「――……!!!」
刹那。すさまじい殺気が
アドニスは眉を吊り上げ、鋭い眼に憤慨をこめ。
感情のままに右拳を振り上げる。
狙うは勿論、彼女のその腹立たしい顔
シーアの身体がふわりと宙に舞う。
アドニスの左肩に捕まったまま、流れるように斜め上に。
拳は宙を切った。
構わない。
拳を作っていた手で彼女の腕を掴み上げ、その身体を容赦もなく投げ飛ばす。
シーアの身体は驚くほどに軽く。小さな身体は軽々と飛び行き、しかし壁に当たると言う直前。
まるで、その場にクッションでも有るかの様に、ふわりと空中で止まった。
「――?」
「――っ!!」
黒の陰が駆ける。
赤い瞳に映るのは、足を高く振り上げる少年の姿。
険しい顔のまま赤い瞳を睨み下ろし、一気に足を振り下ろす。
シーアの身体は、また、くるふわり。
標的を失った足はそのまま壁へと衝突。凄まじい音と共に穴が開く。
まだだ。
黒曜石の眼にはまだ殺気が籠っている。
間髪入れず。体制を変え、身体を捻らす。
今度は彼女の細い脇腹に狙いを定め、長い足を容赦なく。
だが、それも避けられた。まるで縄跳びでもするかのように。
シーアは迫りくる足に手を付けたと思ったら、華麗に跳ね跳び。そのままの勢いで後ろへと、距離を取る。
それでも少年は止まらない。
穴が開く程に地を蹴り、直ぐに彼女に飛び掛かって行った。
「おっと!」
今度は拳。その細い喉元に向けて。掴み上げてへし折ってやろうと。
コレも触れる事すら出来なかった。
シーアはあっさりと、今度は溝でも飛び越える感覚で左へ。
ならばと、空いた左手で今度は彼女の腹を抉り狙って拳を振り上げる。
彼女はステップを踏むように数歩後ろに下がり、掠りもしない。
そればかりか。標的に触れる事も出来ずに、振り上げたままのアドニスの左手を支えにして、クルリと宙で一回転。そのままアドニスの後ろへ。
その様子は、正に少年を小馬鹿にしている様。
アドニスは左足を軸に身体を回転させる。今度は
シーアは見越したように頭を下げ。髪の毛一本、掠りもしなかった。
「なんだい、なんだい少年!」
シーアがケラケラ笑いながら、漸く口を開いた。
その間もアドニスの殺気が籠った攻撃は続いていく。
殴って、蹴って、拳を振り下ろし。身体を捻らせ、また蹴って。
全てにおいて容赦なく攻撃を仕掛けていく。
アドニスは何も言わなかった。
ただ、目に怒りが籠って。我を忘れているかのように、淡々と彼女を殺す一撃を与え続ける。
傍から見れば、その様子は異常、「恐ろしい」の一言。
目で追うのがやっとの速さで、人間など簡単に殺してしまう一撃を、アドニスは容赦なく振るい落とす。
否、目で追う事さえ出来ない者の方が多かった筈だ。
現に何とか目視出来ているのは、ドウジマとサエキ。
そしてこの騒ぎの中で目を覚まし、今現在身を隠すアーサーだけであっただろう。
アーサーに至っては、気付けば其処は恐ろしい戦地だったと言う他なく。
目を覚ました彼は、瞬時にデスク机の後ろに身を隠すのが精一杯。
マリオに至っては訳も分からず。頭を丸めて震えているぐらいしか出来やしない。
その巻き込まれた二人なぞ、お構いなし。
黒い二つの陰は「凄まじい」の一言でしか表せられない攻防を繰り広げ続けるのだ。
「――っ!」
どれほど経ったか。アドニスは漸くシーアから距離を取る。
アドニスから2メートルばかり離れて地面に降り立つシーア。
肩で息をしながら、アドニスはそんな彼女を睨みつけた。
「お前、人を何処まで馬鹿にする気だ!」
声を、振り上げる。その顔は怒りで染め上がっている。
「なにが?」
にたり、笑いながら白々しく傾げる首。
ワザとだと気が付きながらも、アドニスは声を張り上げる。
「ついさっきの事だ!……いいや。昨日から続く、お前の俺に対する嫌がらせの事だ!」
シーアはニタリ。笑いながら目を細めた。
「えー。なんだいそれ?身に覚え無いなぁ?」
軽口を零して、彼女はまた宙に浮く。
その様子はアドニスを逆なでするには十二分。
拳をきつく握りしめ、周りなど見えていない様子で再びシーアに飛び掛かっていく。
拳が彼女の中心を狙う。軽く避けられる。
「やめろと言っても抱き着いて胸を押し付けてくる!セクハラ女!」
