アドニスの頭が白く染まっていくのが分かった。
彼女の言葉の意味が理解出来なくて。目を見開き、唇を噛む。
「最強」なんて言葉はアドニスにはふさわしくない。これは受け入れた。
だが、もう一つは違う。
「限界が無い」――と、いうアドニスが持つ特例の個性。
これは自画自賛や周りからの賛美と恐怖な先程の張りぼてと違い、確かに確実な事実で誠。
産まれ持ってのアドニスだけの最大の武器ともいえよう。
それは、自負共に認める最大の事実。
現にアドニスは【神の時間】なんてふざけた時間軸の中で
女が態々疲れの蓄積だけは残して世界を創り上げたと言うのに。アドニスの前では無意味。
正にこれは「限界がない」から故の偉業であるのは違いない。
そして、一週間前に自尊心を根元から粉々に壊されたアドニスにとって。
その個性とも呼べる異常は、彼が新しく掲げ、唯己の中に一残った「誇り」と言う存在に他ならなかった。
――今度はソレを、この女は壊そうと言うのか。
アドニスは怒りから身体が震え、爪が食い込み、血が滲むほどに拳を強く作り上げる。
顔は悪鬼のごとく歪み。歯は音が軋むほどに噛みしめた。
「ほう。そんな顔が出来ると言う事は
アドニスのそんな表情を見てか、シーアの口元が歪む。
口元が吊り上げる程に笑みを作り上げるが。しかし、その表情は嘲りの何物でもない。
くつくつと笑いながら、シーアは僅かに身体を傾けると、見下すがごとくアドニスを見据え。
「でもさ」そう前置きして、言った。
「だったら、なんでそんなに私を怖がっている訳?」
赤い瞳が細り奥にアドニスを映し撮る。
その言葉が余りに鮮明で、余りに恐ろしく、余りに悍ましく
アドニスは息の仕方を忘れたかのように、詰まらせ目を見開くしか出来なかった。
◇
確かに、確かに、だ。
アドニスはシーアに何処までもぬぐい切れないほどの恐怖を抱いている。
それは一週間前。完膚なきまで敗北を味合わされ、彼女の底知れない強さを見せつけさせられたから。
否、それ以前より前に元から彼女にはアドニスは一度殺されかけている。
不意打ちと言う形であったが、首を鷲掴みされ、窒息。首の骨が折れるのでは無いかと言う力で抑え込まれた。
あの時の綺麗な瞳は、まだ忘れられない。
そんな化け物に恐怖を抱くなと言う方が、無理があるでないか。
「……まただ。その眼だ。その表情だよ。少年――!」
苛立たしそうにシーアが再び声を出す。
思い出に入り込み。今を忘れていたアドニスは我に返る。
俯いていた顔を上げた時、彼は再び息を詰まらせ、目を見開く。
シーアの顔、こちらを見る美しい彼女の顔。
それが歪み切っている。
あの街中で見た時同じ、心の底から吐き気を催す様な表情。いや、それ以上の代物。
――だと言うのに。なぜ彼女は醜い表情をして尚、美しいとも思えるのか。
「……君ってさ」
シーアが口を開く。
醜く歪んだ美しい顔を何とか取り繕って首を傾げる。
「君って、私の事、好き?」
次に出たのは余りに場にそぐわない言の葉。
あまりの事にアドニスは彼女の真意が読めず。一度口籠り、何かを考えるように目を逸らす。
ただ、それは僅かな出来事。彼の表情は直ぐに歪んだモノへと変貌する。
「――……嫌いに、決まっているだろう!」
それは心からの。
何が好き、だ。
毎日セクハラまがいの事を仕出かし、此方の逆鱗に触れる事ばか仕出かして。
鍛錬と称して容赦なく叩きのめして、気まぐれ一つで我儘を述べ。
「邪魔者」をこの空間に入れる事を赦し、洋服が欲しいと駄々を捏ねて、此方を揶揄う事に全神経を尖らせて。
そんな女に、好意を寄せる
「――此処まで来ると吐き気を通り越すレベルなんだけど?」
アドニスの答えに、シーアは絶句にも似た声を漏らすのだが。
彼女は傾けていた身体を戻す。今度は真っすぐとアドニスを見つめ溜息を零す。
そして、何かを諭すかのように口を開く。
「あのね、少年。君さ。私が怖いのは分かるよ」
歪み切った顔で続ける。
「私に対して生物的な恐怖を感じるのは、仕方が無い。でもね」
仕方が無いなんて、言葉にしながら。
最後のその悪意に満ちた真実を叩きつける。
「――私を傷つけたくない。私を傷つけるのが怖いって言うのは、違うんじゃないかなぁ?」
本人ですら気が付いていなかった、その本心を吐露するのだ。
◇
静寂が流れる
彼女から発された言の葉にアドニスは息を詰まらせ、目を見開く。
それでも何とか反論しようと口を開くのだが、詰まった声は簡単には出てくれない。
「もう一回言おうか?」
そんなアドニスの前で呆れた声色が一つ。
静寂を壊し、彼女が動く。
溜息を混じらせ。カツンと、高く響くヒールの音。
夕暮れのカーペットの上を優雅に歩むように彼女はアドニスの側へと進む。
自身より背の高い彼の目前へと立ち止まり、白い手が伸びて来て、細い指が彼の顎をしゃくった。
アドニスの目に映るのは訝しげな彼女の表情。
理解できない。何か別の生き物を見る綺麗な瞳。
「君は、何故私を恐れている?」
アドニスの世界が反転したのは、彼女の声が響いたのと同時。
腕に小さな手が伸びたと思ったら、ぐらりと世界が揺れ。視界から赤い瞳が消え、代りに目に映ったのは天井。
背中に鈍い痛みと、身体に感じる叩きつけられた感触。
再びカツンと音が響き。腰を屈め覗き込むように。
再度視界に映ったシーアを見て、アドニスは漸く彼女の手によって身体が床に叩きつけられた事に気が付いた。
此方を覗き込む赤い瞳が色を灯さないまま、しかしもう隠す事も飽きたのか、美しい顔が歪んでいる。
醜くも美しい表情のまま、シーアはアドニスに指を差し、張り裂けんばかりの声を放った。
「君はね、さっきも、いつもそうだ!何故私を恐怖する?」
「……仕方が、無いだろ。怖いんだ」
彼女の赤い瞳を見て、アドニスの口からは事実が溢れていた。
「私が、ただちょっとばかし腕を振り上げただけで君は怯え切った顔で身体を守る。怖いと言っても怖がり方が異常だ!」
何時もの事実を、苛立った様子で口にする。
でも。だって。ソレは仕方が無いじゃないか。
やはりどうしても怖いのだ、彼女の一撃が。
下手をすれば死ぬであろうことが、彼女と最初に出会った時から知らしめられたのだから。
「違う!私が怖い?本能的に、死への恐怖を感じ身を守る?――それだけじゃないだろう!」
それでも、彼女は違うとアドニスの恐怖を否定する。
まるで今の彼の思考を読み、拒絶するかのように手を大きく横に振る。
「君はね、一撃も弱いんだよ!一週間前の私を殺そうとする一蹴は如何した!あの時の怒りは何処へやった!今の君は子鼠どころじゃない!それ以下だ!!」
罵倒が混じる問い。あの時の怒り……?
