何時だったろうか、彼から色が無くなったのは。
はじまりは何時だったか。
何時から可笑しくなったかなんて、覚えていない。
少年の産まれは実に平凡であった。
のどかな田舎町。
自然豊かな緑に囲まれ、沢山の生き物に囲まれた牧場で彼は生を受けた。
父は優しかった。母は優しかった。
まるで優しさだけが取り柄の様に、少年を心から愛してくれた。それははっきりと覚えている。
沢山の兄弟もいた。
時にはふざけ合って、泣かされて泣かして、実に仲が良い兄弟だったと言えよう。
平穏だった、多分幸せだった。
この暴君が君臨する『世界』で、まだ世界の異変に気が付かないまま、彼は平凡な暮らしを送っていたのだ。
ただ、疑問が一つ。
のどかな農業の中で少年は何時も目にしていた。
毎日毎日、過酷としか言えない訓練をする兄弟たちを。
山を駆け回り、拳を震わせ、ナイフを握る。
それを支持していたのは父だ。
何時も優しく頭を撫でてくれる父は、この時ばかりは恐ろしい鬼の顔で兄弟に接していた。
毒草を摘み、薬を造る。
それを教えていたのは母だ。
何時も優しい穏やかな母は、この時だけは能面の様な顔で兄弟を叱り付けていた。
一度何をしているかと問いただした事がある。
でも、2人は何も言わない。
「貴方には関係ないのよ」と笑ってごまかすばかり。
決して少年には何も教えてはくれなかった。
兄弟たちも何も言わない。
何をしているかと聞いても「関係ない」の一点張り。
知ったところでお前には無理だと、笑われることもあった。
両親は一体何をしているのか、兄弟は一体何をしているのか。
両親は何者で、兄弟たちは何に変貌しようとしているのか。
両親は自分だけを溺愛して、兄弟には冷たく当たるのか。
どうして自分だけは柔らかなベッドで眠れて、兄弟たちは硬い乾草の上で寝るのか。
文字書きと計算を教えられるだけの、愛された少年には見当もつかなかった。
――彼らの正体を知ったのは実に偶然だ。
夜、トイレに目が覚めてベッドを抜け出した時だった。
皆が食事をとるテーブルで、大金を前に笑う両親と呼べる男と女の会話を聞く。
今度の子供は何処に売るか。
次の子供はどんな殺し屋に育てるか。
いくらで売ろう。いくらで売れる。
醜く笑いながら、2人は子を売る話をしていた。
――なんてことはない。
自分を愛してくれていた両親は、人買いだったのだ。
それも両者『世界』に使える殺し屋であり、殺し屋に育て上げた子を世界中にばらまく存在。
少年に兄弟はいなかった。兄弟と思っていたのは唯の商品だった。
ただ何処からともなく連れて来られて、殺し屋に成るべく、それだけを叩き込まれた存在。
優しい顔は偽りで、鬼や能面が真実。
兄弟が自分を小馬鹿にして嘲り笑う理由も此処で理解した。
自信は幼く無知でひ弱な存在だったのだと、この事実が叩きつけられた。
――どうして、2人は実の息子である
ソレは分からない。――多分、良心だったのだろう。
実の息子だけは殺し屋にはしたくないと言う、意地だったのかもしれない。
きっと両親の
本物だったに違いない。
――実に無駄な優しさだ。
少年は両親と兄弟を殺した。
寝る前に額にキスをしてくれる母。
何時ものように細腕で抱きしめてくれる……その瞬間にナイフを突き立てて殺した。
初めての殺人だったから、少し手こずった事を覚えている。
痛みで倒れ込んだ女を押し倒して、馬乗りになると口を塞いでナイフを突き立てる。
温かかった確かな
何時も寝る前に頭を撫でてくれる父。
リビングでくつろぐ彼の元に近づいて、その首にナイフを突き立てた。
二回目だったから上手くできた。母と違い、父は楽に死ねた事だろう。
一瞬見せた男の驚愕した顔は忘れることは出来ない。
何時も実の兄弟の様に遊んでいた子供達。
昼間の訓練で疲れ切って眠っている彼らに、ナイフを突き立てる。
一瞬の痛みも感じさせない様に、頭を狙って一人一人。
皆寝ている間に死ねたのだ。僅かな痛みで済んだはずだ。
頭から血を被り、誰一人として生きていない赤い世界で少年は唯一人佇む。
父も、母も、兄弟ですら気が付かなかったのだ。
殺しを一度も学ばず、触れる事も無かった少年が誰よりも《殺し》の才があったと言う事実を。
どうして親を殺したか?
簡単だ。
両親は《悪》だった。
子供と言う彼らの数ある未来を全て摘み取り、一つの道しか与えない。
そればかりか『世界』と言う国に仕えておきながら、彼らは『世界』以外にも育てた子らを売りさばいていた。
子供の未来を摘んだ。裏切り。コレらは悪だ。悪だと判断した。だから殺した。
どうして兄弟を殺したか?
簡単だ。
可哀想だったから。
彼らはもう暗殺者以外の道では生きていけなかったから。
未来が無い彼らは実に可哀想だったから。だから殺した。
唯、コレだけだ。それ以外は無い。
本当に、それ以上は何もない。
家族と言う家族を殺した時。
少年の心には曇りもなく純粋にそれだけだったのだ。
両親を殺した時、一切の感情はなく。
兄弟を殺した時、僅かの情も湧かず。
いや、むしろ思った。
心から想って、笑みを湛えた。
「嗚呼、善い事をした」――と。
そんな
両親との連絡が取れなくなり、様子を見に来たのだろう。
惨劇の中で平然といつも通りの暮らしを過ごしていたら、彼らは声を掛けて来た。
断る理由もない。
自分にはそれが天職だと気が付き理解していたから。
ただ、問題があった。
俺には何も無いのだ。
初めて悪を殺して、心から喜びを感じたあの時から。
世界の善し悪しが何に一つとして分からなくなっていた。
そもそも、殺し屋だぞ?
善い悪いがあってたまるモノか。
どれだけ教育係が説明したが、意味も分からない。
善い行いとは何だ。善いとは何だ?なにが正しいと言うモノだ。
この世に正しいなんて言葉は無いに等しいのに。笑い種だ。
善いと言う行いを子供に刷り込ませ洗脳させ、手駒にして操りたいだけじゃないか。
――でも。そう……。
綺麗だと思えるものはある。
それを人は《誇り》と呼ぶ。
人が掲げる《誇り》とやらは、何よりも美しく感じた。
人はソレを《正義》という。
其々様々な色を見せる綺麗なモノだ。
きっと自分に無いから。
おそらく自分には手に入れられないモノだから。
焦がれて憧れて欲して渇望して。
それでもどうしても手に入れられない。
だから。
それが一番美しくて正しいから、何もない自分より遥かに綺麗だから――。
ソレが彼の――――――。