雨の
しかしそんな暗がりを、新は躊躇うことなく、迷うことなく、歩いていく。彼の光のない目は夜の中でも世界の姿がよく見えていた。彼は一人、傘もささず、雷鳴の下を歩き、地面が揺れた原因を探していた。
そうして件の『入ってはいけない』山の麓をぐるっと歩き、辿り着いた渓谷で、ついに崖から落ちて割れたであろう大岩を見つけた。
「これか……」
新は崖の上を見上げ、大岩が落ちてきたであろう場所を見上げた。断崖絶壁の上が少し崩れ、小さな土砂崩れが起きたようだ。新はそれから大岩を検分し、古く太いしめ縄の残骸を見つけた。
「鬼でも封じていたのか……ハッ、まさかな」
どうでもよさそうに新はしめ縄を拾った後、やはりどうでもよさそうにそれを放り捨てた。彼はどんなものが相手であっても恐れない程度には喧嘩が強かった。だからたとえ本当に鬼がいても、彼にとっては怖がるものではないのだ。
新は割れた大岩に触れ、雨の中、ため息をつく。
「やはり、雷か」
大岩の割れた面は焦げができていた。
つまり崖から落ちたことで割れたのではなく、落雷で割れたのだと推察がつく。そして、割れたことで形が変わり、崖の上から落ちたのだ。そして、この岩が落ちたことで極楽やが揺れたこのだろう。
新は雨の中、割れた岩を見て、それから川を眺めた。水量は増えているが氾濫するほどではない。そしてまた、すぐに落ちてくる岩もなさそうだ。けれど、土砂崩れはおきかねない。
「……おなつさんに落石注意と伝えて……いや、ここには立ち入らないようにさせよう。……違う、落街道など、そもそも、どこも安全でない」
新は、深くため息をついた。
「あの娘は縁さえあれば武家に嫁げる器量……立派に表で生きていける、いや、表で生きていくべきだ……これ以上は先延ばしにはできない。女将さんと約束しただろう、あの娘を幸せにすると……」
おなつの前とは全く異なる声色、異なる口調で、彼は独り言を続ける。瞳に光はなく、濡れた着流しは闇に染まる。
「……姓も刀も捨てた俺には、過ぎたる幸いだった……」
天は雲に覆われ、雨が視界を遮り、星は一つ見えない。男は右手で顔を拭い、それから両手で顔を覆った。まるで泣いているようだ。雨は天から降り続ける。男はゆっくりと手を下ろすと、言葉なく、来た道を戻り始めた。
男の顔色は青白く、まるで刃のように美しかった。
□
ところで新が渓谷にたどり着くすこし前、遠く雷鳴が響く雨の中、『男』はその渓谷の崖の上で、まるで胎児のように丸くなっていた。
彼は頬に雨が当たる度にビクビクと震え、そうしてついに瞼を開けた。彼は、目を開けてからしばらく、ぼんやりとした様子で雨を聴いていた。
「……あめ……」
小さく呟いた彼は、不意に立ち上がり、それから両の拳を天に向かって突き上げた。
「……雨!? これ! 雨だ! 見える! 聞こえる! 話せる! 手がある! 足がある! すごい! ……すごいぞ! ……やったあ! やった! やったぞ! おれさま、ついにやったんだ!」
男は満面の笑みで、ぴょんとその場で跳ぶと、あっという間に山をかけ下り、そうして、彼もまたこの舞台にやってきた。
――つまりこの物語の二人目の主人公であるこの男が、ようやっと、極楽やの戸を掴んだのである。
「なんだこれ! あれか!? 家か! 家だな! これが! へえ! あれ!? どうなってんだこれ!」
男が極楽やの戸を叩くその音で、おなつは眠るのをやめた。
夜中に極楽やの戸を叩く者がいて、おなつは迎えてやらないような女ではない。それはどんな者でも通してやるという裏街道の中にある老舗、極楽やの女将としての矜持である。
……というのと、新の言伝を無視したい心持ちだったためである。女の心はそういった風にできている。
彼女は手早く髪をまとめて上着を羽織ると、行灯を手に、玄関に向かった。そこでは玄関の扉がガタガタと揺れ続けていた。
「あれ!? これ、どうやったら開くんだ、これ!」
どうやら待ちきれない客人がドアを揺さぶっているようだ、と、おなつはクスクス笑いながら鍵を開け、極楽やを開けた。
「お待たせいたしました、お客さん」
玄関の前に立っていた、その男の髪は赤かった。
しかも男の髪は腰を超えるほど長く、根本から毛先にかけて色合いが変わり、また燃えるようにゆらゆらと動いた。その妙な髪はまったく、手入れはされていないようで泥汚れがついていた。
そして、男はおなつが見たことがないほどに大男だった。膝を曲げなければ戸をくぐれないであろうほど大きく、またその体は岩のように厚く、筋肉でゴツゴツとしていた。というのがわかるほど、男は薄着でもあった。
そして何よりもおかしいのはその顔だ。
男の額には一対の角が生え、目は鷹のように爛々と輝く黄色、さらに、牙のように犬歯がとがっていた。
そしてその奇妙な男は、先程まで騒いでいたのが嘘のように黙り込み、中腰になって、警戒した犬のようにおなつを見ていた。
「こんな夜にやってきて……お腹は空いてるかしら?」
