モン・プチ・ジャルダンは、神戸市北野にある洋菓子店だ。
こぢんまりとした店で、海の見える高台に建っている。敷地は細い路地に面しており、そこから神戸の市街地を望むことができる。
白い壁と赤い屋根が特徴の洋風建築で、一階が店舗、二階は住居スペースとして活用している。
店名は「わたしの可愛い庭」という意味。
その名の通り、季節によって様々な花が咲く。庭全体には、数えきれないほどの種類のハーブが植えられている。
今は三月の終わり。カモミールやラベンダー、ローズマリーといった春のハーブたちが、さわさわとそよ風に揺れていた。
北野は、住宅地域であり観光地でもある。明治から大正にかけて建てられた異人館が、今も数多く残存しているからだ。
街のあちこちで、異国情緒あふれる風景を楽しむことができる。
大通りから少し離れていることもあり、モン・プチ・ジャルダンの店内には、ゆったりと落ち着いた時間が流れていた。
店主であるヴィオレッタは、朝から開店の準備に追われている。
数種類のお菓子を作って、それからサッと店舗をきれいにして。開店準備ひとつとっても、意外にやることがある。
商品を並べたり、包材の在庫を確かめたり、釣銭を確認したり。毎日の庭の手入れも、ヴィオレッタにとって大切な仕事のうちのひとつだった。
「営業時間が短いのって、お客様にとっては不便よね。オープンは十一時で、クローズドは十七時。もうちょっと長くお店を開けたいんだけど……」
ショーケースにケーキを並べながら、ヴィオレッタはひっそりとため息を吐いた。
「わたしがひとりで営業しているから、仕方がないんだけれどね」
「おい、ヴィオレッタ。今『わたしがひとりで』と言ったか? ひどいじゃないか。俺の存在を忘れてるぞ」
低い声がヴィオレッタの頭の中に響く。
声の主を探すと、ショーケースの反対側にいた。真っ白でツヤツヤした毛並み。首回りはどっしり、顔は鼻ぺちゃ。ペキニーズという犬種だ。名前はモネ。
「あら、何も間違ってないでしょう? モネが手伝ってくれたことなんて、ただの一度もないじゃない」
「手伝ったことはないけど。俺という存在そのものが癒しだろ? 見ろよ、この愛らしい姿を」
ニカッと笑いながら、モネがゴロンと床に寝転がる。
短くて太い前足が露わになった。ペキニーズの特徴のひとつだ。この短い足で必死に走る姿は、唯一無二だと思う。がに股で、身体を横に揺らしながらのローリング走行。鈍くさそうに見えるけれど意外と速いその姿は、たしかに癒しかもしれない。
思わず脱力してしまうのだ。笑顔にもなれる。多少のイヤなことなら、忘れてしまえるくらいの効力が、ペキニーズにはあると思う。
「まぁ、ペキニーズといっても、使い魔なんだけれどね……」
考えていたことが、そのまま声になっていたらしい。
「ヴィオレッタだって、人間に見えるけど魔女じゃないか」
モネがぶすっとした顔になる。
「……この会話方法って、便利なんだけど。ときどき面倒ね」
ヴィオレッタは肩をすくめた。
魔女と使い魔は、声に出さなくても会話ができる。魔女には秘密が多い。だから他人に聞かれないように、使い魔とのやり取りは、ほとんどがこの会話方法だ。
頭の中で思うだけで、相手にメッセージが送れる。とても便利で機密性が高い。
けれど油断していると、今みたいに伝えたくない言葉まで聞かれてしまう。なかなかに厄介だった。
ヴィオレッタが動く度に、ブロンドベージュの長い髪が揺れる。ゆるくウェーブしているのは、くせっ毛だから。
シミひとつない真っ白な肌、美しい湖のような青い瞳。ルージュなしでも赤く艶やかなくちびる。
誰が見ても、ヴィオレッタは二十歳そこそこの容姿をしている。けれど、実年齢はもっと上だ。
「もう良い年だよな」
鼻ぺちゃ顔が、目を細めてニヒヒと笑う。
「失礼ね。魔女年齢でいうと、まだ妙齢よ」
ひらりと靡くワンピースは、淡いグリーンの生地で縫ったもの。白いレースのエプロンも、ヴィオレッタが手縫いした。
ケーキをすべて並べ終え、ヴィオレッタは正面にまわった。
ピカピカに磨かれたアンティーク調のショーケース。その中に、キラキラと光る宝石のようなケーキたち。
イチゴのミルフィーユは、とにかく断面が美しい。パイとカスタードクリームとイチゴ、それぞれの層を見ているだけで心が躍る。
桃のタルトは、贅沢に桃を半分ほど使用している。ころんとした丸いフォルムが可愛い。桃の表面には、ナパージュをハケで塗っている。
ナパージュとは、お菓子の表面をツヤツヤにしてくれる透明なジュレ状のもの。ツヤツヤでおめかしをたおかげで、最高に可愛い桃のタルトが完成している。
ショートケーキはシンプルで美しい。繊細な生クリームのひだは芸術品だ。アラザンと呼ばれる装飾用の銀色の粒を散りばめ、上品でクラシカルなケーキに仕上がっている。
「美しい? 断面が可愛い? 俺には分からん。意味不明だ」
寝転がったままのモネが、ヴィオレッタの足元で体を揺すっている。
「手作りするとね、ひとつひとつが愛おしくなるのよ」
「魔法で作ればいいだろ。時短になるぞ」
「分かってないわね。手間をかけるから良いのよ。時間をかけることで、可愛い! 愛おしい! って思うの。魔法を使ってちゃ、こうはいかないわ!」
「変わった魔女だな」
仰向けの状態で、モネが呆れている。
ヴィオレッタは、昨日売れた分のマドレーヌとフィナンシェをディスプレイ棚に補充した。
「これで準備完了よ。今日もお店を開けるわ!」
ヴィオレッタが人差し指を立てる。そして、タクトを振るみたいに小さく円を描く。
遠くで、カラン、と音がした。
店舗を出て、庭を抜けて。敷地の入口にある白い門柱には、木製のプレートがかかっている。リバーシブルのプレートだ。さっきまで「CLOSED」だったのが、今は「OPEN」になっている。
「それだけは魔法でやるんだな」
「これだけはね。あとは、ぜ~~んぶ、手仕事よ!」
腰に手を当てて、ヴィオレッタが自慢げに言う。
「やっぱり、変わった魔女だ……」
目を細めながら、モネがブシュッと鼻から息を吐く。
モン・プチ・ジャルダンは、手作りにこだわり抜いた魔女による洋菓子店なのだった。