『……』
赤い満月の夜。
私はこの世界にやって来た。
目的の遂行の為に、ここに送り込まれてきた。
だと言うのに、何だろうコレは。
赤い瞳の奥に、黒い少年が映る。
怯え。呆け。私に見とれている黒い瞳に、顔。
この子は私が殺しかけた子供だ。
巻き込んでしまった子供だ。
やってしまったと。我ながらに呆れた。
目が覚めたら、てっきりちゃんと用意されていると思って。
よく確認することも無く、この子供に手を上げてしまった。
彼の首元を見る。生々しい青痣。実に痛々しい。私が付けた痕。
一歩間違えれば、子供を殺すところまで到達していただろう。
この子供は、違う。
見間違えるはずが無い程、別人だというのに。
『――じゃあね』
だからこそ私は彼に背を向ける。
この子を見るのが何より腹立たしくて、苛立って彼から目を逸らす。
後ろから私を掴もうと、少年が手を伸ばしてきたのは知っていた。
それを見て見ぬふりをして、殺しかけた子供を置き去りにその場を去る。
私は、私が望む者を探す。
この世で私が唯一、憎しまなければいけない存在を。
探して、探し回って。でも、見つからない。
――いいや、居ないことぐらいわかっている。
いま、この世の何所にも私の望む存在は。
今後どうやったって、この世界には私の望む存在は生まれ落ちないのだ。
この怒りを、私は何処にぶつければいい?
ふざけるな、ふざけるな、ふざけるな、ふざけるな。
ただ、感情を露わにする。目の前の物を
帰ろうと、必死に努力する。
でも、何をやっても私は、この世界から出られなかった。
私はこの先何に縋ればいい。何を求めればいい。どうやって帰ればいい。
なんで、どうして。
―― 一つの考えが私の頭に浮かぶ。
口元に笑みが浮かぶのが分かった。
――私は、目の前の少年を見つめる。
到底男には好かれない性格を身に着けて、彼の前に立つ。
相変わらず、気に食わない顔の少年だ。
その子供に私は縋りつく。
『ねえ、私を飼ってみないかい?』
我ながら、吐き気がするほど。気持ち悪いと思う。
殺しかけた存在に甘ったるい声で誘惑するなんて。
それでも身体を使って、まだ幼いこの子供を籠絡してでも。
私は、この子供の側に居ようと決めたのだ。
口付けだってする。
何なら誰も触れたことのない、この身体だってくれてやる。
気持ち悪いのはお互い様だ。拒否を受けたって。私は子供の側から離れる気は無い。
『――いいよ』
だから。
その答えを聞いた時。
迷いなんて微塵もなく、私を受け入れた少年の姿を見て。
思った訳。
――子供ながら「人」とは相変わらず、私より気色が悪い。
心底気持ち悪くて。
私は笑みを張り付けるのが精一杯だった。
◆
アドニスは、駆ける。
目に映るのは、静かに佇むシーアの姿。
赤いワンピースを着こなし。
つまらなさそうに自身の手を見据えながら、地に足を付けて微笑み佇む女の姿。
彼女の周りを、様子を窺いながら駆け回る。
僅かで良い。隙は無いか。探りながら。
「!」
目を細めた。
地を蹴る。向かうは女の元。
その背後に一瞬にして駆け寄り。身体を捻らせ、思い切り拳を振り上げる。
シーアはチラリとも此方を見ていない。頭は狙わない。その細い
「――くそ!」
拳は宙を切る。
己の手を見据えたまま、振り返ることも無くシーアは難なく身体を左に寄せ、後ろからの一撃を避けていた。
アドニスは体制を変える。足を付け、体制を変えるように再び。僅かに身体を捻らすと今度は反対の
――コレも無駄だ。シーアは難なくステップを踏み後ろへと。
「っ!」
それでもまだ追う。左足を軸に、右足を彼女の腰めがけ回し上げる。
それも避けられると、勢いで回転した身体を変え。彼女を追い、また一度左拳。
駄目だ。シーアは軽く避けてしまう。
空を舞う花びらの様に。ひらひら、ひらひら。
攻撃の軌道を読んで、紙一重に
「この……!!」
その美しさ。心底腹が立つ。
彼の手が彼女の肩に伸びる。
「おっと」
「――!!」
か細く、折れてしまいそうな肩を掴み上げる瞬間。
シーアは僅かに右手を上げた。
それは本当に僅かな動きだ。
肩に掛かった髪を払うような、ささやかな行動。
だがアドニスは、その僅かな動きだけで大きく反応を示す。
肩に伸ばした手は動きを止め。そればかりか速やかに腕を前に動かし構える。
己の身を守る為に。来るかもしれない彼女の一撃を耐えるために。
冷や汗が頬を伝った。
「……まあ、じゃあ。ご期待に供えてあげようか!」
にたり、赤い瞳がアドニスを映す。
彼女の身体の足が流れるように、動く。
この間と同じ。その姿は正に愛らしいウサギの様。
ぴょんっと撥ねて、軽やかに、しなやかに。
アドニスの守に転じた腕へと、容赦大いにありありで振り回すのである。
「――い!」
腕にシーアの足が当たった。
受け止めるなんて論外。
その少年にしてはガタイの良い身体は。まるで針を突き刺した風船の様に飛んでいく。
――凄まじい衝撃が一つ。
アドニスの身体は、壁に叩きつけられて。しかし、壁に穴を開ける程の威力じゃ、無い。
ずるりと音を立てるように、彼の身体は木製の床へと滑り落ちていった。
ああ、今日も敗北だ。