唇と唇が離れる。レオンはアイリスの頬を優しく手で撫でる。アイリスは勇者の手を愛おしく手で包み込む。
「アイリス。俺を異界送りにしてくれ。最初の計画だとダッチが候補だったけど……」
「本当、いつもいがみ合っていた貴方たちだったもんね。私の計画を聞いた時にはダッチを異界送りにしてやる! って意気込んてたくせに……」
この世界から魔王を完全に消す。そのためには勇者の力、いや、勇者パーティの誰かの身体が必要だった。魔王の力をその者の身体の中に封じ込める。
魔王と戦える勇者パーティの身体ならば、魔王の力に対抗できる。勇者レオンと賢者アイリスはここまでの旅路で、それに偶然、気づいてしまった。
勇者たちは魔王討伐の旅の途中、大精霊ロビンに会いにいく。彼女の加護を受けるためだ。それと同時に言葉を交わした。
大精霊ロビンは語った。「異界送りは、世界の禁忌に触れる最後の手段」だと。それが勇者と賢者にさらなる悟りをもたらした。
魔王を完全に消す方法とは『異界送り』だった。その事実を勇者と賢者だけは知っていた。戦士と僧侶にはこのことを話していない。
それもそうだろう。戦士か僧侶の身体に魔王を移植して、彼らを異界送りにしてしまう計画だったからだ。これは2人だけの秘密だった……。
「本当にいいのね? ダッチじゃなくて、貴方で」
「ああ。俺にアイリスの未来を守らせてくれ」
「本当、こういう時は格好つけね、レオンは……でも、そんな貴方だからこそ」
「まあな! 俺は格好つけたがりだ!」
レオンは立ち上がる。その瞳には確かな意思が宿っていた。左腕を包むアームカバーを脱ぎ捨てる。半分に折れてしまった剣を手に取り、それを左腕の肘部分へと強引に突き刺す。
「ぐあぁぁ!」
剣の刃が肉を抉る。血が噴き出した。痛みが全身を駆け巡る。鈍い汗が顔いっぱいに溢れる。
「俺は……」
肉の繊維がブチブチと音を立てて、切断されていく。鋭い痛みに襲われ、視界が揺れる。
「俺は……勇者だ……。こんな痛みに負けて……たまるかっ!」
折れた剣で左腕を切り離そうとした。しかし、痛みに耐えきれなくなり、レオンは気が遠くなっていく。床に片膝をつき、ついにはそこで動けなくなってしまった。
「何……やってんだ!?」
ここにきて、ようやく戦士ダッチと僧侶セルベンスが起き上がった。彼らがこちらへと駆け寄ってきた。彼らの顔は驚きの色になっている。彼らの顔を見ながらレオンは告げた。
「ダッチ、俺の左腕を……切断してくれ」
「お前!? 何言ってんだ!? 魔王とやりあって、正気に戻っちまったのか!?」
「ははは……いつもの俺らしくないよな。これは魔王をこの世界から完全に消すために必要なこと……なん……だ! 頼む!」
ダッチの眉間に皺が寄っている。彼は後ずさりしながら、アイリスへと顔を向けた。ダッチの視線を受けたアイリスがダッチに向かって、こくりと頷いてくれた。
レオンは痛みに苦しみながらも、アイリスに感謝する。
「ちっ! わかったよ。でも、あとでちゃんと説明しろよ?」
「頼む、ダッチ。ひと思いにバッサリと斬ってくれ……」
レオンの左の腕先は筋肉の支えを半分失っており、ぶらんとぶら下がっている状態だった。その腕先を僧侶が両手で持ってくれた。
レオンの前にダッチが立つ。その手には鞘から抜いたばかりのロングソードが握られている。ダッチがその剣を上から下へと素早く動かした。チンッという剣を鞘に収める音が聞こえる。
「俺に勇者様を斬らせるんじゃねえよ……」
「ありがとうダッチ」
「んで? 次はどうするんだ?」
レオンは床に転がる魔王の左腕を指さした。ダッチの視線を誘導する。ダッチは「はぁ……」と深いため息をついた。レオンは息絶え絶えになりながらも苦笑してしまう。