「ふふ、あはは!別に良いじゃないかぁ。それぐらい」
「良くない!人前だろうが構わず抱き付きやがって!変態野郎!どっちの心象が悪くなると思っている!」
けたけた笑う彼女の顔面に、頭蓋を割る勢いで続けざまに拳をふるう。避けられる。
「それに、出鱈目な事を言いやがって!」
「ええ?出鱈目ぇ?私は本当の事しか言ってないけどな?」
「攻めたとか激しかったとが、下着の件とかワザとだろ!まるで俺に襲われたみたいな言い方だ!」
ニタニタ笑う彼女に足を振り回す。またジャンプして交わされる。
「人の事をご主人だとか勝手に呼びながら、命令は一切聞く気が無い!」
「聞いてほしかったのかい?私をいいように使いたかったの??いいよ、好きに命令して♪」
「そういう所だ!絶対嫌がらせだろう!」
きゃーと声を漏らす彼女を、掴み上げて投げ飛ばす。浮いている彼女には効果が無い。
「そもそも、俺はお前に殺されかけたんだ!5日前の事だ!」
「それはねぇ。悪いと思っているよ?だから、治しただろ。
「はあ!?」
「あれ、気が付いてない?首の痣。今朝消えていただろ?私が治したんだよ♪」
―― 漸くアドニスが止まる。
首元を押さえ。ああ、そうだと、気が付く。
5日前からずっと消えずに残っていた、あの痣の後。
シーアに付けられた生々しい青痣が、今朝気が付いたら消えていた。
その前日までは、くっきりと残っていたのに。異変は感じていたが。彼女の仕業だったと?
「ほら!」
シーアが声を上げる。
気が付けば、先ほどまで距離があったはずの彼女が目の前に居る。
にたにた、笑いながら指を差す。
「お礼はどうしたの?少年!」
「――!!!」
アドニスは彼女の肩に掴みかかろうと手を伸ばした。
その手は、宙を掴むことになるのだが。
シーアの身体はふわりと浮いて、アドニスから離れた場所に降り立つ。
変わらないニタ付いた笑み。
アドニスは肩で息をしているのに、彼女は微塵の疲れも見せていない。
余裕を見せ、剰えこちらを小馬鹿にする笑顔を永遠と向けている。
その様子に、アドニスは息を整える暇も無かった。
今日を含め。たった二日の間に彼女が自身にしでかした。全ての行動に憤怒し、我を忘れて殺しにかかる。
爆発した原因は言わずもがな、先程の彼女の行動だ。
まるでアドニスを貶めるような。
自分がシーアと言う女を弄び。ペットの様に側に置いていると思わせる。
誤解しか招かない表現を露わにしたこの女。もう我慢の限界だ。
ころす。殺す。絶対に殺す。
アドニスの中で、その言葉だけが渦巻く。
そもそもと、彼は思い出した。
そもそも、この女は何故此処に居るのか。
「そもそも約定違反だろう!!」
今までで一番の声を荒げた。
それは、彼女が昨晩決めた時に定めた条約。
「詮索せず、深入りせず、邪魔をしない」
絶対に破るなと命じた筈の盟約。
それなのにどうだ。
思えばこの女。昨晩から早々に、今日も、全て。
破っているではないか――!!
何故今までソレを見て見ぬふりをしていたか。
いや、今朝は一回思い出したはずだ。
そうだ、その件について苦言を零そうとしたのに、この女ときたら――。
「……く……ははは」
彼女の笑い声が響く。
お腹を抱え得て、ケラケラ笑う。
心底楽しそうな声で、小馬鹿にした笑い声で。
涙を溜めた赤い瞳が。何処までも興味が無い瞳が、アドニスを映し細くなった。
「いや、それ私。端から守る気ないからね!」
小さく首を傾げて、彼女は笑う。
何時ものように。
「純粋。気が付こうよ。――少年」
ニタリ――と。
◇
頭が真っ白になるのが分かる。
血が出るんじゃないかと思うほどに、唇を噛みしめて。
刹那。アドニスの姿は消えた。彼女に向かって跳び掛かった。
時間なんて一秒も要らない。次に現れたのはシーアの目の前。
鋭い瞳孔に美しい女の姿を映して。
その頭を叩き潰す。ただそれだけを決めて。
大きく振り上げた拳を、振り下ろすのだ――。
「ね、少年」
そんなアドニスの前で、彼女はやっぱり笑った。
「今この瞬間に、君が負けたら。洋服も買ってよね♪」
また、戯言を一つ。
黒い彼女は、まるでウサギが飛び跳ねるかのように愛らしく。
バレエでも踊る程に美しく、身体を優雅にくるりと舞わせて。
その長い足は容赦なく、アドニスを