だが、そんな奇妙な男を前にしておなつは、にっこりと、微笑んだ。男はおなつのその顔、その目をじっと見てから、コクリと頷いた。
「なら食べさせてあげないとね」
おなつが男を迎え入れ、男は恐る恐る極楽やに足を踏み入れた。
「待って。濡れ布巾を持ってくるわ。あんた、足が汚れている」
おなつにそう声をかけられて、男はあがりとには上らず困ったようにおなつを見た。それは、どうしたらいいかわからない迷子のようだった。
「そこで待ってて。そのまんま上がられちゃ、全部掃除しなきゃいけなくなるでしょ。座ってな。わかる?」
「……ウン」
男は玄関の真ん中で腰を下ろした。おなつはその素直さに微笑んでから、急いで濡れ布巾をとってくるために踵を返した。
□
「あんた、どこから来たの? ……どうしたの? 私の前じゃ話せない?」
「……、おれさま、話せるぞ……」
「そ。じゃあ、どっから来たの」
「どっから……?」
おなつが味噌汁を作っている後ろで、男はずっと不思議そうに火を見ていた。おなつは男の様子から、どうもこれは赤子のような男だと考え、ことさらゆっくりとおだやかな口調で「どこから来たの」ともう一度尋ねた。
「一つ目は海……」
「海から来たの?」
おなつは味噌汁だけでは足りないだろうと握り飯を作りながら、「海は見たことないわ」とおだやかに話す。すると大男は「海は広かった」と当たり前のことを返した。
「でも、二つ目の空のが広い。だから、空のが大変だった」
「大変? なにが?」
「海を知るより、空を知る方がずっと大変だった。でも、結局、おれさまは三つ目の山にいなきゃいけなかったとき、ずっと空を見てた。あれなら空を知る前に山にしてくれたら良かったのに……そしたらいっぺんに済んだ」
おなつは飯を握りながら、首を傾げる。しかし大男は真面目な顔のまま、「あいつ、すごい意地悪だ」と誰かの悪口を言った。
「でももう山も終わった。だから、やっとおれさまは四つ目の人だ! すごいだろ?」
「……うん、すごいわ。あんたは人ね」
おなつはよくわからなかったけれど、そう微笑んだ。ここは訳ありの人間しか来ない極楽やだ。彼女は変なことを言う人間を刺激しない方法を会得していたのである。そして、おなつのその対応が正しかったのか、大男もまた歯を見せて笑った。笑うと男の牙が目立ち、それはそれは奇妙だったが、おなつは笑顔をかえした。
「そして人なら腹が減るもんよ。食べるでしょ?」
「ウン!」
「そうね、だったら並べるの手伝って」
「並べる? わかった」
「はい、ありがと」
おなつがなんてことなく言ったその言葉に大男は目を丸くして、それから頬を髪と同じように真っ赤に染めた。
「おう! おれさま、並べるぞ!」
「んふふ、……『ありがとね』」
大男はまた奇妙な笑顔を浮かべたが、おなつはその笑顔を見て、この奇妙な男が何なのかはっきりと理解していた。
『この人、頭が赤子なんだわ。なんだか妙な見てくれだし、きっとちゃんと育ってないのね。あらら、大変。新さんがいないときに変な人を迎え入れちゃったかしら。怪我だけはしないようにしないと……私が怪我したら新さんが怒っちゃうわ……』
おなつはそう考えながら、大男のために作った夜食を運び、手伝いの大男にお礼を言った。それだけのことなのに大男は終始嬉しそうに笑い、おなつに勧められるままに飯を頬張る。
「ん!」
途端、大男の目が、夜だと言うのに、きらきらと輝いた。
「おいし?」
「……おいしい!」
おなつはこのとき、『犬のようだ』と思った。このあと何度も同じことを思うことになるのだけれど、大人の男を相手にそんなことを思うのはおなつは初めてだった。『犬のようにとてもかわいい』と。
「あら、うれし。もっと食べる?」
「食べる!」
「あら、そう、おかわり作って持ってくるわ」
あっという間に食べ終えてしまいそうだ、とおなつはおぼんを持って立ち上がろうとした。が、その前に大男がおなつの手を掴んだ。
「いっ……!」
大男からするとなんてことない力で掴んだのだが、おなつからすると顔をしかめてしまうほどの力。だが、大男はおなつの表情の変化には気が付かなかった。
「おかわりってなんだ!」
大男のキラキラ光る瞳を見て、おなつは『あぁ、これは怒れないわ』と微笑んだ。
「おかわりっていうのはね、もう一回食べられるってことよ」
「もう一回、……おかわり! ……おかわりっていい言葉だな!」
「あらあら、食いしん坊さんね……じゃあおかわりね?」
「ウン!」
大男の返事を聞いて、おなつはもう一度立ち上がった。そのとき、玄関の戸が開く音がした。
「あら、帰ってきたのかしら。じゃあ、おかわりもとってくるからちょいと待ってて」
「ウン!」
おなつが玄関に向かうと、見回りを終えた新が帰ってきたところだった。
「おなつさん、起きてたのかい?」
つまり、ようやくこの物語の主役二人がこの極楽やに揃うことになったのである。