玄関には全身を雨に濡らした新がいたため、おなつはまず顔をしかめた。
「もう、傘はどうしたの?」
「大した雨じゃなかったからさ」
「大した雨よ、雷聞こえてないの? もう……、そこにいて。布巾とってくる。上がんないでね、びっちょびちょじゃないの」
「……すんません……」
先程のちょっとした喧嘩など忘れたようにおなつが笑うから、新は眉を下げて笑った。おなつはそんな新を見上げて、「しょうがない人!」と言い捨てて、小走りで布巾をとりにいき、小走りで戻ってきた。
「頭拭いてあげる。しゃがんで」
「いや、自分で……」
「あら。じゃあ、ご自分でおやりになる? でしたら私はその間に、すんごい頑張ってお風呂沸かしてあげましょうね。うちにも内風呂はありますんでねェ?」
「……拭いてくれ……」
極楽やは裏街道の中ではかなり珍しいが、風呂がある。といっても沸かすのは大変手間であり、こんな雨の日にはとても無理だ。しかしおなつはやるといったらやる女であるため、新は大人しく頭を差し出した。
「新さん、折角髪洗ったのに、もう……」
「後で自分でちゃんとするさ」
「いいの、拭ってあげる」
おなつが楽しそうに新を拭うと、ふ、と新が目線を下げた。
「……おなつさん、腕どうした?」
「腕? ……ア」
新の視線の先は、めくれた袖から覗くおなつの白い手首につけられた、あざ。それはまさに先程大男がつけたものだった。
「……飯の匂いがすると思ったら、客がいるのか」
「え、ええと、そうね」
「そいつに?」
新の視線はもう、明かりの灯っている客室に向いていた。
「新さん、平気よ。こんなの痛くなんて……ヒッ」
おなつは新の顔を見て、息を呑んだ。新はそんなおなつの目を左手で覆うと、おなつの耳に口を寄せた。
「明日になるまで、俺を見ないでくれるか?」
おなつが震えながら頷くと、新はおなつの肩をつかんで、玄関を上がった。そしておなつは廊下をすすませ、自分はその客室の前に立った。おなつはうながされるままに廊下を進んだが、新が襖を開く前に振り向いた。
「新さん、駄目よ。その人、本当に、力が強いだけなの。何も悪気はないの。だから、……」
新は深く息を吸い、右手で顔を覆った。
「俺ァ、今、あんたに見られていい顔してねェ……」
「新さんの顔はいつだって素敵よ! 大好きよ! この日の本で一等綺麗だわ!」
おなつが大真面目な顔で言うと、新は口元だけ微笑んだ。
「……ばかなこといってないで、とっとといってくれ」
おなつはパッと口を閉じると踵を返し、廊下を歩いていく。新はその背中を見つめながら、襖を開けた。そこには未だ、釜から米を食べ続けている赤い男を見た。
「ン?」
男は新の視線に気がつくとようやく釜から顔を上げた。男は真実、ほんの少しの悪気もない顔している。新の殺気を受けてもなお、ただ不思議そうに新を見上げ、それからキョロキョロと周りを見渡した。
「あれ? おかわりは?」
次の瞬間、男の体は『雨の下』にあった。
「え……あれ、……え?」
男には何が起こったのかわからなかった。たしかに客間で飯を食べていたはずなのに、またたきの間に、男は極楽やの外の泥の中で横になっていた。そして、どういうわけか、体が痛い。
「……てめェは、おなつさんを飯炊き女と扱ったわけだ……」
雷鳴が轟く。
電光石火の早業で、首根っこを捕まれ、襖を突き破って、極楽やの外にまで投げ捨てられた、ということは男にはわからなかった。だが、この低く地を伝って響く声に、その存在に、恐ろしさを覚えることしかできない。
「マァ、飢えるは哀れ。実に哀れ。俺は優しいから……哀れなてめェに、ちゃんと食わせてやる、安心しろ……」
新の下駄が泥を踏む。その白い足首が汚れていく。雷鳴が轟く。新は雨の中、静かに男を見下ろした。
「食わせるのは、この拳だがな」
そこにいたのは、まさしく修羅だった。
□
新という男の身体には余計なものは何もなく、まるで狩りをするために産まれた獣のように、引き締まり、しなやか。だから、彼は雨の中も雷のように素早く走り、不遜な客の赤髪を掴むと、地面にその頭を叩きつけた。
一方で赤髪の持ち主は、叩きつけられれば額で地面を割ってしまうほど、固く、重たい身体をしていた。だから彼は地面に叩きつけられ、もう一度髪を掴まれた時、嫌がって身震いをした。それだけで、新の手が振り払われ、男は四つ足で駆けて、新と距離をとった。新は振り払われた自身の手を見たあと、男に視線を戻す。
雨に濡れた大男は、赤い髪が濁った血の色をしていて、光る瞳は猛禽類、まさに鬼のようであった。
しかしその鬼を睨む男の顔こそ、まさに地獄の門番。
二匹の鬼は雨の中、視線を交わす。
「お、おれさま……なにかしたか……?」
最初に声を上げたのは大男の方だ。
「おなつさんの腕に傷がついた。だから、てめえは泣かす」
答えたのは地獄の門番。
「逃げたいなら逃げてみろ。構わない。俺は追う。抵抗したければするといい。構わない。俺は強いからな」
