アドニスの頭は怒りで支配されていた。
何も考えられないほどに、彼女を殺す。自身を貶め辱めた彼女を殺す。
そんな、酷く幼稚な憤慨で覆いつくされていた。
渾身の一撃を受け止めた彼女には勝てないと。昨晩のうちに、その頭は理解し。
この女は化け物だと、判断していたのにも関わらず。
彼女の行動すべて、思春期の少年には耐えられない辱めであったのだろう。
だから、彼女に最後の一撃を浴びせるべく跳び掛かり。
拳を振り上げるその瞬間まで、本気で女を殺す事を考えていた。
――目に映る。美しく体を捻らす、ニタリ笑うシーアの姿に気が付くまでは。
彼女の、その姿を目に入れた瞬間。アドニスの頭は急激に冷えていった。
ただ、不味いと言う「恐怖」が体中を駆け巡る。
攻撃にまわっていた手は、防御に走り。
身体は自然と、衝撃に備えるように丸くなる。
彼女を映していた眼は、彼女の足だけを映しとり。
その身を全て使って、「守備」と言うモノだけに専念したのだ。
でも。ソレは全て無意味に等しい。
腕に当たる、細い足の衝撃が物語っている。
冷静になった頭で理解する。赤い瞳を見て理解する。
ああ、ダメだ。負けた――……と。
◇
凄まじい衝撃が一つ。
広い部屋の中を子供が一人、飛び壊す。
「――っ!」
巻き込まれたアーサーは、何とか身体を前に倒して回転。その場から逃げ出す。
それから数秒の間も無かった。
彼が今まで身を隠していた、何とか原型を留めていたデスクが粉々に壊れ切ったのは。
窓を飛び越え、テラスへと。
背中に感じる衝撃と、何かにぶつかる音。壊れる音。
「が……っは!」
耐え切れず、アドニスの口からは血が吐き出る。
身体に感じるのは浮遊感。眼が霞む。意識が飛びそうなまでの、朦朧とした意識。
それでも視線を下に移せば。見えるのは、コンクリートの地面。
落下する感覚を感じた瞬間に。今の状況を、漸く理解する事が出来た。
このままではまずい。
いま、背中から、数メートルはある高さから落ちるのは不味い。
「くそ……!」
その事実を理解して、アドニスは何とか受け身に入る。
身体を捻らせて、正面を下に。
数メートルの距離など、瞬く間。彼の身体はそのまま底へと吸い寄せられていく。
本能的に手を伸ばした。地に両手を付く。
みしりと音がして。右手には激痛が走ったが、我慢する。
そのまま体を無理やりにでも回す。
跳ねるように地面を強く押しあげて、アドニスの身体は僅かに宙へと浮いた。
でも、それで限界だ。ぐらりと傾いた彼の身体は着地する事無く、バランスを崩して倒れ込む。
「――……っ!ごっほ!げっほ!!」
身体に凄まじい痛みが襲い、血と共に咳が吐き出る。
上半身が痛い。ああ、コレは完全に肋骨が数本折れている。守備に回した右腕は、今はもう動きもしない。
肺が痛い。呼吸が上手くできない。それでも、必死になって息を吸い込む。大きく、大きく。
「おや、手加減したつもりなんだけどなぁ」
直ぐ側で声がした。
呼吸が上手くできなくとも、アドニスは声の主へと眼光を向ける。
まだ視界がボンヤリする中で、彼女の赤い瞳だけが妙にハッキリ映って。
思考がどんどん鮮明になり。息が苦しくても事実を目の当たりにして、軋むほどに歯を強く噛みしめた。
◇
「お……ま」
声にならない声で、アドニスはシーアを睨む。
血を口の端から流しながら。
凄まじい痛みと、息も出来ない苦しみが襲っても。
手に力が入らない。膝が折れ、何度も身体が地面に叩きつけられる。それでも。
彼女への感情一つで。アドニスの身体は、何とか起き上がる事が出来た。
だが、立ち上がるのはまだ無理そうだ。
絶えず咳を零す。肩で大きく息をし。酸素を身体に流し込みながら。