本当にどうかしている。自分でもそう思ってしまう。ダッチもそう思っていることだろう。ダッチが後頭部をぼりぼりと掻きながら、床に落ちている魔王の左腕を拾い上げていた。
魔王の左腕は結晶化していた。魔王の魔力がその一点に凝縮した結果がそれだ。それはヒトの腕のサイズにまで縮小していた。さらには煌々と紫色の淡い光を放っていた。
「それを俺の左腕にくっつけてくれ」
「まじ……かよ。正気じゃない。いつも以上に狂ってる」
「そう……かもな。俺は狂ってるんだ」
ダッチがこちらから視線を移動させた。彼は再び、アイリスのほうを見た。アイリスがまたもやコクリと静かに頷いている。ダッチががっくりと肩を落とした。
「たっくよぉ……。とんでもない役目を押し付けやがって」
「ダッチなら、やってくれるだろ?」
「これは貸しだからな? あとでしっかり返せよ」
ダッチが魔王の左腕をこちらの切断された左腕の面へと合わせてくれた。それと同時にアイリスが自分の方へと近づいてくる。
彼女の目には涙はもう流れていなかった。その代わりに確固たる意志が宿っているのが見えた。
「フル・ヒール」
彼女の感情が回復魔法とともに流れてくる。
(バカ、アホ、死んでしまえ。私ひとりを置いていく自尊心の塊。身勝手極まりない。貴方は勇者じゃない。愚者よ。ひどい言われようだ……)
賢者の回復魔法により、紫色の結晶化した魔王の左腕と自分の左腕が結合された。痛みは途端に消えた。不思議な感覚に襲われる。
左腕自体がどくん……と静かに鼓動していた。魔王は自分と繋がったというのに不自然なくらいに大人しい。
しかし、そのレオンの考えは一瞬にして吹き飛んだ。結合部分から魔王の力がどんどん、自分の身体の中へ、えもしれぬ快感とともに入り込んでくる。
顔がとろけそうになってしまった。頬を自分の手でひっぱたいて、正気を保とうとした。
「大丈夫? おかしなところとかない?」
アイリスの顔から、彼女が不安になっているのが見てわかる。アイリスが心配してくれているというのに、欲情が腹の底から湧いてくる。
こんなエッチな気持ちが昂る時は関係無いことを考えるに限る。特に数学のことを考えるのが1番だ。アイリスと視線を交わしながらも、頭の中で複雑な数式を縦横無尽に走らせた。
「アイリス。魔王は観念したようだ。俺の中で静かに眠ってくれている」
アイリスの眉間に皺が寄っている。彼女は信じてくれていないようだ。
「本当に大丈夫? 顔がいつも以上にゆるんでるわよ」
「うえ? そんなに?」
「うん……今はシリアス真っただ中だっていうのに」
魔王は自分の身体の中で暴れるだけ暴れている。正直言って、すごく苦しい。アイリスの顔を見ているだけで押し倒してしてしまいたくなるくらいにエッチな気持ちが溢れてきている。
それでも彼女を安心させるためにも、顔をきりっとさせ、さらにはその場でぐるぐると左腕を回してみせる。
そして、胡散臭いレベルでにっこりと微笑んでみた。アイリスは「ふぅ……」と何かを諦めたような息を吐いている。
「ダッチ、セルベンス。力を貸して。レオンを異界送りにする」
「ああ!? アイリス、それはどういうことだよ!? レオンと同じく狂っちまったのか?」
「承服しかねます! やっと繋がりましたよ! 魔王とレオンさんを異界送りすることで、この世界から完全に魔王を消し去るのですね!?」
ダッチだけが気づいていなかったようだ。ダッチが一度、こちらに顔を向けてきた。申し訳なく感じて、ダッチから視線を外してしまった。
「くっそぉぉぉ! レオンはダメ勇者のレッテルを貼られるとこまで落ちたけど、それでも今まで頑張ってきたじゃねえか! こんな結末で本当にいいのかよ!? なあ、セルベンス!」
