もない。これっぽっちもない! 気配すらなし! ゼロだ!」
思いっきり、ベエーー! と舌を出している。もともと鼻ぺちゃなので、かなりの変顔になっている。
ヴィオレッタは吹き出しそうになりながら、つとめて平静を保った。リストにある商品を手際よく箱に詰めていく。
モン・プチ・ジャルダンは、包材にもこだわっている。ラッピングはもちろん、ご自宅用の簡素な包みでも、お客様から思わず「可愛い」と声が漏れるほどなのだ。
たとえば、焼き菓子の詰め合わせボックス。麻紐でボックスを十字に縛り、ドライハーブのブーケを挿したら、華やかで可愛いラッピングの出来上がり。
モン・プチ・ジャルダンでは、どんなに小さな包みにもドライハーブを添えている。ユーカリの小枝をひとつ挿すだけでも、ぐっと美しくなるのだけれど……。
「どーも」
美しさと可愛さが混在する包みを前にしても、青年はこれといった反応を見せなかった。
ヴィオレッタから商品を受け取り、くるりと踵を返す。そうして、ダルそうな足取りで店を後にした。
扉が閉まる際、カラン、コロンとドアチャイムが鳴った。なんだか、いつにも増してやる気がない音だなと、ヴィオレッタは思った。
✤
一日の労働を終えたヴィオレッタは、二階の住居スペースにあるふかふかのソファに身を沈めていた。
うつ伏せの体勢でクッションを抱き締めながら、ほっと全身の力を抜く。
「今日もたくさん働いたわ……」
気を抜くと、自然と瞼が重くなってくる。
「ふん! 俺は、あの生意気なクソガキに苛立った一日だったぞ」
プンプンとモネが怒る。
ぼんやりと昼間の青年の顔が頭に浮かんだ。疲れた顔をしていた。きっと、社会人になったばかりで、慣れない仕事に追われているのだろう。
横たわるヴィオレッタを踏まないよう気をつけながら、モネがのしのしとソファの上を歩く。
目を閉じたまま、ヴィオレッタは浅い呼吸を繰り返した。眠ってしまえそうだけれど、きっとうまく眠れない。そんな感じがする。
「ねぇ、モネは、体がざわざわすることある?」
「ざわざわ?」
「落ち着かない感じよ。上手に眠れないの」
たぶん、知らないあいだに心と体が疲弊している。どんなに好きな仕事でも。楽しいと思っていても。働くということは、たぶんそういうことだ。
「うーーん。あ、腹に物がたまってないと、俺は寝れないな。空腹感で気持ち悪くて、どうにも落ち着かない。そういうとき、どしっと重たいものを食べると、安心してスッーーと睡眠に入れるんだがな」
食いしん坊なモネらしい意見だ。
「今日は、たくさん食べる気分じゃないのよね……」
こういうとき、ヴィオレッタを癒してくれるもの。
それは、ハーブたちだ。
琺瑯のたらいに湯をはり、フレッシュハーブを入れる。それだけでフットバスが完成するのだ。
ヴィオレッタは、心地よいハーブの香りを想像した。湯につかりながら、ハーブの香りに包まれる。なんとも贅沢な癒しの時間……。
「わたし、今からフットバスをするわ!」
ヴィオレッタは目をぱちりと開け、ガバッとソファから立ち上がった。
勢いが良すぎたせいで、隣でくつろいでいたモネがソファからずり落ちていく。
「あぁ~~!」
無防備な体勢のまま、モネがフローリングに着地する。
「おい、ヴィオレッタ! 危ないだろ!」
モネがひっくり返ったまま憤る。クッションと一緒に落下したので、まったくの無傷のはずなんだけれど。
ヴィオレッタはさっそく、たっぷりの湯を沸かした。琺瑯のたらいを引っ張り出し、フレッシュハーブを投入する。くるぶしが浸かるくらいの湯を注ぎ入れ、さし水をしながら温度を調節していく。
だいたい四十度くらいが良いと言われているけれど、ヴィオレッタは細かく温度を気にしたことはない。ちょっと熱いかな? というくらいが好きだ。
裸足になり、ちょんちょんとつま先で温度を確かめる。
「うん、これくらいが良いわね」
ソファに腰かけ、両足をたらいに入れる。
フレッシュハーブの香りに包まれ、思わず「ふっーー!」と声が漏れた。
ヴィオレッタが選んだフレッシュハーブは、カモミール、レモンバーム、ローズマリーの三種類。
カモミールは、フルーティーで甘い香りがする。心も身体もリラックスさせてくれるような、やさしい香りだ。
レモンバームは、すっきり爽やか。嗅いでいると爽快な気分になる。
ローズマリーは、シャキッとした香り。少量でも強く香るので、他の二種よりは少なめで良い。血行促進作用があるといわれているから、むくみやすいひとにはおすすめのハーブだ。
凝り固まった体が、ほどけていくような感覚になる。
全身がじんわりと温かくなって、心地よい。何より香りに癒される。
「気持ち良いわ~~!」
最高の癒し時間。自分へのご褒美。
「明日もがんばれそうよ……!」
夢見心地でリラックスしていると、モネの鼻息が聞こえた。
フガフガと何かを訴えている。
そういえば、頭の中に流れ込んでくる言葉を意図的に遮断していた。リラックス効果を最大限にするためだ。
モネの声に耳を傾けると……。
「おい、ヴィオレッタ! 聞いてるのか? 無視するなよ! 俺は腹が減ったんだ! 肉が食いたい。骨付ラムをソテーしろ。ソースはぜったいに多めだぞ。バルサミコソースがバシャバシャかかってるやつじゃないとダメだからな!」
食へのこだわりが強すぎる使い魔だ。
面倒くさいメニューだなぁと思っていたら、モネはさらにサラダや付け合わせについても希望を述べ始めた。
「付け合わせはジャガイモ一択だ。ゴロッとした揚げたてのやつ。ハーブ塩で食べるんだ。間違っても、あま~~い人参なんかにするなよ」
モネが心底イヤそうな顔で人参を拒否する。モネの言う「あま~~い人参」というのは、おそらく人参グラッセのことだろう。
付け合わせの定番だし、作り方もシンプルなのでヴィオレッタは好きなのだけど。
「それからサラダは、トマトとアボカド! ぜったいに粒マスタードのドレッシングにしてくれよな!」
粒マスタードとオリーブと酢。それから塩コショウで味を調えたこのドレッシングが、モネのお気に入りなのだ。
グルメな使い魔を満足させるのは大変だ。
でも、想像したら美味しそう……。
ヴィオレッタのお腹が、きゅるるると鳴った。
どうやら、フットバスに癒された結果、食欲が完全復活したようだ。無性に食べたい。たくさん食べたい。
「仕方ないわね。モネのお望み通り、作れば良いんでしょう?」
そう言ってヴィオレッタは、琺瑯のたらいから足を出したのだった。