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45話『恐怖の先に待つものは』




「くそ!」

 アドニスの身体は音を立てて、凹んだ床、その場に倒れ込む。

 肩で息をし、身体は汗まみれ。もう一歩も動く事も出来そうにもない。

 何とか腕を動かし、額の汗を拭いながら大きく呼吸を吐いた。


 息を整えながら、先程の自身の一撃とシーアの行動を思い出す。


 頭を叩き割るつもりで放った一蹴。

 普通ならば、受け止めるなんて芸当は出来ない。

 例え腕を掲げても、腕ごとへし折り。頭蓋に直撃する威力を籠め、足を振り下ろした。

 もし、コレが床に激突していれば間違いなく底が無くなっていただろう。


 正直な所。シーアはこの一撃を避けると思っていたのに。

 まさか、ああも簡単に受け止められるなんて。

 勝てる自信なんて微塵もなく。

 覚悟の一発であったが、それでも十二分すぎる程に酷な現実である。


 というか、あの受け方。否が応でも理解した。 

 彼女は今までの鍛錬でも、毎回僅かに腕を上げる行動を示していたが、アレは。


「……おまえ、今までも俺の攻撃を受け止めようとしていたんだな」


 思わず……だったのか、その問いにも似た答えが声に出る。

 少し離れた場所空中に浮く彼女は小さく笑った。


「うん、そうだよ。避けるだけのも君に悪いから、時間が経って君の動きが良くなり始めたら……だったけどね」


 黙秘も隠秘いんぴすることも無く、肯定するシーア。

 これにはアドニスも自分自身の情けなさに笑いを零すしかない。

 つまりだ、何もかもアドニスは鍛錬では本当に無駄な行動ばかりとっていた訳だ。


 実際の所、彼女はどう思って鍛錬に挑んでいたのだろうか。

 相手からの攻撃を受け止めようと僅かに動いただけで、頭を抱えて怯える子供なんかを前にして。

 心底呆れ返ったのだけは違いない。


「でもさっきの君には賞賛を送ろう」


 自分自身に呆れていると、シーアが言葉を贈る。

 頭上で人の気配がして、腕をどかして視線を上げれば、膝を付いた彼女が此方を見下ろしていた。


 白い手が頭に伸び、軽々と持ち上げると、そのまま自身の上へ。酷く柔らかな感触が頭に伝う。所謂これは、膝枕。

 そのまま彼女は、まるで子猫の頭を撫でるように、汗で額に張り付いた髪を掻き分けながら優しく撫でてくれるのだ


 アドニスはシーアを見上げる。

 自分と違って、汗一つ掻く事もない。綺麗な表情を浮かべる彼女の姿。

 腹立たしいが、流石と言うべきなのか。全てに置いて雲泥の差があり過ぎて、もう薄ら笑いしか起こらない。


「結局、一太刀も浴びせられなかったのに」

 事実をそのまま口にする。彼女はアドニスの一撃を簡単に予測し、受け止めた。

 アレは一太刀とは到底言えない。


「別に私は一太刀を浴びせろ、なんて言っていないだろう?」

 だが、シーアもサラリと否定する。

 確かに言われてないが。――悔しいは、悔しい。


「私が言ったのは『恐怖』を克服しろ、だ」

「――」

「悔しさをばねに、たった数時間で此処まで来るなんて思いもしないさ」


 ニタリ。笑って彼女はアドニスの頬を撫でる。

 夕暮れ時の彼女と違って、落ち着き払い、荒々しい感情は微塵もない。

 それ以上に、贈られる言葉の端脚から、心からの敬意が込められているのは良く伝わった。

 つまり、コレはご褒美という訳か。柔らかな感触につい笑む。相変わらす見下ろす瞳には色が無いが。


「でも、君良かったのかい?」

 そんな中、シーアが不思議そうに問いただしてきた。


「まだ時間はたっぷりあったのに。まだ一日も経っていなかった」

 もっと訓練でもする時間はあったのに。まるで、そう言う様に。


 シーアは辺りを見渡す。

 月明かりの差し込む静かな道場。


「態々ここを貸してあげたんだ。納得がいくまで鍛錬でも稽古でもすればいいのに」


