「晋以殿……」
しばらく顔を合わせていなかったが、久方ぶりに見た姿に恐ろしさが甦る。
令劉に助けられ、愛され、恐怖は薄れたとはいえ消え去るほどには時が経っていない。
震えそうになる手を小刀を握ることで抑えた。
「おや? 蘭の暗殺者殿は私のことをご存じで? お会いしたことはなかったと思いますが」
「……」
(私のことを忘れている?)
嘘をついているようには見えない。
また、嘘をつく理由もない。
本当に忘れている様子に、令劉の催眠術が確かに効いたのだと理解した。
「ああ、でも私はずっと期待していましたとも。他国から嫁いできた公主ならばあなたのような方を一人くらい連れてきているだろうと。このように人を殺せる機会が久方ぶりに来るだろうと……ふふ、ふふふっ」
薄気味悪く嗤う晋以にゾッとする。
そういえば催眠術を強く掛けると精神に異常を来すと聞いたが、そのせいなのだろうか?
晋以のことをそれほど知らない明凜には、元からなのかどうかの判別は付かなかった。
「おのれ……こしゃくな真似をする!」
「きゃあ!」
暗殺されかけたと知った皇帝は、怒りにまかせ翠玉の髪をわし掴む。
美しく儚げな翠玉の顔が、痛みで歪んだ。
「晋以よ、その鼠をさっさと始末するのだ。朕はこの小娘をゆっくりなぶり殺してくれる」
「ひっ!」
凶悪な笑みを浮かべた皇帝に、翠玉は短く悲鳴を上げる。
流石の翠玉も、今回ばかりは本気で震えていた。
(くっ……どうする? 最悪僅かにでも皇帝に隙が出来れば殺すことは出来る。でも、きっと私も翠玉も助からない)
「ある意味優しくしてやる手間が省けたと言うものだ。楽しんだら、首を切り蘭に送り返してくれよう」
「あ、ああ……」
涙を流し、ガクガクと震える翠玉。
大事な妹の哀れな姿に、明凜はギリッと奥歯を噛んだ。
「陛下もお楽しみですか。では私も楽しませてもらいましょう。……ああ、どんな風に殺しましょうか?」
「くっ!」
晋以に阻まれ、翠玉の元まで行けそうにない。
皇帝暗殺の術は念のためともう一つ潜ませてはいたが、翠玉があの状態では……。
(翠玉は守りたかったけれど、仕方ないわ)
覚悟を決め、明凜は小刀を皇帝めがけて投げつけた。
キンッ
「させるわけがないでしょう?」
小刀は晋以に弾かれてしまったが、目の前まで迫った危険に皇帝は僅かに怯む。
翠玉の髪を掴んでいた手が緩んだところで、明凜は鋭く叫んだ。
「翠玉! 使命を果たすのよ!」
「っ!」
暗殺者ではなく、侍女でもなく、姐として告げた。
蘭国の皇帝の血を受け継ぐ者として、この使命は全うしなければならない。
それは翠玉とて同じだ。
明凜の叫びに翠玉は皇帝の手から逃れ、臥床の隅に潜ませていた籠を手に取ると蓋を開け皇帝に投げつけた。
「何だ!?」
皇帝はすぐに腕で籠を払ったが、中にいるものは皇帝の肩に降り立つ。
籠の中身は翠玉の蜘蛛だ。
ただし、この儀国に来てから集めた可愛らしい蜘蛛ではない。
蘭から持ってきた、翠玉の
遠い地から来た行商人が、どこからか翠玉が蜘蛛を好むと聞いて珍しい蜘蛛だと売りつけたものだ。
猛毒があり危険ではあったが、その頃には儀へ嫁ぐことが決まっていたため使えるかもしれないと購入した。
無論、餌の調達などは明凜の仕事であったが。
その猛毒を持つ蜘蛛が皇帝の肩を這う。
皇帝が気付いたときには、蜘蛛は彼の首へその牙を突き立てていた。
「ぐっがあぁあ!!」
激痛に苦しむ皇帝に、晋以がすぐに動く。
蜘蛛は切られ床に落ち、ピクピクと長い足を震わせた。
同時に明凜も動く。
翠玉の元へ行き、抱き締める。
晋以がいる以上明凜も翠玉も殺されてしまうだろう。
ならば、せめて震える妹を一人にしたくなかった。
この蜘蛛の毒には血清がない。
皇帝は毒に苦しみながら数日のうちに確実に死ぬ。
皇帝暗殺という使命は全うしたのだ。
後のことは父である蘭皇帝が上手くやってくれる。
「ぐ、うぅっ……殺せ、こやつらを殺せぇ!」
血走った目で狂ったように叫ぶ皇帝に、晋以が感情の抜け落ちた顔で小刀を構え直す。
その兇刃が明凜に向けられた瞬間、脳裏に令劉の姿が過った。
美しく、妖しく、深い情を空色の目に宿らせ自分を見つめてくる男。
愛され、明凜自身も愛する男。
愛しい男の幻影に、明凜は小さく「ごめんなさい」と呟いて目を閉じた。
待っていてくれと言われたが、この皇帝暗殺の好機だけは逃すわけにはいかなかったのだ。
何を置いても全うしなければならない使命だったのだ。
だから死ぬこと自体に後悔はない。
あるとすれば、自分が死んでしまうことであの愛しき吸血鬼がまた長い時を一人で生きなくてはならないことだろうか。
だが、令劉の言葉通りなら生まれ変わればまた会えるのだ。
自分とは違うかもしれないが、同じ魂を持つ者として。
だから、待っていて。
そう言葉を紡ごうとしたとき――。
バァン!
大きな音を立て房の戸が開いた。
音に驚き目を開いた直後、目の前で刀身が一線する。
剣を振ったのは闇を纏っているかのような黒。
鴉を思わせるその男は、長い黒髪を一つにまとめ武具を身につけていた。
見慣れぬ格好に驚くが、それは確かに令劉だった。