「いらっしゃいませ」
「庭仕事の途中でしたか。邪魔したかな」
「とんでもないです。少し、外の空気を吸いたくなっただけですから」
ヴィオレッタに抱かれているモネにも、倉知は軽く微笑んで挨拶をする。
「こんにちは」
モネは、ブシュッと鼻を鳴らして返事をした。
実際は「胡散臭いくらいに紳士だな、相変わらず」と悪態をついているのだけど……。
「こら、お客様に何てこと言うの」
倉知に聞こえないように、ヴィオレッタは頭の中でモネを叱る。
「相変わらず、素敵な庭だね」
庭のあちこちに視線をやりながら、倉知が感嘆している。
「ありがとうございます」
「どのハーブも青々として、元気そうだ」
「毎日、一生懸命にお世話していますから」
庭に出ない日はない。種類ごとに、微妙に肥料の配合を変えたり、土づくりにこだわったりして、愛情をこめて育てている。
おかげ様で、どの株もグングンと成長中だ。ちょっと足の踏み場もないくらいに、ハーブたちでいっぱいになっている。
一面が緑の庭だけれど、よく見ると色んな緑がある。質感もそれぞれ違う。ツヤツヤしていたり、ザラザラしていたりする。表面に産毛が生えている品種もある。
入口から店へと続く道は、歩きやすいよう石畳になっている。
庭から店内に戻ると、大夏とすみかが談笑していた。すっかり打ち解けた雰囲気に安堵する。
どうやら、すみかはウィークエンドシトロンを購入してくれたようだ。
大夏がていねいに箱に詰めている。
それを見た倉知が「おや」と反応を見せる。
「ウィークエンドシトロンですか」
「新商品なんです。よろしかったら、試食しませんか?」
「とっても、おいしかったですよ」
すみかが、遠慮がちに倉知に告げる。
彼女と倉知は、モン・プチ・ジャルダンで何度か顔を合わせたことがある。
「それは楽しみだな。ぜひ、お願いします」
「かしこまりました」
ヴィオレッタが、試食の準備をしていると、倉知は少し改まった雰囲気で「実は」と話し始めた。
「少し、ご相談がありまして」
「なんでしょう?」
「古書店のほうで、子ども向けのおはなし会を開催しようかと考えているんです」
耳馴染みのない「おはなし会」というワードに、ヴィオレッタは少し首をかしげる。
「えっと、そのおはなし会というのは、いわゆる『読み聞かせ』みたいなものですか?」
「そうです。最近、少しずつ子ども向けの絵本を仕入れるようになりまして。それで、販促もかねて何かイベントをしようと考えていたんです」
倉知が経営する古書店は、めずらしい古書を多く取り扱っている。
ベストセラーの初版本や、有名作家のインディーズ作品。詩集や短歌はもちろん、紀行やエッセイ本まで。書籍だけではなく、雑貨まで店頭に並んでいる。こじんまりとした店内に、所狭しと商品が並んでいるのだ。
「素敵なイベントですね」
「ありがとうございます。それで、来てくれた子どもたちにお菓子をプレゼントしたいと思いまして。ぜひ、モン・プチ・ジャルダンのお菓子を渡したいなと考えているんです」
ヴィオレッタの胸が、ドキンと高鳴った。
焼き菓子をひとつひとつ袋詰めして、子どもたちに配る計画らしい。
可愛い焼き菓子を作りたい。受け取ったとき、子どもたちが笑顔になるような。素敵でおいしいお菓子を作りたい。できたら、パッケージにもこだわって……!
