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吸血鬼①

 比較的落ち着いた雰囲気の紫水宮を後にし、煌びやかな装飾が施された他の宮の前を通り抜ける。

 かと思えば草木の多い後宮の端を歩きながら、どこへ向かっているのだろうと明凜は思った。


(……というか、拒否することが出来なかったとはいえ本当に付いてきて良かったのかしら?)


 今更ながら不安になった。


 普通の娘とは違い鍛えている明凜は、賊などに襲われたとしても自力で対処出来ることがほとんどだ。

 それ故にあまり警戒せず付いてきたが、この鴉のように美しくずる賢い宦官には通用しなかったのだということを思い出す。


 昨夜房に連れ込まれたときの身体能力は人の範疇を超えていたように思う。

 女官の血を啜っていたこともそうであるし、令劉という男は本当に人なのだろうか?

 血を啜るというと昔話でしか聞いたことのない僵尸きょうしを思い浮かべるが、“倒れる死体”と言われている様なものと令劉が同じとは思えなかった。


(それに、この男は宦官ですらないのよね?……し)


 なぜ切り落としてもいない者が宦官として後宮に出入りしているのか。皇帝は知っているのか。

 気になるところではあるが、うかつな問いは出来ない。

 血を啜っていたことも、宦官ではないことも、知っているのは昨日の賊であり明凜という侍女ではないのだ。

 何を聞かれても、素知らぬふりをするしかない。


 ……だが、昨夜のように迫られてしまった場合はどうすれば良いのだろうか?

 色を仕掛けられまた翻弄されてしまうと、冷静でいられる自信はない。


(万が一そのようなことになったら、すぐに悲鳴を上げて怯んだ隙に逃げ出すしかないわね)


 不意を突けば逃れられることは実証済みなのだから。


 色々と考えているうちに人が少ない一画の房に連れてこられた明凜は、警戒を強め麗しい顔と対峙した。

 ――が。



「昨夜はすまなかった」


 見上げた柳眉が下がったかと思うと、美しい所作で頭を下げられてしまう。

 突然の謝罪に面食らうも、自分は昨夜のことなど何も知らないのだと言い聞かせ対応する。


「大長秋ともあろう方が一介の侍女に頭を下げるなどおやめ下さい。昨夜とは何のことでしょう?」


 予定通り、知らぬ存ぜぬを突き通すのだ。

 殊勝な態度ではあるが、明凜を罠にかけようと演じているだけの可能性が高い。

 だが、その可能性を令劉自身が否定する。


「素知らぬふりをせずとも良い。たとえお前が蘭国の間者だとしても捕らえようなどとは思っていない」

「そんな、間者などと……本当に分からないのです。ですからおやめ下さい」


 令劉の『捕らえるつもりがない』という言葉はすぐにあり得ないと判断した。

 皇帝の正妃である皇后や母である皇太后がいない現在の後宮では、大長秋である令劉が皇后府を管理しているのだ。

 そのような立場の者が賊や間者を放置などするわけがない。


 だというのに、令劉は態度を改めないどころか眉尻を下げたままじっと明凜を見つめる。

 そして意味の分からないことを口にした。


「明凜こそ知らぬふりは止めろ。お前は私のつがいだ。昨夜も言っただろう? ずっと待っていた、と」

「は? つがい?」


 突然何を言うのだろうか、この男は。

 番と言うと夫婦のことだが、あまり人に対しては使わないだろう。

 まさか本当に令劉は人外だとでも言うのだろうか?


 思わずグッと眉間にしわを寄せ、怪訝さをこれでもかと言うほど顔に出してしまう。

 だが令劉は不信感もあらわにした明凜へそのまま話を続けた。


「そうだ、番だ。昨夜私が食事しているところを見たのだろう?」

「食事?」


 何のことを言っているのか。


(食事してるところなんて本当に見ていないのだけど……)


 本気で困惑する明凜に、令劉は僅かに口角を上げ妖しさを湛えた笑みを浮かべる。


「女官の血を飲んでいたところを見ていたではないか」

「っ!?」


(あれを食事というの!?)


 あまりの驚きに息を呑み反応してしまう。

 すぐに表情は取り繕ったが、どう返せば良いのか分からない。

 とにかく、血を飲むことを食事だと言う辺りやはり令劉は人ではないということだろうか。


「私は吸血鬼だ。異性の生き血を飲み、長き時を生きる人ならざる者なのだ」

「吸血鬼? 何をおっしゃっているのですか?」


(吸血鬼? 血を吸う鬼ということ? 僵尸とは違うのかしら?)


 あまり聞いたことのない名称に困惑を見せながら、明凜は冷静に考える。

 本当に人ではないというならば、今自分にそれを明かす意味は?

 皇帝や、他の者たちは知っているのか。

 与えられる情報を整理して最適解を見出さなくてはならない。


「吸血鬼にとっての番とは、唯一自分の子を産むことが出来る相手なのだ。だから心の底から――魂の根源から相手を求める。その気配を間違うことなどない」


 語る令劉の目の色が、感情が昂ぶっている証に瑠璃のように青みが強くなる。

 その色は昨夜の熱を思い起こさせた。

 熱の込められた視線に、素肌に触れてきた令劉の硬い手の感触まで甦りそうになる。


 じり、と思わず後退すると、令劉が手を伸ばしてきた。

 自分を捕らえようとしているようにしか思えないその手に警戒心を顕わにしてしまう。

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