すみかが引き受けてくれたおかげで、おはなし会の日程が決まった。
いろいろと準備を重ねて、明日の日曜日、いよいよ本番のおはなし会が開催される。
ヴィオレッタは、子どもたちのために可愛いクマの形をしたクッキーを作ることにした。素朴だけれど、さっくりとした食感がおいしいクッキーだ。
そのクマのクッキーをひとつずつ透明な袋に入れて、カラフルなリボンで結ぶ。子どもたちへのプレゼントを、ヴィオレッタは早朝から作業場でこしらえていた。
今は、ひと段落ついたところ。粗熱がとれたクッキーを、大夏と一緒に袋詰めしている最中だった。
「可愛いわ~~!」
クッキーを袋に詰めながら、あまりの可愛さにヴィオレッタは悶える。
「子どもたちにプレゼントするのが楽しみですね。きっと喜んでくれますよ」
大きな手で器用にリボンを結びながら、大夏が笑う。
明日は、モン・プチ・ジャルダンは臨時休業にする。皆で、すみかのおはなし会に駆けつける予定なのだ。
「ふん! なにがクマのクッキーだよ。クマなんかより、ぜったいに犬のほうが良かった!」
モネの不満が、ヴィオレッタの頭の中に流れ込んでくる。
「そう? このクッキーすごく可愛いわよ?」
「犬のほうが可愛い」
「まぁ、モネがそこまで言うなら、次はわんこにしようかしら。おはなし会は、定期的に開催するみたいだから」
「よし!」
モネが舌を出しながら、うれしそうにエヘヘと笑う。
「わんこね……。やっぱり、トイプードルとかかしらね。ふわふわの可愛い感じのクッキーになりそうだわ」
ヴィオレッタは、頭の中でモネと会話を続ける。
「トイプードル!? そんなのは却下だ。もっと可愛いのが他にいるだろ」
モネが太めの前足で、ダンッと床を蹴る。
「え、他に……? あっ、そうね。ポメラニアンなんかも可愛いわね」
「違う!」
「じゃあ、マルチーズ?」
「ぜんぜんダメだ!」
ダンダンダンッと両方の前足で地団駄を踏む。
ヴィオレッタは仕方なく手を止め、大夏に聞いてみる。
「ね、大夏くん。可愛いわんちゃんでイメージするのって、どの犬種かしらね」
「犬はどの子も可愛いですよ!」
満面の笑みで答える。
いかにも大夏らしい答えだ。
「一般的には、小型犬が飼いやすくて人気だと思うんだけれど」
「俺は大型犬が好きですね。思いっきり抱き締めてモフモフしたいです。小さいわんこだと、なんか怖がられそうな気がするので」
「犬は人間の本質をすぐに理解するから、大夏くんを怖がる子はいないと思うわ」
「そうなんですか! 犬って良いですね!」
ヴィオレッタと大夏が盛り上がっていると……。
「俺だよ!」
ヴィオレッタの頭の中に、プンプンと怒ったモネの声が響いた。
「え、ペキニーズ……?」
「そうだよ! まったく、薄情な魔女だ。使い魔の姿形を一番に候補として挙げるべきなのに……! よりにもよって、くるくるくせっ毛のトイプードルなんかを真っ先に思い浮かべるなんてな」
フンフンと鼻息を荒くしながら、モネが憤る。
「モネ、どうしたんだ? 腹が減ったのか?」
やさしい大夏が、モネの様子を見かねて声をかける。
「おい、大夏! お前ちょっと人間のくせに生意気だぞ! 俺を犬扱いしやがって! 俺は犬の格好をしているだけで、中身は使い魔なんだからな! 魔法だって使えるんだからな」
フガフガとさらに鼻息が荒くなる。
「大夏くん、大丈夫よ。構ってもらえないから怒ってるだけ。まったく、仕方のないわんちゃんね」
ヴィオレッタが肩をすくめる。
ぷんすか怒るモネを放置したまま、ヴィオレッタは大夏と一緒に、引き続き作業を進めたのだった。
✤
神戸には古書店が多く存在する。
店ごとに趣が違っており、古書店巡りを楽しむひともいるくらいなのだ。
レトロなビルの二階に店を構えていたり、まるで迷路みたいな細い路地裏に店があったり。店構えはもちろん、取り扱う商品もそれぞれにも個性が光る。
糸で閉じられた和綴り本や、版画を置く店。古い映画のパンフレットを取り揃える店。神戸にまつわるありとあらゆる書物を扱う店。カフェを併設している店や、定期的に個展を開催する店など。
倉知が営む古書店「ツナグ書林」は、
乙仲通は、神戸市中央区の栄町通と海岸通の間を東西に通っている約八百メートルの道のこと。
実際に歩いていると、ふいに遠い昔にタイムスリップしたかの様な錯覚に陥る。レトロモダンな町並みが続いているのだ。
