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第一幕 一、外道

 ――その狼藉者ろうぜきものは「だまされたのだ」と言った。


 昨晩までの話から始めよう。

 その狼藉者は苗字帯刀みょうじたいとうを許された武士であった。そして幼い時から名ばかりの制度である士農工商しのうこうしょうをかかげて、町民への狼藉を繰り返す、根っからの悪童であった。気に食わないことがあってもなくても、目についた時に目についた人間で遊び、飽きたら切り捨て、その血を見ては大笑いをする外道。江戸幕府の長きにわたる平穏の歴史の中で、語られることのない黒い染みのような男だ。

 さて、そのような男であったが、武士であるため指示を受ければ仕事をしなくてはならない。彼は上役から指示を受け、江戸から京まで手紙を届けなくてはならなくなった。本来飛脚に任せる仕事であるが、重要な手紙であるため内部の人間が自らの手で持っていかねばならない、というお達し。だが外道からすれば、公用を名目に街道で好き勝手してもいい、という、ろくでもない大義名分たいぎめいぶんであった。

 そして、男は手紙を懐に街道を進み、あらゆる宿場で傍若無人ぼうじゃくぶじんに振る舞った。筆舌ひつぜつに尽くしがたい狼藉の限りを尽くして回った。

 だから、とある宿場の問屋とんやが男の処遇を、こう決めた。


「あの外道は落街道行きにしよう」


 かくして問屋は男に近道だと嘯き、落街道への道を教えたのである。

 男は言われたとおりに表の道を逸れに逸れ、ついに昨晩、落街道、三の宿場にたどり着いた。つまりこのときから、男は名実ともに///外道・・となった。

 外道はこれまでの宿場同様、乱暴に宿の戸をたたき、戸が開くやいなや、開けるのが遅いとのたまい、抜刀した。表の街道であれば、外道はそのまま宿の親父を袈裟斬けさぎりにしただろう。


 しかしここは落街道。


「てめぇら、獲物えものじゃ! 殺せ! 殺せ!」


 親父の声に合わせてやくざ者が裏から表から無数に現れた。それぞれのやくざ者の手には無論、凶器がにぎられている。宿の親父が帯刀し、ましてや抜刀し、武士に斬りかかるなど表であればありえない。しかしここは落街道……親父が客を斬り殺すなど、当然なのだ。


「なんなのだ、こいつら!」


 命の危機を感じた外道は咄嗟に身をひるがえし、逃げた。どんな時代においても外道は逃げ足が早いものである。

 しかし、この外道は逃げたことで裏街道を更に進むことになった。進めば進むほど深い地獄に落ちていく、それもまたこの道の常識と知らずに、外道は進んでいった。だからこそ追手は深追いはしてこなかっただけだというのに、愚かな外道はこう思った。


『なんだ、こけおどしか。あいつら、俺みたいに人殺しじゃないな? なぁんだ。だったら、別に怖くねえな』


 外道は外道であるが故に、自分に都合の良い世界を見る悪癖あくへきがあった。なので、このときもそのように都合よく解釈したのだ。そして、次にこう思った。


『前の宿場の狼藉は次の宿場が責任を持つべきだ。よし、この憂さは次の宿場を皆殺しにして晴らしてやろう。幕府公用、武士の俺は何をしてもいいのだ』


 かくして外道は上機嫌に獣道を進み、そうして、ついにこの宿――極楽やにたどり着いたのである。




 外道は宿が襤褸ぼろであることから、さほど人間がいないだろうと察し、ため息をつきながら戸を叩いた。殺せる人間が少ない、つまらないと思ったのである。だが、外道の予想を裏切り、奥から聞こえた「はぁい、少々お待ちを」という声は、うら若い女性のものであった。それも張りがあり、よく通り、けれど愛らしく、欲の腹が疼くような声だ。

