「やっぱり神様なんて信じてなかったんですね? よかったぁ」
「ああ、なんだお前か。外に出たらあぶねーぞ」
久しぶりにあった前髪女は、前に合った時よりずいぶんをすっきりとした恰好をしていた。ちょっと仕立てのいい魔法士風のローブを着て、手入れが行き届いたのか、髪も前みたいなくすんだ赤じゃなくなっていた。
目の輝きも前みたいに病的な光はなりを潜め、泥の中でくたばった俺を不思議そうに見下ろしている。そうしてると中々の美少女風じゃねぇか。
「よお、旅の仲間とやらは見つかったか?」
「いいえ、それが全然で。どうやらこんな辺境まで来ても法則の外側に居る人はほとんど居ないみたいです」
「まぁ、そうだろうよ」
デーンブルには十八年いるが、法則や神に立てつくヤツは見た事がない。
「でも、ひとりだけ居ましたよね」
「ああ、確かに居たな」
クソみたいに泥水が溜まった穴蔵の中で疲れ切った【道化師】が一人な。
「なんだか初めて会った時と逆ですねぇ、ジョバンニさん」
「前はお前さんの方がズタボロだったな」
あの時、前髪女はひどく余裕がない感じだった。外見も言動も取り繕う余裕がないほどで、きっと何かを探す旅路の中で心が折れかけていたんだろう。
今なら俺にも分かる。多分同じことをやった後だからだ。
「あれから色々あってな。自分なりに足掻いてみたんだが結局駄目だったわ」
「そうでしょうねぇ。私も色々試してみましたけど、駄目でした」
いつまでも見下ろされてるのも癪だった。
俺は水たまりの中から身を起こす。前の日に降った雨のせいで、塹壕の中は水浸しだった。恰好だってひどいもんだ。それなのに、前髪女は手が汚れる事も厭わず手を差し伸べてくる。
「どうぞ手を取って」
「……汚れるぞ?」
「汚れてもいいんですよ。はい」
「すまん」
珍しく風が穏やかだった。この程度の魔風ならば、人への影響も少ないだろう。
遠くに朝日も見える。デーンブルの壁の向こうから登る太陽だ。
「【黎明のともしび】っていうですよね。私の法則」
「ふーん、珍しい感じだな」
「ジョバンニさんのは【道化師】なんですよね?」
「ああ、珍しい感じだろ?」
「ええ、とっても」
「でもよ、何にもできねぇんだよ。ほんとに何もできねぇ。【道化師】らしく、道化を演じてのた打ち回るの精一杯だった。まぁそもそも【道化師】ってのが何をするための法則なのかもわからねぇし。ただ、どうやら俺は他の皆と違うらしい、ってのは分かる」
分かるだけだ。変える為の役割は俺じゃないらしい。
「分かるだけでもすごいんですよ?」
「そうかぁ? しんどいだけだぞ」
「ふふ、苦労しましたねぇ」
前髪女は、口の端をにんまりと広げて、悪戯っぽく笑った。
「一方、私の【黎明のともしび】、これは凄いですよ!」
「ほお? どう凄い」
「何と変えちゃえます。世界丸ごと、根っこから! この世の法則と、何だったら魔風の発生原因まで!」
「へぇ……、それが本当なら最高だな」
本当ならな。
妄想や夢物語じゃないならな。
「お、信じてませんね?」
「ちょっと人間不信と現実不信まで拗らせた直後でな」
「じゃあ、手始めに一つ奇跡を見せちゃいます! じゃじゃーん! なんと今から一年間。この西から吹く魔風、止まります!」
「ほお?」
「あ、信じてませんね!?」
「俺は元排斥騎士だぞ。この魔風は今日みたいに、緩やかな日はあれど、完全に止まる事なんて無かったよ」
書物が記す限り、俺たちが生まれる数百年さかのぼったってそんな事は一度も無かったはずだ。
「いいえ、この風はですねぇ、千年に一度たった一年だけ止まるんです! それが人呼んで『
「信じられんなぁ」
「今は信じなくていいですよぉ。ほら西を見てください。ご自分の目で見れば信じざるを得ないですから。さぁ、もうすぐです、さーん、にー、いちー」
気の抜けた声で前髪女がカウントする。
ほんとかよ思いながらその時を待っていた。
もしこの風が止まるならば、それは本当にすごいことだ。
デーンブルおろか、この世界に生きるすべての命あるものにかかわる。
止まる訳がない。わかり切っている。
そんな奇跡は起こらない。
怒ってたまるか。
そう思うと同時に、もしかしたら、あるいは。そう思って。
「——ぜろ。はい『
「……あ?」
凪という古い言葉があった。元々は風が止むという意味を持つらしい。
だがデーンブルにすむ俺たちにとって、風が止むなんて言う事象は見た事が無かった。だが、どうやら俺はそれを今、体験した。
「本当に止んでやがるや」
凪。まったくの無風。
霧も、雲の無い空に朝日が昇る。
空が青い事を俺はその日初めて知った。
「そういえばですね、私クロエと言います。クロエ
・アストルガ。法則は【黎明のともしび】、僭越ながらですねぇ……」
前髪女、クロエは言った。
臆面もなく、あくまで真面目くさった顔で。
「私、世界の救世主をしております」
と。