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38話『吐き気がする』



 ポカリ。

 音にするなら、まさにそれ。


「最低だな、少年。最低だ」


 シーアが何度も腕を振り上げて、アドニスに振り下ろす。

 その度、ぽかぽか。ぽかぽか。微塵も痛くない。

 普段の彼女からは考えられないぐらいの、手加減ってレベルが吹っ飛ぶ威力で殴るのだ。


 緊張で冷や汗を流しながら、アドニスはその様子を唖然と見ていた。

 おずおずと、構えていた手を下げる。


 ――どうやら、無意味な心配であったらしい。胸を撫で下ろした。

 反対にシーアは止まらない。ポカポカ、ポカポカ。

 この詐欺師め。と、いう威力でまだ殴る。


「最低だ、少年!あの仔に謝れ!」

「――は?なぜ」


 しかも口から出るのは頓珍漢な言葉。

 何に其処まで怒り始めたのかと思えば

 どうやら何故か猫の扱いに対して怒りを露にしたようだ。

 それもわざと作ったような、怒り。


 というか、鬱陶しい。


 殴り続ける彼女の手を受け止めて、アドニスはシーアを見る。

 赤い瞳がアドニスを映す。相変わらず色の無い目だ。


 表情は怒っているのに、目にはその色が無い。

 それどころか、ニタリ――。

 まるで何時もの笑みを露わにするように、彼女の瞳は僅かに細くなる。


 は、と気づく。

 それは周りの視線だ。

 クレープの行列に並ぶ女性客の視線。


 くすくすと、小さな笑い声と。愛らしい物でも見る瞳。

 僅かに送られる鬱陶しい物でも見るような視線。


 ああ、理解した。

 この女。コレが狙いか。アドニスは唇の端を噛みしめる。


 あの時と同じ。下着事件の時と同じ。おまえ、遊んでいるのだな。

 わざと目立とうと言う魂胆か。なんて忌々しい女だ。

 ニタ付くシーアの前で、彼女の真意に気が付き、この場から今すぐ逃げ出したくなった。


 だが、踏みとどまる。

 ここで逃げ出せば一週間前と同じ。

 逃げ出したら、この女は数倍で揶揄いにくる。


 それだけは避けたい。

 いや、これ以上この女から敗北は味わいたくない。

 せめて口論だけでも、勝利を収めたい。


 そんな他人から見れば、酷く浅はかな対抗心が胸に宿った。


 アドニスは決心したように、足に力を込めて彼女を睨む。

 ――いいだろう。お前に付き合ってやる。そう、微かに笑って。


「名もないあの仔をどうやって、愛でてやればいいと言うんだ!」


 シーアが叫ぶ。わざとらしく、大声で。

 まるで捨て子でも拾った迫力じゃないか。良い演技だ。

 ――ふん、しかし、そんなに名前が大事なのか?だったらくれてやる。


「――あいつの名前は『ねこ太』だ」

「なに!?名前があったのか、あの仔には?なんで言わなかった!」


 たった今付けたからな。

 と言うか、ノリノリで返してくるな。

 良いだろう、まだ続けるのなら乗ってやる。


「ただのだ!愛でるなら喉でも撫でてやれ、いつもやっているだろう。俺のいない所で缶詰大盛にして肥やしているじゃないか」

「な、何故知っているんだ!」


 ――後者に関しては本当にやっているとは思わなかった。

 だから最近更にまん丸になって来たのか?アイツは。

 ああ、そう言えばと思い出す。


「――いや、知っているか?シーア」

「にゃ、にゃんだ」

「アイツはな、朝方俺が起きる30分前にお前から缶詰を貰い、俺が起きたら俺に缶詰をせびりに来るんだ」


「……悪い奴じゃないか」


 ああ、そうだ。悪いだ。

 アドニスは続ける。


「それを断ったら、まるで外道でも見るような視線で見上げて来る」


 少しの間、シーアはその綺麗な顔に素で初めて色を付けた。

 心の底から信じられないと言う様な、表情を一つ。



「極悪にゃんじゃないか。だから、あんなに太っているのか――!!」



 漸く猫の恐ろしさを理解したじゃないか勝った!!!

 ねこ太を肥やしているのは、紛れもなくシーアの責任だが。いや、アイツは元からデブだったか。


 いや、自分は何の話をしているんだ?


 いや、ちがう。

 今はそんなこと問題じゃない。アドニスは口を閉ざし。

 強張る彼女の表情を見据えて、つい手を伸ばす。


「む!?」

 滑らかな頬を右手で掴み上げて、まじまじと彼女の顔を見る。


「な、なんだい少年」

「――……」


 その表情は、初めて見る彼女の本来の表情であった。

 いつものニタリ笑う顔じゃない。人を揶揄う為にワザと作った顔じゃない。


 それは心から困惑し、混乱したような顔。

 まさか猫で彼女の色が変わるとは思いもしなかったが。

 ああ、良い色だ。アドニスは彼女の表情に思わず見入る。



「なんだお前、造り物じゃない表情があったんだな」

「――――」



 その一言に、美しい女の顔は再び色を変えた。

 次は心から驚き、愕然とした様子の彼女本来の表情。


 立て続けに見た彼女本来の色。

 あの万華鏡の瞳と比べれば、落ちるが。

 嗚呼、此処から思う。


 ――随分と、微笑ましい物だな。


 そう、見惚れてしまう。



「…………」

「――――!」


 彼女の表情が、変わったのは刹那だった。

 見惚れていた表情が酷く歪む。


 形の良い眉が吊り上がり、赤い唇を血が滲むほどに噛みあげ。

 頬が僅かに痙攣をおこし、目の端が目に見えて上がり切る。


 だと言うのに、赤い瞳は何処までも無だ。ビー玉の様な赤にアドニスを映す。

 だのに、彼女のその顔は醜くなんてない。むしろ美しい。


 アドニスの目に映る姿は、寒気が走る程に酷く美しく。なんて、恐ろしい――。



「――少年!」

「っ!」


 名を呼ばれた。我に返ると今の表情が嘘の様に、彼女が此方をいつも通りの表情を向け。ニタリ。

 いつもと変わらない色のない表情で笑って、細い手が頬に触れていたアドニスの手を掴み上げている。


「気が変わった。――鍛錬ゲーム……、してあげるよ」


 続けざまに彼女が言う。

 折角並んだ行列を抜け出して、黒い影が後ろ手に組ながら離れていく。

 彼女の言葉の真意は直ぐに気が付いた。

 自分が望んでいた事を、彼女が承けてくれる。これは分かった。


「ほら、おいでよ。続き、したいんでしょ?」


 ――だが、アドニスは息が詰まったようにその場から動けない。

 手招きをするシーアの前で。ただ呼吸をするのも辛いほどに苦しくなり、頬に冷や汗が流れると同時に生唾を飲み込む。



「ねえ、おいでよ」



 悪魔の呼び声がする。

 変わらず、赤い瞳の色は変わらない。無、そのものだ。

 口元が裂けるような笑みを変わらず「ニタリ」と張り付けて。



「何しているの?少年――」


 ただ、分かる。

 不味い事になった、全神経が叫び。

 最悪が待ち受けていると頭が警告を鳴らす。


 首を傾げて、色のない瞳でアドニスを映し撮る彼女を心から恐怖する。


 嗚呼。だって、今、彼女シーアは。

 感情一つ見せないはずのこの女は今。



 心の底から、アドニスと言う存在を

 気味悪がっているのだから――。





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