 そうして見事、戸を開けたのは、声に似合う可愛らしい若女将わかおかみであった。

 若女将は外道を見上げると、にっこりと笑った。外道は生唾を飲みながら、自分が幕府公用で街道を進むものであることを声高に語りつつ、獣のように若女将に襲いかかろうとした。


「触るな」


 しかし、この外道の手が女将に触れることはなかった。

 その前に女将の後ろから伸ばされた太い手が、外道の手首をひねり上げていたからである。


「いててててっ! いてててっ! 何だ、きさま! 誰だ!」


 外道をとらえた太い手の持ち主は、美しい男だった。

 背はすっと高く、体躯は豹のよう、黒の着流しから椿の入れ墨が覗き、整えられた眉を持ち、髭はなく、艶めく頬をしていた。町人にしては髪に艶があり、髷は細く、月代はすっと青い。切れ長な瞳には光はなく、どこか病的なものを感じさせるが、それがかえって男の美しさを際立たせていた。

 そんな絵巻物から飛び出してきたかのような美しい男は、外道の醜い顔をしげしげと眺め、つまらなそうにしていた。


「離せ! 離せ! 俺は江戸……」


 男は外道の言葉を聞かず、手首をボキリと潰した。利き腕の手首を折られた外道は、大きく叫び、涙をこぼす。けれど男はつまらなそうに外道を見下ろすだけだ。


「きさま……この狼藉、許すものか! 切り捨て御免!」


 外道は残った左手で懐刀を抜くと、不意をついて男の胸に突き立てようとした。女将の悲鳴が甲高く響く。だが、外道の刀は美丈夫には届かなかった。


「こんなちゃちな小刀で切り捨て御免もねェだろ、とことん馬鹿な男だねェ」


 それよりも早く、男の拳が外道の喉を、肩を、耳を打ちすえていたからである。

 外道は声を上げることも叶わず、その場に膝をつき、懐刀はカラカラと音を立てて床を滑っていった。女将がパタパタと走り、その懐刀を回収したときには、男は外道の残った左腕を折り、外道を外に放り出していた。


「またのお泊りをお待ち申し上げますよォ、と」


 男は冷たく微笑むと、宿の戸を閉めた。

 戸の向こうから「ちょっとォ!」と愛らしい女の声が聞こえたが、外道はもう一度戸を開ける気には到底なれず、かといって三の宿場を戻ることもできず、叫びながら、獣も通らぬ道を駆け、逃げた。

 外道はこう考えていた。


『騙された! あの問屋、近道だと……! ここは地獄じゃねえか!』


 たしかにこうして考えれば男は騙されたのかもしれない。だが、男が畜生道に落ちていたのは今に始まったことではなかったのだから、やっとたどり着いた、ともいえるだろう。なんであれ元の木阿弥、今更だ。

 外道は逃げて、逃げて、逃げて……気を失うまで逃げて、翌朝、つまり今朝、気がついたときには表街道の元の宿場まで戻っていた。表に戻ってこられたのは外道の豪運ともいえるが、しかし一度落ちたら運の尽き。

 外道を叩き起こしたのは、江戸から外道を追ってやってきた目付めつけであった。

 目付は助けを求める外道を一瞥すると、こう言った。


「貴殿に機密漏洩の嫌疑がかけられている」


 外道は無論、知らぬと言ったが、もはや申し開きの機会もなく、手が折れたまま江戸に連れ戻され、切腹を命じられることとなったそうだ。要するに、狼藉者は体よく処罰されるために江戸から出され、冥土の土産に表街道で悪さは目を瞑られたが、結局裏街道で痛い目に遭い、死ぬこととなったのである。



「……と、あの外道はそんな顛末だったそうだよ、おなつさん」

「あら。そりゃ表街道の方々はとばっちりじゃないの。ひどいお話し」

「将軍様の考えるこたァ俺らにはわからんな」


 さて、舞台は再び、極楽や。

 滅多なことで客が来ない極楽やには今夜も客はなく、若女将のおなつと用心棒の新は二人きりだった。新は何度かおなつに部屋に帰って寝るようにうながしたが、おなつは遠くの雷と近くの雨がうるさくて寝られないからと断り、新の部屋に居座っていた。