それでも、その場に座り込む形で。折れた腕を押さえ、アドニスはシーアを睨み続けた。
「ば……けもの……!」
アドニスの口から、漸く声らしい音が響く。
咳を漏らし、身を丸める彼の前。シーアは笑う。
「ひどいなぁ。君が弱いだけじゃないぁ」
ニタリと笑って。小馬鹿にするように。
「――……っ」
アドニスの表情が変わる。
『弱い』
そんな事、そんな言葉、掛けられたのは初めてだ。
頭上から、数人分の声が掛けられるが。全く耳に入って来ない。
アドニスには、目の前の女しか映っていない。
その女の声しか、耳には届かない。
シーアは笑う。
「いやぁ、子ウサギのように可愛い攻撃だったよ」
怪我一つない彼女は、意気揚々と声漏らし膝を付き。赤い瞳がアドニスを映しとり、細い指が彼の頬を突く。
それだけで、アドニスの身体は大きく跳ね上がった。「恐ろしい」と心から思った。
だって、分かる。この女は絶対に、指一本で人を殺せるから。
くすり――。シーアが声を漏らす。
「子ウサギ君。少なくともカンガルーにならなきゃ。『ゲーム』に負けちゃうよ?」
この場に不似合いな。理解もしたくない言葉を零し続ける。
ぎりりと、歯を鳴らす。左手を必死に動かして、彼女の手を払う。
「――っなにが、言いたい!」
必死に痛みを押さえて、怒号。
赤い瞳が、くす、くすり。
「だからぁ」
一つ間をおいて。
「
だ、なんて。
アドニスは、痛みを忘れたようにシーアに腕を伸ばしていた。
その胸倉をつかみ上げ、声を荒げる。
「誰が弱い!!なにが子ウサギだ!!俺が子ウサギなら貴様はなんだ!!化け物め!」
頭に浮かんだ言葉を、乱雑に並べ立て。
感じた怒りを一切隠せないまま、彼女へとぶつけた。
アドニスには「強い」と言う、自負と誇りがあった。
それだけは確かなもので。誰にも負けない確信があったと言うのに。
昨晩から滅茶苦茶だ。シーアと言う存在は、たった数分で自分より強い存在と知らしめてきて。その強さには、恐怖さえ感じた。
初めて見た時から、この女だけには勝てない。身体も理性も全てが叫んでいた。ソレを受け入れていたのに。
彼女を「化け物」と認めた上で。それでも自分はまだ、この世界では「強い」と確信していたのに。
今の彼女の言動は、まるでアドニスが取るに足らない弱い存在と表しているようだった。
まるで『ゲーム参加者』の中で、一番弱いと言わんばかり。そんな言い方。
「俺の何所が弱い!!」
だから、がなり立てる。
「俺は最強だった!お前が可笑しいだけだ!」
自信があったからこそ、それを粉々に砕かれて。
「化け物から見たら全部が弱っちい生き物だろう!!」
化け物が!化け物のくせに何を言うんだと、誰もお前に敵うはずがないと。怒りをぶつける。
「いやいやいや。君は最強じゃないよ?腕力が強いだけ。あのね、坊や」
そんなアドニスを前にして、シーアはまた酷く当然のように笑った。
にたりと口元を吊り上げて、彼女は「くつくつ」と笑う。
「私に勝てないって気が付いていたくせに。子供の癇癪で、無謀にも襲ってきた君なんてさ。危機管理も出来ない、
笑いながら、興味も無い紅い瞳で、彼女は彼の全てを否定するのである。
アドニスは息を呑み。
胸倉を掴んでいた手を離した。
シーアは立ち上げると、アドニスを見下ろす。
ケタリと笑って、彼を心の底から
「そもそも。化け物だから勝てないって。弱虫の発想だからね!本当に最強だったら、化け物といい勝負をするよ!――だって」
赤い瞳が、アドニスを映しとり。
鼻で笑って、嘲り笑って、美しく、言い放つ。
「『化け物』なんてものはね。人が到底かなわない『最強』の地位に立つ存在なのだから。だからさ、『最強』と『化け物』は同一なんだよ」
なぜ、