彼女が余りに自分を揶揄い遊ぶから、頭に血が上って、思わず殺そうと奔走した。一週間前のあの一瞬。
あまりに馬鹿な事を仕出かしたと、思い出しても心から自身に腹が立つ、あの瞬間。
あの時の、
「……俺は、別にお前を殺したいとは思ってないから、無理だ」
だから、素直な気持ちを言葉に出す。出さなくてはいけない気がしたから。
がん――と何かで何かを叩きつけるような音がする。
その音の正体が、シーアが足を踏み下ろし、床を叩きつけた音だとは、その時のアドニスには分からなかった。
「だから、ソレだよ!ここまで自覚が無いのは可笑しいぞ!」
また、荒ぶった声が響く。
でも何故だろうか。
彼女の言葉の端々には本当の所。感情なんてモノは一つも混ざっていない様に感じられるのは。
その色のない声で、まるで迫真に演じるかのように彼女は最後に続ける。
「君は、私を嫌いと言う」
ああ、嫌いだ、お前なんて。
「私を嫌いと行動する。私を憎しみ、私を恐れ、私を化け物と呼ぶ」
ああ、大嫌いだ。殺されかけたんだ。憎しんで、恐れだって抱くさ。化け物と呼んで何が悪い。
「でもね、中途半端なんだよ!いや、中途半端なんてモノじゃない。なんどでも問う!なんで君は私を恐れている!何を一番恐れる!」
彼女の問いの意味が分からない。どうしても理解が出来なくて、アドニスは小さく首を横に振る。
再び、彼女は怒号を上げる。最後の言葉を叩きつけた。
「鍛錬を思いだせ!デートの時の自分を思い出してみろ!幼馴染の女を遠ざける自身の気持ちを思い出してみろ!――君はね、この私なんかに――!!」
だが、彼女の
夕暮れ差し込むこの【世界】で彼女は、まるで螺子が切れたかのように口を閉ざし、静寂が訪れる。
アドニスの視界には色を変える彼女が映った。
一瞬映るのは、困惑。まるで理解が出来ない、何かを見るような視線が降り注がれる。
次に露わになったのは、まるでどうしようもない仔を見る様な顔。哀れむ様な視線が送られる。
それは今までの様な演技じゃない。今日見た彼女と同じ、シーアという人物そのものの表情。
その二つは実に短い一瞬のものだ。
シーアは息を付く。屈めていた身体を元に戻し、アドニスから視線を外す。
身体を起こした彼女の顔は、今までが嘘の様に。
能面が如く無表情へと顔が変貌し。その赤い瞳に彼を映す事もやめていた。
彼女が、口を開く。そして、突如として。
「――。君は気持ち悪い。気持ち悪いお前なんて、私は大嫌いだ」
酷く冷徹な声で、世界が止まる拒絶を1つ、放った。
◇
再び静寂が流れる。だが、今度は本当の静寂。
赤い瞳が、また、アドニスを映す。
赤い瞳。その瞳の奥に、呼吸の仕方を忘れたかのように。
愕然と。呆然と。絶句と。絶望を混ざり合わせたかのような彼の姿を、映し撮る。
この静寂の中で、アドニスは呆然とシーアを見据えた。
感情の無い瞳で此方を見下ろす彼女を、白い頭で見つめる。
声が、出ない。どうしても声が出なくて。胸が張り裂けそうになり、胸を押さえる。
そんな子供にも、彼女は容赦しない。
続けざまに、彼女は彼を壊す
「君はさ。私が怖いんだよね。でもさ、それ、私の存在が怖いんじゃないよ。実際の所君は、私を恐れているんじゃない。
再度。しかし今度はハッキリと。まるでアドニスの心を見透かすように。
いいや。どちらでも良いか、そうポツリと付け足して。
赤い瞳にアドニスを映し撮り。今度こそ最後の言葉を。
「あのね、少年。その『恐怖』なんてモノは、それはね――――『限界』になるんだよ」
まるでロボットのごとく。無感情の声色で。その一言で。
少年のたった一つ残った「誇り」を叩き壊すと気が付きながら、彼女は事実を叩きつけたのだ。