 二人の間には一つの行灯。ゆらゆらと小さな火が二人を照らす。雨でやることがなかったからと、二人して髪を洗ったために、二人していつもよりも少し良い匂いがしていた。おなつに至ってはまだ髪を結い上げておらず、そのわずかに濡れた髪からは肌の匂いがする。ゆらゆらと火が揺れ、ゆらゆらと無防備な二人を照らす。穏やかで、しかしどこか緊張感のある空気の中、はふ、とおなつは欠伸をした。


「あの時、新さんがいてよかったわ。ありがとうね」

「言われるまでもねェ、それが生業だよ」

「私を守るのが? んふふ」

「用心棒が、だ。ふふ、マア、俺ァおなつさんのためなら何でもするさね」


 面白がるように笑う新の手元には二通の文があった。

 一つは三の宿場から飛脚が持ってきた、今回の顛末が書かれた文である。おなつにせがまれて新がそれを読み上げたのだが、おなつはクスクスと笑うだけだった。生まれも育ちも落街道のおなつにとって、この程度の修羅場は笑い話にしかならないのだ。そのことを新もまた笑ったのだ。

 おなつは無防備に新にもたれ、新の手首を白く細い指でなぞったあと、もう一つの手紙をつついた。


「じゃあ、こっちは?」


 こちらが、あの外道が運んでいた文である。

 新は外道の腕を折りながら、その懐の文を引き抜いていたのだ。しかし、新は面倒くさそうに欠伸をした。


「こっちは俺も読んでねェよ」

「どうして? ね、読んで、読んで」

「読んだら知ることになるだろ。知らなきゃ終わるもんが、終わらねェ。機密なんて、ねェ、面倒だよ」

「知らなきゃ始まらないもんね。でもそんなのつまんないわ、ね、新さん」


 おなつに急かされて、新は嫌そうに文を開くと、ざっと目を通し、ため息をつきながら懐にしまった。


「ね、なんて書いてあったの? 幕府のこわぁい機密?」


 キラキラと好奇心に目を染めて、おなつは新の顔を見上げる。新はおなつの濡れ髪を指ですくい、耳にかけると、顔を寄せた。


「おなつさんのかわいい耳には聞かせられねェ悪いことだったよ」


 新がおなつの白い耳に低く囁くと、おなつはくすぐったそうにクスクス笑った。


「そうなの?」

「そうだ。ンでもって、おなつさんは寝る時間だ」

「眠れないんだもの、雷がうるさくって……」

「そんなこと言ってたらいつまで経っても寝られねェよ。ほら、とっとと寝床に……」


 新がおなつにうながした瞬間、パッと部屋が昼間のように明るくなり、とてつもない爆音がとどろいた。

 新は咄嗟におなつを抱きかかえ、傍らにあった煙管から仕込み刀を引き抜いて、夜闇を睨む。おなつは急に抱きかかえられたことで、「はぷ」と声を上げ、新の着流しの合わせにしがみついた。