「自分も同意できません……。こう見えて、レオンはレオンなりに頑張ってきたのです。でも、2人はもう決めたようです。それなら、これ以上、何も言えません」
「レオン、アイリス……。本当にいいんだな!?」
ダッチに問いかけられ、自分はアイリスの方へと顔を向けた。アイリスの心はもうすでに決まっているようだ。彼女の瞳がそう告げている。
「これから異界送りの儀式を始めるわ。レオンの意思が勝ってるうちに、儀式を終わらせる」
「……ったく。お前ら、お似合いだよ。そうと決めたら、テコでも動かねえ。手伝えることがあるなら、遠慮なく言ってくれ」
ダッチはついに観念した。ダッチは床に転がっている瓦礫をどかす。
(ダッチ、ありがとうな。本当はお前にこの役目を押し付けたかったけど、俺が最後に一番いいところを持っていく)
セルベンスが渋々ながらもアイリスの指示通りに、アイリスとともに魔力で床に魔法陣を描いていく。
(セルベンス。口酸っぱい助言や耳が痛い諫言には幾度もイラっとして、ダッチじゃなくて、お前を異界送りにしたいと思ったこともあった。それでも、ありがとう。俺がいなくなったら、ダッチとアイリスのことを頼む)
レオンは仲間のことを思いながら、ひたすら呼吸を整えた。魔王と繋がった左腕を中心として、ゆっくりとではあるが、魔王とひとつになっていく感覚に襲われた。
「ぐぅぅぅ」
それと同時に高揚感が少しづつ、湧き上がってきていた。結晶化した腕が脈動するたびに、自分ではない別の意思が宿るような感覚がした。
(魔王アーロゲント。お前にこの世界を渡すつもりはない……。一緒に異界へと旅立つぞ)
◆ ◆ ◆
瓦礫が撤去され、さらには魔法陣が完成した。レオンはその魔法陣の真ん中に鎮座する。自分から見て、三方に賢者アイリス、戦士ダッチ、僧侶セルベンスが立っている。
「レオン。貴方のことは一生涯忘れないわ。バカが勇者気取りで、魔王とともに異界に旅立ったって……」
思わず、苦笑してしまった。アイリスに恨まれてしまった。仕方ないとしか思えなかった。それほど愚かな選択をしてしまったのだ、自分は。
「アイリス、愛してる」
アイリスからの返事はない。当然とも言えた。彼女は怒りが宿る瞳でぶつぶつと詠唱を唱えている。
それに合わせて、ダッチもセルベンスも詠唱を唱え始めた。魔法陣を象る線が魔力によって光輝きだす。
次の瞬間には魔法陣から天に向かって、光る円柱が伸びていく。身体に浮力を感じた。それと同時に安心感も訪れる。
「レオンのバカァ……」
「アイリス……」
アイリスは怒っているかのように見えていた。実際は違った。必死に涙を堪えていたのだと判明した。自分も自然と涙を流していた。寂寥感で胸がいっぱいになった。
「いつまでも貴方のことを思い続ける。そして、生涯、独身を貫く」
「ありがとう。信じてるからな? ダッチにほだされるんじゃないぞ?」
「そんなわけないじゃない。ダッチは私の好みじゃない」
「そうだったな……筋肉自慢の男は大嫌いって言ってたもんな。それじゃ、行ってくる」
「行ってらっしゃい……。私の愛したひと……。この世で一番大切なひと」
視界が光によって、ぼやけてくる。アイリスに向かって、大きく手を振った。アイリスは泣きじゃくっている。その場でへたり込んでいる。
彼女の泣き声がだんだん遠くなっていく……。彼女の姿も薄れていく。
(世界よ。どうか、アイリスを守ってほしい。ダッチと絶対にくっつけないでほしい。それが俺のやり残したことだ……)
レオンは完全に光に包まれた。この世界から消える。魔王とともに。だが、それでも、アイリスにできる全てのことをやりきった。