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42話『無色』4



 何度目の静寂か。静かな道場。赤い瞳は静かに閉じられた。

 伸びるのは白い腕。アドニスの首根っこを掴み上げると、まるで小石でも投げるがごとき感覚で彼を投げ飛ばす。


 アドニスの身体は簡単に宙に浮き、風を切る感覚を感じながら共に宙を駆ける。

 今日何度目か、背中に衝撃。

 床に叩きつけられた一撃がまだ取れておらず。受け身の体制も儘ならないまま、アドニスの身体は壁へと叩きつけられた。

 ずるりと音を立てるように地に落ちた時は、もう体は動かず。

 そればかりか、ピクリとも指一本動かすことも出来ない。


 いいや、違う。身体に与えられた痛みは関係ない。

 息をするのも困難なほどの、この衝撃は別にある。


 カツン……カツン……。ヒールの音が近づく。

 倒れ込み動けなくなった少年の前で音は止まった。


「――少年、人と言うモノはね。不思議なんだよ。」


 風も無い筈なのに、黒いスカートが静かにふわりと舞って。

 同じような、静寂にも似た声。その声が告げる。


「身体に『限界』が無くても、心には『限界』が存在する。――もう無理だ。強くなれない。コレが自分の限界だ。そう僅かに思ってしまうだけで、人はそこで自らの上限を作りそれ以上は進めなくなる」


 何も言い返せない幼い子供の前で【神】は無慈悲に。


「それはね、『恐怖』も同じ。『恐怖』は人を弱くする。この存在には絶対に勝てないと、心が決めるのだもん。『恐怖』と言う感情はこの世界で最も人を弱くする感情だ」


 アドニスの手が僅かにピクリと動く。

 分かった。分かったから。今日はもうそれ以上は何も言わないで欲しい、と言わんばかりに。

 その様子を目に映しながらも、シーアは無表情で無情に続ける。


「君は私に『恐怖』した。私の存在に、私の強さに、私と言う全てに恐れを抱いた……この意味が分かるね」


 嗚呼、止めて欲しい。本当に、それ以上は言っては駄目だ。

 だってそれ以上は、その言葉は、アドニスと言う怪物人物の唯一の尊厳を破壊する言葉だから。


 アドニス少年は強かった。身体も。心も。「限界」知らずの怪物。

 それがあったからこそ彼女に、【化け物】に食らい付き、離さないと意地を見せる事が出来たのに。

 その長所とも呼べる唯一の個性があったからこそ、自分はまだ「怪物」であると言えたのに。


 今静かに佇む化け物の側に。並ぶのもおこがましいと苦悩するほど、美しい彼女の隣に居る事を。

 まだ許されているのだと。まだ自分は「怪物」になり得るから。彼女が、彼女は。


 ――彼女はまだ、自分の側にいてくれるのだと。……そう言い聞かせて今まで足掻いて来られたのに。

 それ以上は彼にとっての大きな呪いとなる。



 そんな。アドニス幼い少年の気持ちなど理解することも無く。シーアは口を開いた。

 まるで心の底から哀れみ、小馬鹿にして呆れかえる様に。彼女は最後の言葉を投げつける。

 どこまでも冷たく。突き放す様な言の葉を、無情に叩きつけるのである。


「今の君は『最強』でも無ければ『限界が無い化け物』でもない。君は『最弱』で『限界が存在する』ただの人間だ」


 ◇


 夕暮れの中。もう何度目かも分からない静寂が流れた。

 シーアは紡いだ言葉を言い終わると、口を閉ざし。

 倒れ込んだ少年は何も言えない。


 彼女の瞳には背を向けて倒れているアドニスの表情は見えないし。

 アドニスからも、この時彼女がどんな表情を浮かべていたか、分からなかった。


 どれほど経ったか。またこの空気を壊したのはシーアだった。

 ヒールの音。シーアがアドニスに背を向け、彼の側から離れていく音。


「――……馬鹿だね、君は。変に隠して思い込むから矛盾した行動になるんだよ」


 口から紡がれた言の葉はまるで助言にも似た何か。

 遠ざかっていく足音にアドニスはゆっくりと頭を動かし、漸く彼女を見る。

 自身から離れていく美しい少女の姿。傷一つなく、今日買った黒い服を舞わせて歩みを進めていく。

 そんな彼女の前に突如として、急に大きな黒い穴が現れた。


 ブラックホールみたいな、中が見えない黒い穴。

 靄が掛かったようなこの黒い穴は、彼女専用の出口。

 中に入ると、シーアは今までが嘘幻だったかが如く、この場から完全に姿が消える。

 これもまた【神】と名乗る彼女の御業。


 彼女はこの場にアドニスを一人置いて、去ろうとしている。

 でも止める気はアドニスには無い。止められる気力が彼には残っていない。

 ただ、ぼんやりと彼女が去り行く姿を黙って見送る。


 穴の入口の前で、シーアは立ち止まった。


「少年、今日はもう休むと良い。明日、また鍛錬に付き合ってあげる」

 静かな口調で彼女は明日を告げる。

「ただし……」と、そう言葉を付けくわえて。


「私は無駄が嫌いでね。……私に対しての『恐怖』を無くしなさい。ソレが出来なければ鍛錬は終了」

 ああ、安心しなよ。そう、次はニタリと笑う。


「心配せずとも鍛錬が終わっても、私は君の側にいてあげるからさ。良かったね、私に感謝しなよ。――少年」


 カツン……。言葉を言い終わると同時にまた響くヒールの音。

 彼女の身体が、暗闇の中に消えていくのが、ぼんやりとした眼に映った。

 ただ、最後に彼女は一度だけ、アドニスを振り返る。


「……それとさ。君は私に色が無いって思っているけど。――君の方が無いよね?」


 ポツリと聞こえた言の葉は空耳か。

 それとも彼女がアドニスに向けての本音だったのか。どちらにせよ、その言葉を最後に。

 シーアと言う女は、遂にその場から姿を消したのだった。



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