千夏は書庫から持てるだけの本を持ち帰ってきた。
両腕がヒリヒリとして痛い。手を挙げると、かすかに震えているのが分かる。あれだけ大量に本を抱えて歩いたのは、和彦の引っ越しを手伝って以来だった。
よたよたと歩く姿は失笑を買っていた。廊下ですれ違うメイドや執事の何人かが吹き出しているのが気配で分かった。以前のクロエなら彼らを即刻処罰しただろうが、今のクロエは違う。
むしろ、これまでとは変わっていることを印象付けられるいい機会かもしれない。彼らの雑談のネタになるだろうし、城中に噂が広がればアピールにもなる。
失笑結構!
と、千夏は前向きに考えていた。
「まあ、笑かすのと嗤われるのは違うんだけど」
そう独り言ちて椅子に腰かけた。腕の力を抜き休ませる。
円卓には持ち出してきた本が山積みになっていた。本の冊数もさることながら、一冊一冊が分厚い。ぱっと見るだけで千ページはくだらないものもいくつかある。施された装丁は「愛蔵版」と言っても過言ではなかった。
千夏はそのまましばらくの間、窓から見える景色を眺めていた。青々とした空に浮かぶ雲が田畑に影を投げかけている。ゆったりと漂う雲を見ていると、時間の進みがゆっくりになったような気がする。
たなびく風の音が、千夏の耳朶を打った。風が城下町の雑踏を室内に運ぶ。
「静かな場所だなあ……」
千夏は、東京はうるさい街だなと常々思っていたが、今ではあの騒々しさが懐かしく感じる。嫌悪感を抱いていた、街行く人混みすら恋しい。
腕の違和感が引いてきたところで、千夏は、『ドリス地方の野草・花について』と題された書籍を開いた。
ページには見たこともない文字が並んでいたが、クロエとして転生した千夏は難なく読むことができる。
書籍は学術書というよりは図録に近く、野草や花のスケッチと、それらについての解説が見開き一ページを使って書かれていた。花の解説には花言葉が載っていたおかげで、千夏が考えていた以上に面白く読むことができた。
図録には庭園に咲いている花の記載もあり、千夏は、忘れないようにメモした。
「後で見に行こうっと」
読書の途中、メイドが昼食を運んできた。
千夏は礼を言って、再び本の世界に没頭した。
図録を読み終えたのはそれから間もない頃だった。休憩がてら昼食を取ることにする。
千夏は菓子パンを一口食べたところで、皿に戻した。口内に甘ったるい味が広がっていた。全部食べると胸やけを起こしそうだった。ティーカップに手を伸ばし、紅茶と共に嚥下する。
紅茶の味は変わらずで、まるで草原の中を歩いているような清々しい気分にさせられた。
それで昼食を済ませる。千夏は早速庭園へ降りることにした。
椅子から立ち上がった時、メイドが食器を下げにやってきた。
メイドの視線が菓子パンに釘付けとなった。
「お、お口に合わなかったでしょうか……」
顔が強張り、体も震えている。
千夏は可能な限り柔和な笑みをつくって見せ、落ち着いた声音で答えた。
「せっかく作ってもらったのにごめんなさい。ちょっと私には甘くて……。できれば、もう少しさっぱりとした味付けにしていただけると嬉しいです。でも紅茶は美味しかったわ。なんの茶葉を使っているのかしら」
自分の口調が安定しない。敬語を話していると思ったら令嬢のような喋り方をしていた。
威圧的な印象を与えてないといいんだけど……。
「失礼しました……。コックにそう申し伝えます。茶葉はドリス産のアンバーリーフを用いております」
「アンバーリーフ。とっても爽やかで温かみのある味ね…………味ですね。人気がありそう」
「はい。ここアーデスト家では城主様をはじめとする皆さまに愛好いただいております」
「それは良いことですね。他の人からも好評でしょうか?」
「…………と仰いますと?」
「メイドや執事の皆さんや、城下町で暮らしている人たちからの評価も高いのでしょう?」
「…………いえ。領民には流通しておりません。私共使用人も口にしたことはございません」
「えっ!?どうして?こんなに美味しいのに」
「…………それは…………」
メイドが気まずそうに言い淀んている。嫌な予感がした。
「それは、なんでしょう……?」
「その、お嬢様が…………」
「私が?…………まさか禁止したのですか?」
「………………」
メイドは肯定することも、否定することもしなかった。しかし、千夏にとってそれが何よりの答えだった。
ああ、クロエ。あなたってどこまで自己中で独占欲が強いの?
