カツン、カツン……。
壊れたローテーブルを飛ばしながら、シーアはアドニスへと近づいてくる。
ボロボロの部屋の中で、窓も完全に壊れた部屋の中で、風に吹かれふわふわ舞う男物のコート。
彼女がアドニスの前に止まった。
ニタ、ニタリ。目の前で美しい顔が歪んでいる。
「や、しょーねん」
それでも、美しいとしか言い表せない彼女は静かにアドニスを見下ろす。
細い手が此方に伸びて来る。
銃弾を掴み取った手。差し出された小さな手に、アドニスの肩は震えあがる。
反対にシーアは小さく首を傾げた。
「おや?酷いじゃないか。そんなに怖がらなくていいのに?」
感情が籠っていない口調。問答無用に手が伸びてきて、アドニスの手を掴む。
持ち上げられた身体は、驚くほどすんなりと起き上がった。
まだ頭が着いて来ていない。
愕然としたままシーアを見下ろし、アドニスは呂律の回らない口を開く。
「……お、まえ。なんで……」
「いやー。探したよ、少年!どこにもいないからさぁ。驚いちゃったよ!」
アドニスの言葉を遮る様にシーアはケラケラ笑う。
もう彼女にはアーサーの姿も、ドウジマの姿も見えていないとみえる。
いや、きっと彼女はこの『組織』事態に興味が無いのだろう。
だって彼女は一度たりともマリオを視線に入れない。周りを見ようともしない。
「はい。ありがと、少年!気に入ったの手に入ったよ♪」
なんて楽しそうにニタニタ笑いながら。
ポケットから財布を取り出すと、アドニスの手に押し付けるだけだ。
白い手が再び触れた時、アドニスは我に返った。
「な、なんでお前、ここに居るんだ!」
漸く、まともな言葉が出る。
アドニスの問いに、シーアは首を傾げた。
そして当たり前に答えを一つ。
「追って来た!」
それはもう、楽しそうな笑顔を浮かべて。
◇
――追って、きた?
その答えにアドニスは理解が出来ずにいた。
いや。この女は昨晩も全く同じことを言っていたが。
昨晩と今日とじゃ、状況が大きく違う。此処は『組織』の本部だぞ?
来るまでに細心の注意を払ったはず。誰かが追ってくる気配は絶対に感じられなかった。
また「色を見た」なんてふざけた事を抜かすつもりか。
そもそも、彼女は最後まで下着店にいた筈だ。
あの後、羞恥を感じながらも店の店員に言伝を頼んだので間違いない。
実に楽しそうに衣服を選ぶ彼女を見て。
「買い物が終わったら家に戻っているように」と。そう、命令したはずなのに!
「俺の伝言を聞いてないのか……?」
「ん?聞いたよ?聞いたから、追って来たんじゃないか」
シーアは問いに対して、当たり前に返してくる。笑顔で。
なぜそんなに笑顔なのか。
段々戻って来た思考が苛立ちへと変貌してゆく。
「馬鹿じゃないのか!俺は家に帰れと言ったはずだ!」
声を荒げる。
窓の外に指を差して「帰れ」と示す。
直ぐに目の前の女は表情を崩した。
「やだね!態々遊びに来てやったのに、誰が一人で帰るか」
形の良い眉を片方だけ上げて、舌を出す。
少女の身体は、ふわりと浮いた。
そのまま後ろに下がって、部屋の上。
まるでアドニスから逃げるように、フワフワと。揶揄う様にニタニタと、笑いながら見下ろしている。
捕まえてごらん……。とでも言っている様だ。
その姿に更に苛立ちが募る。
そもそもこの女、先程と比べ随分と表情も雰囲気も違う。まるで別人だ。
アーサーに向けていた何処か知的な彼女も、ドウジマに見せていた子供らしい彼女も、何処にもいない。
アレはあれで気持ち悪かったが。今のシーアはどうだ?実に腹立たしい。
こちらの神経を逆なでしてくるような。
自由奔放で掴み処の無い。本当にもう「腹立たしい」の一言しか浮かばない性格。
