本当に僅かな間だった。
アドニスは一度後ろに飛び下がると。
側にいたマリオの首根っこを掴んで、更に床を蹴りあげる。
「なに」なんて間抜けな声が聞こえたが無視。
邪魔だと投げ飛ばし、彼が部屋の隅に転がって行った時。
アドニスの身体が片膝を付き、壁際ぎりぎりに下がった時。
――その爆音にも近い音は轟いた。
つい先ほどまで手を掛けていた扉が壁ごと、吹っ飛び壊れる。
何か大きな物がぶつかる音。
木造の何かが壊れる音。
衝撃だけで周りのガラス全て粉々に砕け散り。
あれほど綺麗だった執務室は、唯のその瞬間に廃墟の様に荒れ果てた。
何かが飛んで来た。
事実を理解するには、時間が掛かった。
アドニスは視線だけを後ろに向ける。
部屋を壊した正体を目に映し愕然。息を詰まらせるしか無い。
ローテーブルを壊し、そのまま奥の
手に拳銃を握りしめたまま、デスクに寄り掛かりぐったりと気を失った。
――それは人だ。
たった今、アーサーが扉を壊し。中に
それも完全に気を失う程の威力で。受け身をとる暇など与えられずに。
喧嘩か?無い。
アーサーは皇帝に忠誠を使っている。エージェント同士の殺し合いはご法度。
皇帝が定めた約定を、この男は絶対に破らない。
そもそも、アーサーはエージェントの中でも手練れ。
こうも簡単に彼を伸す事が出来る人物なんて、この屋敷内に居るはずがない。
外部からの襲撃?違う。
有り得ない。
だってここまで行くと、その襲撃者は化け物だ。
「おや。弱いですね。これぐらいで気を失うなんて」
壊れた扉の先で、そのせせらぎの様な美しい声色が響く。
ああ、そうだ。アドニスは理解する。
居たじゃないか、一人。簡単に
ただ、アドニスは違和感に首を傾げるしかない。
カツン……と音を立て、その化け物は部屋の中に入ってくる。
男物のシャツを見事に着こなし、艶やかな黒い髪をかき上げながら。
ルビーの唇に笑みを讃えた、美しい血のような瞳の女。
「とても弱いです。話にならない……!」
シーアと言う
◇
部屋に入ったシーアは、美しい笑みを湛えて部屋の中を進んでいく。
ボロボロになったローテーブルを踏み潰し、向かった先は奥。
ぐったりと倒れ込むアーサーの前だ。
彼の前で彼女は立ち止まり、何かを確認するようにアーサーの顔を覗き込んだ。
確認するまでも無い。彼は完全に気を失っている。
そんなアーサーを、興味が無いと言わんばかりに瞳に映し撮ると、シーアは溜息。
クルリと踵を返した。
赤い瞳は廊下の奥を映している。
アドニスも同じように視線を廊下に移す。
目に映ったのは一人の男だ。
年のころは40代後半。白髪が所々に混ざり始めた灰色の髪に緋色の眼。
無精髭を生やした、左手に拳銃を握りしめた男。
その彼が、いつの間にか扉の側に立っていた。
「――おい、お嬢ちゃん気は済んだか?」
ドウジマが声を振り上げる。冗談交じりにも聞こえるが。
しかし、その表情や声には一切余裕がない。
そもそも彼も傷だらけだ。片方の腕は螺子曲がり、口元には血。
同じように頭からも血は止めどなく滴り落ちる。よく此処まで来られたモノだと感心するほど。
そんなドウジマを赤い瞳は無表情で見つめている。
いや、表情が変わった。彼女は口元に笑みを一つ。
まるで
「いい加減にするのは、おじさんの方だよ!」
高く明るい無邪気な声が響く。
それがシーアの口から発されたものと理解するには時間が掛かった。
アドニスに気が付いていないのか。シーアはそれこそ本当に、幼い子供の様に飛び跳ねる。
「あのね、僕言ってるでしょ!おじさんたちは僕には勝てないって?良いから早く少年の所に案内してよ!」
玩具で遊ぶように、楽しそうに飛び跳ねながらドウジマに長い指を向ける。
その様子に彼は顔を顰め、それでも僅かに笑みを浮かべた。
「あのね、お嬢ちゃん。いきなり押し入ってきて……。いや、突然姿を現して、それが聞き入れられると思っている訳?」
「知らないよ!僕はちゃんと、声を掛けたもん!」
だが反対にシーアは興味が無い様で頬を膨らます。
刹那。ドウジマの表情が険しい物となった。
「声を掛けた?」
「かけたよ!こんにちはーって」
「お嬢ちゃんからすれば、初めて会った奴の顔をぶん殴ることが、挨拶だとでもいうのか――!」
アドニスは状況を察した。否が応でも察するしか無かった。
簡単だ。この女『組織』の此の本部に乗りこんできたのだ。
『組織』にいたエージェントは驚いた事だろう。侵入者だと跳び掛かったに違いない。
それを、彼女は
アーサーが良い例だ。そしてドウジマもその中の一人。