胸の内で落胆する。アンバーリーフに関する記憶を辿ってみる。その場面はすぐに見つかった。立派な顎髭を蓄えた父アレクサンドルに「あれは高貴な者にのみ相応しい!」とがなり立てている。アレクサンドルは困り果てた顔をしていたが、最終的にクロエの訴えを受け入れた様子だった。
「…………はあ」
思わずため息を吐いてしまう。
悪役というよりただの嫌な女、というのがクロエに対する千夏の感想だった。それはそれで悪役に変わりはないのだが、どうにも悪役としての格が低い。
和彦と見たドラマに出てくる登場人物にも似たようなのがいた。主人公の属する国の外は敵で溢れ、滅亡の瀬戸際にあるのに、その女は気に入らない家臣を罰することしか考えていなかった。結局国は一度滅ぼされ、敵国の兵士たちに強姦され最期は家畜の餌になった。
名前は忘れてしまったが、千夏はクロエとそのキャラクターを重ねていた。和彦が、のほほんとしたこの世界観でそのような末期を設定してはいないだろうが、死ぬことに変わりはないのだ。
「お嬢様、だ、大丈夫ですか?御体の具合でも?」
「いいえ、大丈夫です。ちょっと、呆れちゃって」
「……左様でございますか」
「アンバーリーフ。皆に飲んでもらいたいですね。父上に言えばそれは叶うでしょうか?」
「…………私のような身分の者には分かりかねます」
「ごめんなさい、片づけをお願いしてもいいかしら。ちょっと父上に会ってきます」
「かしこりました」
「このパン、本当にごめんなさいね」
そう言うと千夏は、自室を出てアレクサンドルの私室へと向かった。
アレクサンドルは、朝は城主としての政務を果たしていた。昼からはプライベートな時間で、クロエの記憶によれば部屋に籠っていることが多い。何をしているのか定かではないが。
廊下を大股で歩いて行く。突き当りに階段があり、千夏は上階へ昇った。磨かれた大理石に敷かれた絨毯をどんどん歩いて行く。すると、観音開きの大きな扉が見えてきた。扉の傍には衛兵が二人、姿勢よく直立している。
衛兵はクロエの姿を認めると忠誠を示すお辞儀をしてきた。千夏もそれに答礼する。
「父上に会いたいのですが」
「どうぞ」
衛兵に開かれた扉は大きな音を立てながら千夏を室内に招き入れた。
アレクサンドルの私室はクロエのものよりも更に広々としていた。しかし、豪華な家具や装飾を好むクロエと違って、アレクサンドルは質素を好むように見えた。機能的に配置された家具は必要最小限で、施された装飾は控えめなものだった。
アレクサンドルは机に向かっており、なにやら書き物をしていた。
「父上」
千夏が声をかけると、伏していた顔を上げた。
引き締まった立ちに、鋭い光を帯びた黒色の瞳が特徴的だった。口は一文字に結ばれ、表情からは感情を読み取れない。実父である総一郎とは真逆の人種で、千夏が最も苦手としているタイプだった。
「どうしたクロエ」
重々しい声が室内に響く。上司に𠮟られた時でさえ、今のような圧は感じなかった。
「すみませんお取込み中に。あの、アンバーリーフについてお願いがあって参りました」
「アンバーリーフ。まだ、なにかあるのか?」
アレクサンドルは表情を崩さなかったが、その声音からアンバーリーフの件に関して辟易としているのは分かった。
「はい。アンバーリーフを皆にも味わってもらいたいです。ここの使用人や領民たちにも。ですから、流通させるご許可をいただきたくて」
アレクサンドルの目が点になる。信じられないといったような表情を浮かべていた。
「別にそれは構わんが……本心か?またなにか企んでいるのか?」
実の娘に対してなんて物言いだろう、と千夏は憤ったが言われても仕方のないことだった。
「いいえ。邪なことは一切考えていません。ただ、私の受けた感動を皆と共有したいのです。ただそれだけです」
「…………そうか。好きにするといい。帳簿夫のピートルと倉庫夫のジャレドと話し合いなさい」
「ありがとうございます!」
千夏は礼を述べると、アレクサンドルの部屋を足早に去った。
思い立ったが吉日、善は急げよ!
陽光が差し込む廊下に、千夏の浮足立った足音がこだましていた。