この女。この性格。絶対に男に――……。
「アドニス!!何をしてやがる!」
「――!!」
その瞬間、部屋に響くドウジマの声によって、アドニスは我に返った。
黒曜石の眼が扉の向こう、廊下の彼に移動する。
気が付けば、ドウジマは壊れた壁にもたれ掛かりながらも、此方を。
シーアとアドニスを睨んでいた。鋭い殺気のこもった眼で、何をしているんだと。
「見ていなかったのか!この女は敵だ!――侵入者だ!何を呑気に話している!」
血反吐を吐きながらドウジマが叫ぶ。
気が付けば、ドウジマだけじゃない。
他のエージェント達も部屋の前にいた。
サエキや、リリスも。皆ボロボロで、それでも手に武器を握りしめて。
恐怖と狂気に染まった顔で。此方を……。浮いている彼女に
彼らだけじゃない。非戦闘員のカエルだって隠れ見るように此方を除いていた。
正確には、彼らもまた空に浮く彼女に対してだ。
この場の全員がこの『組織』に不似合いな少女を睨んでいる。
乗りこんできて、当たり前に自分達を叩きのめした彼女を睨んでいる。
嫌、当たり前だ。
彼女は、紛れもなく此方に対して敵対行動を示したのだから。
だからアドニスも彼らと同じように、シーアに刃を向けなくてはいけない。
――だが。
「な、な、何をやっているアドニス!!そこの、う、うう、浮いてる……?ひえ、浮いてるぞ、この女!化け物だ!!!」
この場に、余りに不似合いな怯えまくったマリオの声が響いた。
部屋の中で宙に浮き、ニヤつく笑みを振り撒く彼女を指差しながら怯え震える。
マリオの様子を見て、漸くと彼の存在を認識したらしい。
シーアは「けらけら」笑った。
空中で一回転してから彼女はマリオの前に降り立つ。
怯えた声が響くが関係ない。
そんな情けない男の前でシーアは口を開いた。
「なっさけなぁい。あんたってさ。ここのトップなんでしょぉ?それでぇ、よく務まるよねぇ?」
嫌に甘ったるい女の声。
アドニスは思わずシーアを見る。――この女、また。
そちらに気を取られていると、彼女の前で腰を抜かしているマリオが指を差す。
「あ、アドニス!い、今すぐ助けなさい!この化け物を、殺しなさい!!」
恐怖に顔を歪ませ、涙を零しながら助けを求めて来る。
その姿を見て、アドニスは顔を顰めた。
きつく歯を噛みしめ、舌打ちを繰り出す。
「――……無理です。俺にはその女は、どうすることも出来ません」
アドニスの言葉に、マリオは目を更に大きくさせ。
廊下にいたエージェント達の息を呑む音が響き。
ドウジマだけが、唯一直ぐに顔を酷く歪ませた。
「てめぇの
それは紛れもなく、お前が手引きしたのかという問い。
アドニスは唇を噛みしめたまま、静かに首を横に振った。
重い口を開けて、苦言を発する。
「違う。俺には、この女には勝てない。それだけだ!」
どうしようもない事実を、思い出すように首に手を置いて。
アドニスは続ける。
「――俺は。俺は、既にこの女に負けている。5日も前に」
辺りがざわめくのが分かる。
いや、彼らは知っているのだ。
5日前、任務から帰って来たアドニスが首に包帯を巻いていたことは。
「あの、
そう、騒ぎになる程だったのだから。事実にエージェント達の顔は青ざめていく。
当たり前か……
たった、2日で骨折が治るこの世界で。
組織内でも最強と呼ばれていた少年が、数日も首に包帯を巻き。
「唯の痣だが、中々消えない」
そう、苦言を零していたのだから。
「俺に痣を付けたのは、この女です。――悪いが、勝てる気が全く起きない」
だから嘘偽りも無く。
はっきりとした
誰もが息を呑み、硬直するしか無いのだ。