今この場に一人しか来てないのを見るに、被害は相当のモノじゃないかとすら思える。
ドウジマが怒りを露にするのも良く分かる。
いや、彼でなくても普通は憤怒するはず。シーアに対する警戒心は最高潮に達しているだろう。
現に彼はアドニスに全く気が付いていないようで、此方をチラリとも見ない。
周りを気にする暇が無い程に、彼の怒りは頂点までに達し。目の前の化け物を殺す事だけに集中している。
それでも、そんな殺気を向けられて尚。
視線の先の御本人は、興味一ミリも浮かべていないのだが。
そして言い切る。
「どうでも良いじゃん!むしろ僕、被害者だよね!声を掛けただけで、
心底、本当にどうでも良いと言う様に。
彼女は気持ち悪いと思うまでに、子供らしくそっぽを向くのである。
そこで、ようやくだった。
彼女の赤い瞳がアドニスを映したのは。
――いや、最初から気が付いていたはずだ。
部屋に入ってきた時。僅かに一瞬でも、この女は此方を見たのだから。
「ふざけるな!!化け物が――!!!」
ドウジマの限界が訪れるのも同時。
その一言の端々に怒りの色を乗せて、ドウジマは引き金を引く。一切の容赦はない。
聞こえた銃声は5発。最初に2発。少し遅れて3発。
あの銃に装填できる全ての弾だ。
それをすべて撃った。迷いも無く、彼女へ。その頭と心臓を狙って。
銃口から飛び出した銀色の銃弾は、真っすぐとシーアの頭を狙い跳び掛ける。
狙いは外れていない。
そればかりか、アドニスには見えていた。
標的が避けると見越して、最後の三発は僅かに外した方向に銃弾を放っていることに。
目の前の少女が、どうかわし、どう動くか予測し。
急所に当たらなくても、その身体の何処かに必ず当たる事を計算して。
シーアは視線を前に戻す。
飛んでくる銃弾を目に映し、その瞳を細めた。
ニタリと笑う。
その場からピクリとも
彼女の隣を、予想を外した3発の銃弾は掠りもせず後ろに飛ぶ。
一発、二発と、三発、弾は壁に当たっていく。
弾が壁にめり込んだ音が聞こえた瞬間だ。
アドニスの頬に微かな痛みが広がり、後ろの壁に穴を開けたのは。
頬から流れる赤い血。気が付きながらも、アドニスは愕然とするしかない。
それはドウジマも同じ。目を見開き。今の光景を、愕然と、呆然と見つめるしかない。
撃たれた一発。
それが、
目の前で女が笑っていた。変わらず、口元を吊り上げて「ニタリ」と。
理解したくない。でも、アドニスの頭は理解しかない。
――彼女はたった今、2発の銃弾を撥ね飛ばしたのだ、と。
あの細くて小さい手、1つで。
小さく横に手を振っただけで。
まるで羽虫を追い払うかのように。
振り払われた銃弾は当たり前に、別の方向へと飛んでいく。
速度を変えずに方向だけをかえて。
それが先程の一発。アドニスの頬を掠めた銃弾の
違う。
シーアは下げる手を胸元で止める。きつく握りしめられた拳を。
彼女はまるでドウジマに見せつけるように、ゆっくりと開く。
掌には銀色の銃弾。
ドウジマが放った銃弾……。
つまりだ。
この女は1発目の弾丸を、羽虫のように
後から来たもう2発目を、
目の前に浮く、シャボン玉を子供がつかみ取る感覚で。当たり前に。
「くそ………!」
その事実にドウジマは気が付くが、遅い。
シーアは掌の銃弾を親指で軽く弾く。
きっと掌のゴミを弾いたぐらい。
だが、それだけで十二分。
小さい銀色の塊は、一瞬にして彼女の上から消えた。
「ぐ、あ」
小さな男のうめき声。
アドニスの眼に、ドウジマの身体が後ろに倒れ込む形で宙に浮くのが見えた。
左肩に小さな穴をあけて、手にしていた銃は勿論地に落ち。
彼の身体は、廊下の壁
◇
「……がはっ!」
叩きつけられた先で男は揺らめく。
口から血を吐き、その場に倒れ込む
ドウジマは辛うじて意識はあるが、身体は動かせない。
身体が飛ぶ程の威力を持つ弾丸を食らったのだ。動けるはずがない。
これでアーサーに続き、ドウジマも戦闘不能。勝者は一人。
瓦礫の山とも表せる部屋になった中心で。
美しい女だけが静かに佇む。
――こんなもの。どんな
アドニスは、ただ最後まで愕然と彼女を見つめるしか出来ない。
「ひ……いっ!」
部屋の隅で。マリオの恐怖に染まった叫びが聞こえる。
だがその声には興味も無い様で、彼女が男に振り返る事は無く。もう一度笑む……「ニタリ」と。
そして、壁際にいたアドニスへと何事も無かったように顔を向けたのだ。
「さて、少年。置いて行くなんて酷いぞ!」
先程と大きく変わって。
腹立たしいほどに掴み処の無い口調と共に。