淡々と大男の罪状と処罰を述べ、新はまた雨を踏み、大男の前に立つと、そのたくましい右足で大男の顔面を蹴り上げた。大男は「ギャウ!」と絞め殺される畜生のような声を上げ、雨に落ちる。けれど新は手を止めず、地面に転がる大男の角をつかんだ。
「やだ! やだ! 角、やだ!」
大男はそう叫んだ。子どものように。
「なら、折ってやるよ」
新は宣言通り、右手で男の頭蓋をつかみ、左手でその男の右の角を握りつぶした。
「いぁ、ああぁ……」
男の角はとても硬く、新の手も赤く腫れた。だが、それよりも真っ赤な鮮血が折れた角の先から吹き出した。
真っ赤なその血に新はおどろいた。というのも、新は折った感触から、男の角に血は通ってないと考えていたからだ。しかし、現に目の前の角から鮮血が吹き出す。新が男の頭蓋から手を離すと、大男は角を押さえて、小さく、小さく、丸くなった。
「痛い、痛い、痛い……」
大きな体を岩のように丸くして、大男はめそめそ泣いていた。新は真っ赤な血で汚れた自分の手を見てから、男を見下ろす。
「……泣いたな」
大男の目からはボタボタと雨よりも大きな涙が次から次へと落ちていた。雨が二人に降り注ぐ。新はため息をついてから天を仰いだ。
「来たところに帰れ。おなつさんを傷つけたんだ。てめェは極楽やには足をつけさせん」
「……おなつさん、って、飯作ってくれた……?」
大男はめそめそ泣きながら、立ち上がる。新でさえ見上げるほどの大男は子どもみたいに泣いていた。
「おなつさん、傷ついたか……? おれさまのせい? ……ごめんなさい……」
そして子どものように、男は素直に謝った。だから新は驚いてしまった。
「ごめんなさいって……てめェ、そんな素直に……」
目の前にいるのはたしかに男のはずなのに、まだ男にも女にもなっていない赤子のように感じたからだ。その驚きはつい、怒りを消し飛ばしてしまうほどのもので、新は自分の手の中の角をつい落とした。
大男は落ちた角を拾うと、また立ち上がる。
「おなつさんに謝らないと……」
男の角からはまだ血が落ちていたが、それよりも男の涙のほうが目立っていた。
「……謝ったところで、おなつさんの傷が治るわけでもないし、またてめェに傷つけられるかもしれん、会わせるわけが……」
新はそう言ってはみたが、口に出した瞬間には、もう後悔していた。責める新よりも男のほうがずっと悲しそうに、痛そうに泣いているからだ。
「そうか……ごめんなさい……おれさま、なんもわかってなかった……」
男はべそべそ泣きながら、「ごめんなさい」とまた謝る。
「あんたも傷つけた……」
「は?」
「ごめんなさい、おれさまの角が固いばっかりに……」
男は赤くなった新の手を見て、それからその場に座り込むと、深く頭を下げた。ボタボタと、角から流れた血が雨に滲む。
「ごめんなさい……おれさま、ここに来てはいけなかった……」
こうなると、新の怒りはすっかり何処かへいってしまっていた。そうして怒りが去ったあとに残るのは、どういうわけかいつも悲しみと罪悪感なのである。
新は天を仰いだまま、深く深くため息をついた。そうしてそんな新に助け船を出すように、極楽やの戸は開かれた。
「……二人共、早く入んなさい」
おなつの言葉に新は不服を言おうとしたが、その前におなつは新を睨んだ。
「雨が止んだら襖直してもらうからね、新さん」
新はもうすっかり毒気が抜けていたので、いつものように微笑んだ。その顔を見ておなつもニッコリと笑った。そうしておなつの顔を見ると、新は罰が悪そうに首を掻いた。
「……おなつさんが言うならそうしよう。お前さん、名前なんつゥんだ?」
雨の中、小さく丸くなっていた大男は不思議そうに顔を上げた。それは質問の意味がわかってないという顔だった。
「名前だよ、名前。親からなんて呼ばれてたよ」
大男はまばたきをすると、納得したように頷いた。
「鬼」
「……鬼?」
「ウン、そう呼ばれてた」
「……、ダァ、くそ、……ろくでもねェ話だなァ……あァ、もう、……」
新は天を仰ぎ、低く唸ったあと、大男の二の腕を掴み、立ち上がらせた。大男は驚いて目を丸くしたが、抵抗することなく、素直に立ち上がった。大男は新よりも頭一つ分大きく、とても固い身体をしていた。
とはいえ、それは人の体だった。
「おなつさん、布巾あるか?」
「用意してますー! ほら、早く入んなさい!」
「へいへい。ほら、行くぞ。……やりすぎた、ごめんな。痛いよな」
大男はキョロキョロと新とおなつの顔を見たあと、また嬉しそうにその牙を見せる、彼らしい奇妙な笑顔を浮かべた。
「すげえ痛い!」
「だろうな。悪かったよ」
「あんたはなにも悪くないぞ?」
「悪いんだよ、俺が……手当してやるから、勘弁してくれ」
「……ウン……勘弁するってどうしたら……?」
こうして彼らは極楽やにたどり着いた。
これが、鬼と呼ばれることになる極楽やの用心棒の始まりだった。