 彼女の言葉を聞いて、アドニスは僅かに眼を閉じる。

 やはりそのつもりで彼女は此処から姿を消したのか、なんて。


 あの時、シーアはアドニスに一日の猶予を渡した。

 だが一日と言っても、それは現実の時間。【此処の時間】はその10倍だ。

 【神時間】に治せば、彼女が告知した次の鍛錬まで240時間。大よそ10日。


 アドニスをこの世界に置き去りにしたのは、その間好きに鍛錬して身体なり精神なり鍛えろと言う彼女なりの気配せだったに違いない。

 いいや、アドニスは笑ってしまう。その己の思考が下らなくて。


「……それは、気配りのつもりか?」

 呆れた声色で口にする。


「無駄に10日間足掻いて何になる?」

 アドニスの言葉にシーアが首を傾げる。


「無駄?10日もあれば、この世界では、まあまあ強くなるよ」

「『恐怖』で人が弱くなると自分で抜かしておいて。それぐらいで『恐怖』が無くなるとでも?――思ってないだろう」


 シーアは口を噤んだ。

 何か取り繕う言葉を探す様に、視線を斜め上に動かして、ニタリ。

 その様子で十分。つまり最初からシーアはアドニスが恐怖を乗り越えられるとは思いもしていなかったと言う事。

 10日間の無駄な悪あがきをさせてから、心をぽっきり折ってやろうと言う算段だったに違いない。腹黒い女め。


「言っておくけどね。それだけでも良いさ。恐怖を僅かにでも乗り越えられたら、君の事を今度こそ全部受け入れてやる覚悟は決めさせてもらったよ」


 そんなアドニスの視線を受けてだったのか、シーアが言った。

 彼女はやれやれと言った様子で、顔を上げる。


「私もあの後ちょっとだけ反省したのさ。――少年ごころっていうの?無下にし過ぎたかなぁって」

「……それで、俺を受け入れるって意味が分からないんだが」

「そのまま、君の想いって言うの?受け止めてあげようかなぁ……って」

「意味が解らん」


 そっぽを向き、言葉を発するアドニス。

 彼女がクスリと笑みを零した。思わず、アドニスは再び彼女の顔を見上げる。

 目に映ったのは、静かに微笑む彼女の表情。初めて見る顔だ。心底呆れ返った顔。


「其処までは気が付かなかったんだね」

 シーアが笑いながら言う。


「何の事だ……?」

 もう一度問うが、彼女はフイっと顔を逸らした。


「いや、良いんだよ。いいのさ、これで」

 今度は呆れ返った顔から、何故か酷く満足げな、カラカラとした笑みを零して。


「私への腹立たしさから恐怖を乗り越えた、それだけで十二分だ」

 やはり満足げに、再び賞賛にも似た言の葉を口にする。


 シーアの言葉を聞いて、もう十分と息も整ったアドニスは身体を上げた。

 少しだけ何かを考えるように目を閉じて、身体を回転させ、正面をシーアに向ける。


「2つ言いたいことがある」

「何だい?」


 唐突な言葉だと言うのに、シーアは驚く様子も見せていない。

 アドニスは息をついて、彼女を真っすぐに見つめ、指を一本彼女に差し向ける。


「まず、俺はこの鍛錬を酷く有意義に思っている」

「うん?」

「自分の矛盾、可笑しさは最後まで分からなかったが、コレだけは確かだ。俺はお前と、2人きりで鍛錬することが腹立たしいと同時に、楽しいとも思っている」


 裏返りそうな声を必死に押さえながら、言い切った。頬が熱い、きっと今自分は頬を赤らめているのだろう。

 であるからこそ、彼女が何かを口にする前に、続けて言い切る。


「でも、この楽しさはきっと俺の成長の為に、もっとも効率がいいからだ!だから――」

「だから?」


 目の前の彼女が笑みを讃えて問い返す。

 眼を逸らしたくなったが、必死に我慢してアドニスは1つ目の言葉を最後まで続け放つ。


「これからも、俺との鍛錬は続けろ。罰ゲームだってそのままでいい。服だけじゃなくても許容範囲なら買ってやる!」

「……そうか、分かった」


