倒れた先で、アドニスはゆらり揺らめいた。
身体が痛い。体中が痛い。壁に叩きつけられたのだ。当たり前だ。
それでも手を付いて、力いっぱい痛みに耐えながら、身体を持ち上げる。
ぎりりと、歯を噛みしめる音。眼には殺気を籠めて送るのはシーア。
「ころす……」
「ん?」
「――殺す気か!!」
若干痛みで震える声で叫んだ。絶叫にも近かった。
その言葉に、シーアは笑う。
「殺す気なんてとんでもない!殺すつもりだったら、頭が吹き飛んでいたさ」
心底小馬鹿にするように。しかし冗談には聞こえない言葉をサラリ。
お腹を抱えて笑う彼女を前にして、アドニスの表情は更に険しい物へと変貌していった。
何が腹立たしいかって、この女。彼女の言葉は事実だからである。
確かに先程、自分は完全に手加減されていた。もう、本当に腹が立つほどに。
アドニスは立ち上がる。痛みなどもう消えた。
「もう一回だ!」
「えー。まだやるの?まぁいいけどさぁ。今度はもうちょっと、本気出してもいいよ?」
ふわ、ふわり。シーアが宙に浮く。戯言を勿論当たり前に自然と少年に投げつけながら。
その言葉が言い終わる前だ。アドニスが壁際から消えたのは。
シーアの前に現れたアドニス。今度は回し蹴り。
彼女はいとも簡単に。その攻撃も、ふわりと身体を動かし避けてしまうのだが。
こうして、また攻防が始まった。攻防と言うのは若干謎だけど。
◇
これは、シーアと言う存在を師にして始まった鍛錬である。
一週間前のあの日。シーアはアドニスの「師」―― と言うモノになった。
師になったからには何が必要か。簡単だ、弟子を鍛えるのである。
数秒の思考の結果。産まれたのが、今日この日の
ここ数日ずっと、彼の怪我が治ってから毎日繰り広げられている。日々の
ちなみに、此処は『組織』が運営する。孤児院の運動場。
「鍛錬」と言う名の遊びを子供たちが強要されるこの場で。
2人の「修行」は毎日数十時間、殆ど休みなしで行われている。
「おい。待て、アドニス!」
「!」
アドニスの「攻」が再びかわされた時。2人を止める声が上がった。
動きが止まり、視線だけを声がした方へと向ける。
目に映ったのは運動場の入口。
そこにポツンと立つのはドウジマだ。
ドウジマの姿を確認した瞬間。アドニスの身体に
それが彼女の体温と言うのは、もう慣れた。
「……残念だったね、少年。休憩だ。行っておいで?」
耳元で囁き声が聞こえる。
何が「行っておいで」だ。離れる気は無いくせに。
など、心で悪態をつくと、構えていた手を下ろし。
渋々とドウジマの元へと足を進めた。
◇
「――なんだ」
女を背に纏わせながら、何事もない様にドウジマに声を掛ける。
その声には酷く落ち着いていて、一週間前までの焦り等は微塵もない。
ドウジマは小さく頭を掻く。
「お前さ、後ろに引っ付いてるが……。なんで、そんなに普通でいられるわけ?」
思わず、だったのだろうか。ドウジマが声を漏らす。
アドニスは息を付く。
「慣れた。もうどうだって良い」
「あ、っそ」
発した一言には、やはり微塵も動じる様な色はない。
だが、本気で慣れてしまったのだから。仕方が無い。
背に当たる感触も、わざと押し付けて来る行為も。広がる温もりも。
どうしようもないと諦めたら気が楽になったのだ。本当に慣れただけだ。でも本当は何時も苛立っている。
――それは、さて置き。アドニスはドウジマを見た。
「で、何の用だ。俺は忙しい」
「一方的に弄ばれることが、か?」
小さな嫌味。僅かに眉を顰めたが、アドニスは目を閉じる。
「……依頼か何か?悪いが俺は免除されている。仕事なら他に回せ」
あしらう様に、事実を。
『ゲーム』まで一ヶ月を切った。
つい先日。まだアドニスの
正式に皇帝から、アドニスには仕事依頼はストップすると言う通達が送られてきた。
「馬鹿げた依頼などに気を取られるぐらいなら、好きに動かせていた方が良い」との事だ。
実に丁度良いお達し。
だからここ一週間。アドニスは、籠りっぱなし。
皇帝の望みとは、大きくかけ離れているだろうが。
訓練と言う名目で。このシーアと言う女に一太刀浴びせたくて、その一心で朝から晩まで此処にいる。
なにせ、今彼はこの『組織』の上官代理なのだから。
なに、何故かって?
シーアの一件でマリオが出勤拒否したから。結果、マリオの仕事がドウジマにまわって来た、それだけ。
そんなドウジマは頭を掻きながら溜息。声を荒げた。
「お前の事は把握してるよ。だがな、20時間だぞ、20時間!少しは休め!」
この言葉にアドニスは口を閉ざす。
嗚呼、そんなぐらい経っていたのか。
気が付かなかった。
運動場の時計を見るが、時間は10時ぴったりに止まって
訓練を始めたのが丁度8時からだったから、確かに
「必要ない。疲れてもいない」
アドニスは踵を返す。
「おい、女。もう一回だ」
「ええ?まだやるのかい?」
「当たり前だ。昼まではやる」
再び彼女を引き連れたまま、運動場の真ん中へ。大きな手が伸びて来たのは刹那。
シーアの首根っこを掴むと、アドニスから引きはがしたのである。
しかも、ふわりと。嘘のようにシーアはアドニスから離れていくのだから。
アドニスは歯を噛みしめながらも、立ち止まるしかない。
不服そうな視線が後ろに送られる。ドウジマにじゃない。シーアと言う存在に。
まるで猫の様に首根っこを引っ掴まれたまま、フワフワ。ニタニタ。
その隣で、ドウジマが鬼のような表情。
「や・す・め!!」
怒号にも似た、その声に。アドニスは舌打ちを繰り出した。