アーチ窓がおしゃれなビルディングや、アクセサリーショップ、ビストロ、コーヒーショップ……。懐かしいような、思わず胸がときめくような通りになっている。
乙仲通の名前の由来は、「乙仲」と呼ばれた海運貨物取扱業者が、ここに軒を連ねていたから。
ツナグ書林は、レトロモダンなビルの一階にテナントとして入っている。間口は狭いけれど、奥行きがある。
棚いっぱいに本と雑貨が並んでいる。おもちゃ箱をひっくり返して、ひとつひとつきれいに並べ直したようなお店だった。
奥にはキッズスペースが設けられており、子どもたちが自由に本を読めるようになっている。そのキッズスペースに、今日は小さなイスがずらりち並べられていた。
集まった子どもたちは、すでに着席している。皆がちんまりと座っている様子は、なんとも可愛らしい。
保護者たちは、少し離れたところに座っている。ヴィオレッタと大夏の席も、大人たちのすぐ近くだ。
「緊張しますね」
ヴィオレッタの隣で、大夏が落ち着かない様子でつぶやく。
「大夏くんが緊張してどうするの。絵本を読むのは朝野様なのに」
モネを抱きながら、ヴィオレッタが苦笑いする。
「それは、そうなんですが……」
かなり落ち着かない様子だ。キョロキョロと店内を見まわしたり、持って来たお菓子の袋を確認したりしている。
「こいつは、関西弁でいう『緊張しい』というやつだろ」
モネが横目で大夏を見ながら、ブシュッと鼻を鳴らす。
「緊張しい」というのは、「緊張しやすいひと」という意味だ。ささいなことが気になるひとは「気にしい」、余計なことをしがちなひとは「いらんことしい」と呼ばれる。
「おそらくだけど『気にしい』でもあるわよね。大夏くんって」
「間違いない」
モネが、ニヘッと口角をあげて笑う。
ちなみに、このお店はペット同伴OKだった。マナーなので、もちろんモネは首輪をしている。リードで繋いで、いかにも「わんこ」という出で立ちだ。首まわりが太いので、ちょっと苦しそうではある。
そうこうしているうちに、準備が整ったらしい。スタッフルームから、すみかが登場した。
木製のチェアに腰かけ、ゆっくりと絵本を開く。
おはなし会が始まると、子どもたちは真剣な表情になった。落ち着きがなかった子も、今はじっとして、物語に集中している。
すみかの緊張感が、ヴィオレッタにも伝わってきた。もともと伸びやかできれいな声をしているのに、今日はかなり上擦っている。ページをめくる手が、わずかに震えている。
ヴィオレッタは、固唾を飲んですみかを見守った。それは大夏も同じらしかった。最初から最後まで、膝の上に置いた拳をぎゅっと固く握りしめていた。
物語が終わって、子どもたちの拍手に包まれる。
すみかは、大きくふっと息を吐いた。
ヴィオレッタも緊張感から解き放たれた。何もしていないのに、ドッと疲れた気がする。
放心状態になっていると、モネがヴィオレッタを「おい」と呼ぶ。
「なぁに?」
「ヴィオレッタと大夏は、難しい顔をし過ぎだ。せっかくの楽しい話だったのに」
「朝野様が心配だったのよ。モネは楽しめた?」
「もちろんだ!」
すみかが選んだ絵本は、海の物語だった。魚たちが、楽しく冒険をするお話だ。
「さてと。持って来たお菓子を子どもたちに渡さなくっちゃね」
ヴィオレッタが、席から立とうとしたとき。
ひとりの男の子が、すみかのほうへ近づいていく。
「な、なんだ……?」
トコトコ、と歩いて行くのを見て、モネが訝しげな表情になる
男の子は、クリッとした大きな瞳ですみかを見た。そうして。
「いたい?」
舌ったらずな声で、男の子がすみかにたずねる。
「お顔、いたい?」
男の子の言葉の意味が分かって、周囲の大人は息を飲んだ。
空気がピシッと張りつめる。
ヴィオレッタは、心臓が止まりそうになった。
「痛くないよ」
すみかが、男の子を見ながら微笑んだ。
「心配してくれてありがとう。痛そうに見えるかもしれないけど、ぜんぜん痛くないんだよ」
おっとりとした彼女の声に、周囲の人々はホッと胸を撫でおろした。もちろん、ヴィオレッタも。
安堵していると、ふいにすみかの声が、ヴィオレッタの頭の中に入ってきた。
『昔は、痛かった』
『アザのことを言われると、アザじゃなくて胸が苦しいくらいに痛かった』
『でも、もう大丈夫』
『痛くない』
『本当に、もう痛くない』
とても優しい、穏やかな声だった。