 アドニスの言葉にシーアは、少しの間をおいて素直に応じた。

 此方が肩透かしを食らう程に酷くあっさりと。目を細め、ニタリと何時ものように笑って。

 思わず、一瞬唖然と表情を浮かべるアドニス。

 だが、同時に思う。もしかしたら、彼女は自分の気持ちに、言いだそうとしていた事に、既に気付いていたのかもしれないと。


 だからこそ、アドニスは再度目を閉じてから。

 決意を決めたかのように眼を開く。そして、二つ目。

 本題中の本題、今日一番の決意を言の葉にしてシーアに送る。


「次に命令だ。いや――褒美をよこせ」

「……は?」


 目の前の女の顔が今度は、酷く珍しく困惑した表情に変わった。

 だが今度はそんな表情するんだな。なんて呑気に思うことも無く、アドニスは彼女に詰め寄る。

 顔が触れ合うんじゃないかと思える程の距離まで近づいて、怪訝そうな彼女の顔を、色のない瞳を覗き見た。

 鋭くぎらついた眼が彼女を映し撮り、はっきりと苛立った声色で言うのだ。


「いいか、その心を読む悪癖は今度こそ封印しろ……!俺も含めて全員だ。――コレは絶対の命令だ!」


 その言葉に、真っすぐとした眼差しに、赤い瞳は大きく開かれた。

 まるで思いもしていなかった言葉を贈られたかの様。

 だが、アドニスの眼は本当に何処までも真剣で、迷いがない。


 嫌だったのだ。自身の心を垣間見られるのが、彼女にのぞき見されることが。

 彼女が、誰かの心を覗き見る。その姿を思い浮かぶだけで腹立たしく思えて仕方が無い。


 それが彼女の最大の武器だったとしても、コレだけは譲れない。

 だから心を読むなんて、そんな能力は必要も無いのだと、アドニスは判断し断言したのだ。


 赤い瞳がアドニスを映し撮る。

 否定されるだろうか。悔しいが、彼女にはその権利がある。

 彼女の言う通り、シーアはこの世界では絶対な強者。強者が弱者の命など聞く必要はない。


 特に今、皇帝が支配する『この世界』は、正にそんな弱肉強食の『世界』。

 だから正直な所。嫌だと言われればそれまでだし、今だけの口約束――そんな下らない物にだって彼女は出来る。


 ふと、気が付く。

 いつの間にか、彼女からは表情が消えている事に。否、彼女の表情が変わっていたと表した方が正しい。

 酷く無表情で、だがとても真剣な物に。彼女本来の色として、映し出していたのである。


 ――ニタリ。彼女は笑む。

 ぐいっと、アドニスの頭が引かれたのは同時だ。

 こつん……と、小さな音を立てて額と額が合わさる。


「承知した、主様」


 シーアが言う。

 酷く当たり前に、笑みを讃え。心からの言葉を。

 まるでアドニスの想いなど杞憂だと言わんばかりの一言を。

 何時ものニタリ顔なのに、真実味がある約束を。


 その途端、アドニスの身体はがくんとシーアの膝の上に倒れ込んだ。

 彼女が受け止めてくれたから痛くはない。

 身体が重い、瞼が開けていられないほどに、眠くてたまらない。

 何、この感覚は前もあった。【ヒュプノス】と言う神としての力。人を眠りに誘う、所謂【魔法】なんて奴。


 重たくて堪らない瞼を何とか閉じない様に維持し、アドニスはシーアの膝の上で彼女を見上げる。


「……拒絶しないのか?」

「しない。――どうしても欲しい褒美、なのだろう?」


 アドニスの頭を撫でながらシーアは言う。

 相変わらずその赤い瞳に色はないが――。


 アドニスは彼女の言葉を胸に、笑みを1つ。


 いいだろう。我ながら愚かしいが、その言葉、信じてやろうと。

 彼女と良く似た笑みを、「ニヤリ」と浮かべ。


「……だったら。……約束だ、シーア。……この約束だけは、もう……破るなよ」

「いた!」


 眠りに落ちるその前に、その白い額に小さくデコピンを一つ、食らわせてやるのであった。



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