想像するだけで、ヴィオレッタのドキドキは増していく。
「とっても、嬉しいです! ぜひ、お引き受けします!」
「良かったです」
倉知が、ホッと表情を緩める。
「ただ、少し困ったことになっていまして……」
「困ったこと?」
「実際に絵本を読んでくれる予定だった方が、体調を崩されてしまって。日程がなかなか決まらないんです。毎月一度は開催したいと考えていたんですが……」
倉知は、すっかり困り果てているようだった。
「そうなんですか」
日程が決まらなければ、具体的な話合いができない。
どうしたものかと、ヴィオレッタが頭を悩ませていると……。
ブシュッと鼻を鳴らしながら、モネが足元にまとわりついてきた。
「どうしたの?」
頭の中で、モネに語りかける。
「ふたりの様子、見てみろ」
「ふたり……?」
ぐるりと店内を見わたすと、明らかにソワソワした様子の大夏がいた。すみかのほうに視線をやったり、外したり。また彼女を見たかと思えば、天井を見上げたり。
「明らかに挙動不審ね」
「だろ?」
すみかは、何かを迷っているような感じだった。言いかけてはやめ、しばらくして意を決したかと思えば、ぎゅっとくちびるを噛み締める。
ヴィオレッタは、思い切ってすみかに声をかけた。
「朝野様、どうかなさいましたか?」
「え? あ、あの……」
すみかが、ビクリと大きく肩を揺らす。
「わ、わたし……。その……」
なかなか次の言葉を言い出せないすみかに代わって、大夏が口を開いた。
「朝野様、以前は図書館に勤務していたそうなんです。それで……」
大夏が、ちらりとすみかのほうを見る。
「わ、わたし、図書館司書をしていたんです……。」
すみかが、ポツリとつぶやいた瞬間。
倉知の表情がパッと明るくなった。
「だったら、ぜひ読み聞かせの代役をお願いできませんか?」
「でも、わ、わたし一度も、やったことはなくて……。だから、う、上手くできないと思います……!」
すみかが慌てて首を横に振る。
そんなすみかに、そっと大夏が語りかけた。
「さっき、ふたりで話してたとき、俺に教えてくれたじゃないですか。本当は読み聞かせをしたかったって。出来なかったこと、すごく後悔してるって。他の司書さんみたいに、自分だって読み聞かせをしたかった。でも人前で話すことが怖くて、どうしても勇気が出なくて。逃げてしまって……。それで結局、図書館司書もやめてしまって。大好きな仕事だったのにって……」
彼女の顔を覗き込むようにして、必死に訴えている。
「小さな子たちに、たくさん絵本を読んであげたかったんですよね……?」
すみかは口を閉ざしたまま、じっとうつむいている。
「やっぱり、不特定多数の人間に見られるのはダメみたいだな」
モネの声が、頭の中に流れ込んでくる。
本当に、そうだろか。
それが彼女の本心なのだろうか。
ヴィオレッタは、そっと目を閉じた。
心を穏やかにして、頭の中を空っぽにする。耳を澄ましながら声を探す。
しばらくすると、頭の中に音が流れ込んでくる。かすかな音。それは、すみかの声だ。
『わたし、上手にお話できるのかな』
『大夏さんとお話して、怖いっていう気持ちは薄れたけど……』
『ずっと人前に出ること避けてきたから、うまくお話ができる自信がない』
『失敗したらどうしよう』
不安そうな声。それから、怖がっている声。
心の声を聞きながら、すみかの本当の気持ちを探す。
『わたしのせいで、お店に迷惑がかかっちゃうかもしれない』
『せっかく来てくれた子どもたちを、ガッカリさせちゃうかも』
『本当は、本当は、すごくやりたいけど……!』
見つけた。彼女の気持ち。
ヴィオレッタは人差し指を立てた。そして、タクトを振るみたいに小さく円を描く。
うつむいていたすみかが、そっと顔をあげた。そして……。
「わたし、やりたいです。子どもたちの前で絵本を読んでみたい……!」
はっきりと、すみかが言った。
大夏が、大きく息を吐いた。ホッとしながら肩で息をしている。
「魔法を使ったな」
モネの指摘に、ヴィオレッタは小さくうなずく。
「自分の気持ちを言葉にして伝える魔法よ」
ごくわずかな魔力の消費で済んだ。
とても小さな魔法だったのは、彼女の気持ちが強かったから。ヴィオレッタは、ほんの少しだけ背中を押すだけで良かったのだ。