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第6話 ふたりの声を聞く

 ウィークエンドシトロンの発売開始から一週間が経った。


 ショーケースの中で、その輝きは未だ褪せない。見れば見るほど可愛くて、美しい。


「すべてがパーフェクトね。愛らしいわーー! ずっと見てても飽きないんだもの」


 ショーケースの中を眺めながら、ヴィオレッタの心はうきうきと弾んでいる。


「いや、さすがに飽きるだろ。先週からずっとそうやってるじゃないか。そもそもケーキは見るもんじゃなくて、食べるものだよ」


 モネはひたすら冷めた顔をしていた。 


「アイシングが垂れて雫になっている部分が、特に芸術品なのよね。美しいペンダントライトみたいだわ」


 うっとりしていると、背中を向けていた入口のドアが開いた。


 ドアベルの音と同時に「こんにちは」と静かな声が聞こえる。


「いらっしゃいませ!」


 ヴィオレッタが振り向くと、すみかが立っていた。


 いつもより心なしか、俯き加減な気がする。


 でも、彼女はマスクをしていなかった。アザの部分をスカーフで覆うことをせず、帽子も被っていない。


「新商品があるんですけれど、良かったら味見してみませんか?」


 ヴィオレッタは、すみかに笑いかけた。


「え、良いんですか……?」


「もちろん!」


 食べやすい大きさに切り分け、小さなカップに入れて彼女に手渡す。


 すみかは、そっと口に運んだ。


 口に入れた瞬間、パチリと瞬きをした。 


「おいしい……! すごくおいしいです! 甘酸っぱい……。とても甘いのに、とっても爽やかで。これ、なんというケーキですか?」


「ウィークエンドシトロンです。先週からお店に並んでいるんですよ。たくさん試作をして、来月にはお店に出せたら良いなって考えていたんですけど。スタッフに試食をしてもらったら、すごく褒められて。嬉しかったから、すぐ店頭に出しちゃったんです」


「……スタッフさんって、このあいだの男性の方ですか?」


 すみかの声のトーンが、わずかに低くなった。


「ええ、そうです」 


「わたし、前回ここに来たとき、彼にとても失礼な態度をとってしまったんです。一度も目を合わせずに、ずっと下を向いたままで……」


「うちのスタッフも、あなたと同じことを言っていました」


「え?」


 予想外だったのか、すみかは驚いたように顔をあげた。 


「自分のせいで、お客様がイヤな思いをしたんじゃないかって。あなたがいらっしゃった日、彼はあの後、とても落ち込んでいたんです」 


「そんな、どうして……?」


 分からない、といった様子で彼女がかぶりをふる。


「彼、自分の顔が怖いことを気にしてるんです。身体も大きいから、相手に恐怖心を与えてしまったことが、過去にあったみたいで。だから、あなたを怖がらせたんじゃないかって心配しているんです」


「え、そんな。わたし、ぜんぜん気にしていません……! というより、自分のアザのことが気になって、スタッフさんの顔をちゃんと見ていませんでした!」


 必死に言い募るすみかを見て、ヴィオレッタは作業場にいる大夏を呼んだ。


 背中を丸めながら、大夏が店のほうへ姿を現す。


「今ね、朝野様にウィークエンドシトロンをおすすめしているところなのよ。わたし、庭のほうを見てくるから。ちょっとお願いできるかしら」


 にっこりとヴィオレッタが笑うと、大夏はちょっとだけ表情を引きつらせながらも「はい」と返事をした。


「有無を言わせぬ笑顔だな。庭に行く用事なんて、本当はないくせに」


 足元にいるモネが、ボソッと小声でつぶやく。


 そんなモネを抱えて、ヴィオレッタは裏口から庭に出た。


 晴れた空と庭のグリーンの鮮やかさに、ヴィオレッタは目をすがめる。


 庭を歩きまわると、春の陽気の中でハーブたちが、嬉しそうに葉をグングンと伸ばしているのが分かった。ヴィオレッタは深呼吸をして、ハーブの香りを含んだ清涼な風を肺いっぱいに吸い込んだ。