 新はその状態でしばらく待ち、ただの雨音が続くことから、先の音は単なる落雷だからもう安全だと判断した。


「……」

「……」


 だから彼はおなつを抱きかかえるのをやめた。が、そうしても、おなつは新の着流しにもたれていた。


「……おなつさん」

「なあに? ねえ、新さん、随分と近かったねえ」


 おなつがにっこりと笑い、新を見上げる。行灯の火が柔らかく照らす少し濡れた黒髪、うるんだ瞳、少し乱れたその寝間着、そうして、闇の中、なお明るく見える白い肌。


「ただの雷だったんだから、離れな」


 新は真面目な顔だった。だからこそおなつは頬を膨らませ、立ち上がった。


「なによ、それ! 寝る!」

「はいはい、おやすみ。ゆっくり寝てくれ」

「いいの!? 寝ちゃうんだからね!」

「だから寝ろって、健やかに寝ろって……」


 おなつがもう一度文句を言おうとしたそのとき、大きく地面がゆれた。

 一瞬で行灯の火が消え、暗闇に包まれる。けれどその一瞬よりも早く、新はおなつを引き倒し、抱きかかえていた。

 だから棚の上から落ちてきた人形が当たったのは、新の背中だった。おなつにはなにも当たることはない。引き倒されはしたが、おなつの頭の下には新の右手が差し込まれていたし、髪の毛一本痛くない。


「おなつさん、じっとしててくれ。なんか落ちてきたらあんたに怪我させちまうよ」


 おなつは言われずとも、じっとして、自分に覆いかぶさる男を見つめていた。

 彼がこの極楽やに来たのは今から五年も前のことで、その時すでに彼は今のおなつよりも大人であった。身体中に切り傷がある這這の体で、彼は裏街道に流れ着いた。それを拾ったのは先代の女将、つまりおなつの祖母だった。彼は傷が治っても、生涯をかけて恩を返すと、そのまま極楽やの用心棒になったのだ。そうして言葉だけではなく、今に至るまできっちり、彼はおなつを守り続けている。

 武士のような彼の忠義を、おなつは深く愛していた。だから彼女は地面がゆれていても、少しも怖くなく、ただ好きな男の顔を眺めていられた。

 地面のゆれは一度でおさまり、あとはただ雨音が響く。新は外を睨みながら、低く唸る。


「……地震にしちゃ妙だな、……山のどっかが崩れたか……」

「ねえ、新さん」

「ア? どした? すまねえ、どっか打ったか? 痛むか?」

「新さんはいい男ね」


 新はようやく闇からおなつに視線を移し、自身をうっとりと見上げるおなつに深くため息を吐いた。


「暗いからそう見えンだよ、明るいところで見たら他の男の方がよく見えらァ」


 おなつは深く深くため息をつくと、新を押しのけて起き上がり、さらに新の胸を強く押して床に倒す。新は抵抗することなく、自分の腹の上に乗る美しい女を見上げた。


「この、すけこまし! 私が他の男なんかに靡くわけないでしょ! いつまで子ども扱いするのよ! 馬鹿!」


 怒りに頬を赤く染めるおなつを見て、新は悪手極まりないが、つい微笑んでしまった。


「なにがおかしいの!」

「笑っちまうほど、あんた、かわいいもんだから」

「馬鹿!」


 おなつはもう一度そう罵倒すると立ち上がり、暗闇を手探りで歩き出す。そうなれば新はすぐに立ち上がり、おなつの手を取るのだ。彼女が暗闇で怪我をしないように、彼はいつも先を行く。


「拗ねないでくれよ、おなつさん。嘘じゃないぜ、あんたはかわいい、一等かわいい」

「そう言えばいいと思って! 私、もう十八よ!」

「十八がなんだ。子どもでいられる内は子どもでいいだろォ」

「意気地なし! 臆病者!」

「……そうだな、全くだ、面目ないね! ほら、もう寝ろ!」

「なんで新さんが拗ねるのよ、馬鹿!」


 新は行灯の火をつけ、ブツブツ言い続けるおなつを部屋まで送った。それから彼は「外の様子を見てくるから、誰か来ても開けるなよ」とおなつに注意をしてから、雨の夜闇の中、出掛けていった。

 これは、後から考えれば、平素の彼からは想像できないぐらい実に迂闊な行動だった。つまり、そうせねばならないぐらいには、おなつの色仕掛けは新に効いていたのである。が、おなつはそのことをまだ気が付かず、新の去っていった方を睨んで、拗ねていた。


 さて、この時、時刻は子の刻だ。


「……うぅん……、うぇ……?」


 ようやく、この時、この物語の『もう一人の主役』が目を覚ましたのである。



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