何度目の静寂か。静かな道場。赤い瞳は静かに閉じられた。
伸びるのは白い腕。アドニスの首根っこを掴み上げると、まるで小石でも投げるがごとき感覚で彼を投げ飛ばす。
アドニスの身体は簡単に宙に浮き、風を切る感覚を感じながら共に宙を駆ける。
今日何度目か、背中に衝撃。
床に叩きつけられた一撃がまだ取れておらず。受け身の体制も儘ならないまま、アドニスの身体は壁へと叩きつけられた。
ずるりと音を立てるように地に落ちた時は、もう体は動かず。
そればかりか、ピクリとも指一本動かすことも出来ない。
いいや、違う。身体に与えられた痛みは関係ない。
息をするのも困難なほどの、この衝撃は別にある。
カツン……カツン……。ヒールの音が近づく。
倒れ込み動けなくなった少年の前で音は止まった。
「――少年、人と言うモノはね。不思議なんだよ。」
風も無い筈なのに、黒いスカートが静かにふわりと舞って。
同じような、静寂にも似た声。その声が告げる。
「身体に『限界』が無くても、心には『限界』が存在する。――もう無理だ。強くなれない。コレが自分の限界だ。そう僅かに思ってしまうだけで、人はそこで自らの上限を作りそれ以上は進めなくなる」
何も言い返せない幼い子供の前で【神】は無慈悲に。
「それはね、『恐怖』も同じ。『恐怖』は人を弱くする。この存在には絶対に勝てないと、心が決めるのだもん。『恐怖』と言う感情はこの世界で最も人を弱くする感情だ」
アドニスの手が僅かにピクリと動く。
分かった。分かったから。今日はもうそれ以上は何も言わないで欲しい、と言わんばかりに。
その様子を目に映しながらも、シーアは無表情で無情に続ける。
「君は私に『恐怖』した。私の存在に、私の強さに、私と言う全てに恐れを抱いた……この意味が分かるね」
嗚呼、止めて欲しい。本当に、それ以上は言っては駄目だ。
だってそれ以上は、その言葉は、アドニスと言う
それがあったからこそ彼女に、【化け物】に食らい付き、離さないと意地を見せる事が出来たのに。
その長所とも呼べる唯一の個性があったからこそ、自分はまだ「怪物」であると言えたのに。
今静かに佇む化け物の側に。並ぶのもおこがましいと苦悩するほど、美しい彼女の隣に居る事を。
まだ許されているのだと。まだ自分は「怪物」になり得るから。彼女が、彼女は。
――彼女はまだ、自分の側にいてくれるのだと。……そう言い聞かせて今まで足掻いて来られたのに。
それ以上は彼にとっての大きな呪いとなる。
そんな。
まるで心の底から哀れみ、小馬鹿にして呆れかえる様に。彼女は最後の言葉を投げつける。
どこまでも冷たく。突き放す様な言の葉を、無情に叩きつけるのである。
「今の君は『最強』でも無ければ『限界が無い化け物』でもない。君は『最弱』で『限界が存在する』ただの人間だ」
◇
夕暮れの中。もう何度目かも分からない静寂が流れた。
シーアは紡いだ言葉を言い終わると、口を閉ざし。
倒れ込んだ少年は何も言えない。
彼女の瞳には背を向けて倒れているアドニスの表情は見えないし。
アドニスからも、この時彼女がどんな表情を浮かべていたか、分からなかった。
どれほど経ったか。またこの空気を壊したのはシーアだった。
ヒールの音。シーアがアドニスに背を向け、彼の側から離れていく音。
「――……馬鹿だね、君は。変に隠して思い込むから矛盾した行動になるんだよ」
口から紡がれた言の葉はまるで助言にも似た何か。
遠ざかっていく足音にアドニスはゆっくりと頭を動かし、漸く彼女を見る。
自身から離れていく美しい少女の姿。傷一つなく、今日買った黒い服を舞わせて歩みを進めていく。
そんな彼女の前に突如として、急に大きな黒い穴が現れた。
ブラックホールみたいな、中が見えない黒い穴。
靄が掛かったようなこの黒い穴は、彼女専用の出口。
中に入ると、シーアは今までが嘘幻だったかが如く、この場から完全に姿が消える。
これもまた【神】と名乗る彼女の御業。
彼女はこの場にアドニスを一人置いて、去ろうとしている。
でも止める気はアドニスには無い。止められる気力が彼には残っていない。
ただ、ぼんやりと彼女が去り行く姿を黙って見送る。
穴の入口の前で、シーアは立ち止まった。
「少年、今日はもう休むと良い。明日、また鍛錬に付き合ってあげる」
静かな口調で彼女は明日を告げる。
「ただし……」と、そう言葉を付けくわえて。
「私は無駄が嫌いでね。……私に対しての『恐怖』を無くしなさい。ソレが出来なければ鍛錬は終了」
ああ、安心しなよ。そう、次はニタリと笑う。
「心配せずとも鍛錬が終わっても、私は君の側にいてあげるからさ。良かったね、私に感謝しなよ。――少年」
カツン……。言葉を言い終わると同時にまた響くヒールの音。
彼女の身体が、暗闇の中に消えていくのが、ぼんやりとした眼に映った。
ただ、最後に彼女は一度だけ、アドニスを振り返る。
「……それとさ。君は私に色が無いって思っているけど。――君の方が無いよね?」
ポツリと聞こえた言の葉は空耳か。
それとも彼女がアドニスに向けての本音だったのか。どちらにせよ、その言葉を最後に。
シーアと言う女は、遂にその場から姿を消したのだった。