「本当に良い天気ね~~!」 


「ヴィオレッタ、静かにしろよ」


 腕の中にいるモネが、ヴィオレッタを軽く睨む。


「どうしたの?」


 よく見ると、モネの真っ白な耳がピクピクと動いていた。おそらく、魔力を使ってふたりの会話を聞いているのだろう。


「あら、盗み聞き? ずいぶんと趣味が悪いのね」


「人聞きの悪いことを言うなよ。もしものためなんだから」


「もしもって?」


 ふたりきりにしたのは何か問題があったのだろうかと、ヴィオレッタは考え込む。


「ケンカとか」


「するわけないじゃない」


「大夏がレジ操作を誤るとか」


「しっかり使いこなせてたわよ」


「あとは……」


「やっぱり、ただの盗み聞きじゃない」


 ヴィオレッタが、呆れたようにため息を吐く。


「いや、だから! ……もしかしたら、魔法の力が必要かもしれないぞ? ほんの少し手助けしてやるだけで、上手くいくことだってある」


 言い訳に聞こえるけれど、確かにそうかも……? と思う部分もあって。正直、あまり気乗りはしなかったけれど、ヴィオレッタはそっと耳を澄ました。


 かすかに聞こえてくる。ふたりの話す声。


『このあいだは、変な態度を取ってしまってごめんなさい……』


『あ、いや……! 俺のほうこそ、びっくりしましたよね。いきなりこんな大男が現れて。顔も怖いし……』


『いえ……。びっくりしたのは事実ですけど。それは、モン・プチ・ジャルダンにはヴィオレッタさんとモネくんしかいないと思っていたので。予想外にあなたがいて、それで驚いただけで。あなたの身体が平均よりも大きいとか、顔立ちが強面だとか、そういうことではないんです』


 ヴィオレッタが予想していた通りの会話が、頭の中に流れ込んでくる。


『あれから、ずっと考えてて、朝野様のこと。余計なお世話だと思うんですけど……』


 大夏が、ちょっと言い淀む。


『はい。何でしょう……』


『あの、たとえばなんですけど。朝野様が髪の長いひとだったとします。それで、ある日突然、その長い髪を切ったら……。周囲の人間は驚くと思うんです。次の日も、なんとなく慣れない感じがすると思います。でも、しばらくするとそれが当たり前になって。「髪を切った朝野様」という認識ではなくて「ただの朝野様」として見るようになる。……アザのことも、そういうことじゃないかと思うんです』


 たどたどしく、けれど一生懸命に大夏が言葉を紡いでいる。声を聞くだけで、ヴィオレッタにはそれが分かった。


「……こいつ、たとえ話が下手過ぎるだろ」


 モネが腕の中で、渋い顔になっている。


『なくなったわけじゃない。存在しているけれど、見えなくなるというか……。たとえ話が下手ですみません』


「いや、本当だよ。下手だぞ、たとえ話が」


 悪態をつくモネに、ヴィオレッタは「シッ」と口を閉ざすよう合図を送る。


『いえ、よく分かります。本当に、とてもよく分かります……』


 すみかの声が潤んでいる。


 声帯が震えているような声だ。あと、ほんのわずかでも感情が高ぶったら、感情が決壊してしまうような。そんな声が聞こえた。


「泣かせやがったな……」


 モネがムッとしたような顔をする。


「そういう涙じゃないわよ?」


 悲しいではなく、もちろん怒りでもなく。


「ふんっ! それでも、泣かせたことには違いないんだよ」


「はい。もうおしまい」


 どうやら、魔法の力で何かできることはないらしい。


 ヴィオレッタは、モネの両耳をむぎゅっと抑えた。そのとき。


「すみません」


 背後から声がした。落ち着いた男性の声。


 ヴィオレッタが振り返ると、見知った顔が笑顔で会釈をする。


倉知くらち様!」


 この倉知という男性も、モン・プチ・ジャルダンの常連のお客様だ。


 確か、年齢は四十代半ばだと聞いた気がする。神戸の乙仲通りで古書店を営んでおり、読書のお供になる焼き菓子を求めて、週に一度のペースで店に足を運んでくれている。

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