千夏はすぐさま行動を開始した。
手始めに、昼食を運んできたメイドを捕まえ、セリアの好きなことや趣味を聞き出そうとした。
メイドはセリアのことを知りたがる千夏を不審がって、口を開こうとしなかった。
「私はこれで……」
と言い残し、メイドはその場を去った。
一人になった寝室で、千夏は大きなため息を吐いた。
クロエという女性に味方は居るのかしら。
そう思いながら、絢爛で主張の激しいティーカップに注がれた紅茶を飲む。香ばしくも爽やかな味が口内に広がった。紅茶は程よく温められており、舌を火傷することなく飲むことができた。
「和彦、悲しんでるだろうな…………」
英国紳士に憧れ、いつもお湯を熱々にしては舌を傷つけていた恋人のことをふと思い出す。
車に撥ねられた後の私は、いったいどうなったのだろうか。病院に運び込まれ、手術を受けたのだろうか。ベッドの傍では、和彦や家族が涙を流していたのだろうか。
そう思うと、目頭が熱くなる。目尻に大きな雫が浮かび上がっていた。シルクのハンカチで涙を拭う。
今までは自分が生まれ変わったことと、自分の置かれた状況が芳しくないことに意識を奪われて、取り残された恋人や家族のことを考える余裕がなかった。だが、現状を把握し、いったん落ち着けたことで、彼らのことを想う余裕が生まれた。
頑固なくせに繊細で他の誰にも持っていないものを持っていた和彦。どこか抜けているけどいつも大らかで鷹揚としていた父。しっかり者に見えてお茶目だった母。ザ・いのしし年産まれという感じでいつもまっすぐだった姉。
もう、会えないんだな。
何度拭っても、大粒の涙は溢れて止まらなかった。
湯気を立てていたサンドイッチが冷えて硬くなってしまった頃、千夏はようやく泣き止むことができた。サンドイッチの生地は完全に乾燥していて、飲み物なしで嚥下するのは一苦労だった。
自分がクロエ・アーデストとして生きていることを伝えられたらどれだけいいだろう。家族には無理でも、この世界を創った和彦にならできるかもしれない。
千夏はしばらくの間、何か方法はないかと思案していた。途中、メイドが食事を下げに来たが、千夏はそのことにまったく気がつかなかった。
天頂付近で輝いていた太陽が地平線の彼方へ沈もうとしている。空は茜色から濃い紺色へと変わろうとしていた。
「何も思いつかない…………」
千夏はため息交じりに呟いた。
高校の高学年から当時大学生で既に執筆をしていた和彦と付き合っていたのに、何もアイデアが出てこないのはどういうことだろう、と自分の才能の無さを忌々しく思った。
私はただのOLだけど、長い間作家の傍で暮らしていたのだから、何か閃きがあっても良いはずなのに。
その後も千夏は頭を捻っていたが、ただの徒労に終わった。
夜の帳が降り、太陽に代わって星々が煌めいていた。
ドアがノックされ、メイドが入って来た。
「クロエ様、お夕食をお持ちいたしました」
「ありがとう」
窓辺に腰掛けながら瞬く星を見上げる。こんなに美しい夜空を、千夏はこれまで見たことがなかった。この景色も和彦が創り上げたものなのだろう。色彩豊かに輝く光は、和彦の心の内を反映しているのだろうか。
「こちらに。温かいうちにお召し上がりくださいませ。また後程、食器を下げに参ります」
「ありがとう……。あ、ちょっと待ってください」
辞去するところだったメイドを千夏は呼び止めた。
「は、はい」
「いつもお食事を運んでくださってありがとうございます。でもどうしてわざわざこちらに?」
「それは……クロエ様からそう言いつけられましたので……」
そうだったかな。
千夏はクロエとしての記憶を辿る。
千夏はクロエの記憶を思い出そうとする際、意識的にそうする必要があった。これでは、自分が物忘れの激しい老婆のように思える。
「あ、ああ。そうでした……そうでしたね。ありがとう。お父さん……いえ、父上やセリア様もお部屋でお食事を取っているのでしょうか?」
「いいえ。城主様とセリア様は食堂で取られております」
「そうですか……。あの、明日から私も父上たちと一緒にお食事をいただいてもよろしいでしょうか」
「それは……大丈夫だと思います。城主様もきっとお喜びになるかと……ただ」
「どうかしましたか?」
「……いえ」
メイドはみなまで言わなかったが、なんとなく何を言いたいのか察することはできた。
セリアの気分を害してしまうのかもしれない、ということだろう。
彼女にとってネガティブな行動を千夏は取る気になれなかった。夕食を囲むのは、二人の関係が修復してからでも遅くはないだろう。
「分かりました。ありがとうございます。もう大丈夫です」
「それでは失礼いたします」
メイドは頭を下げてそそくさと部屋を去って行った。
千夏はこれまでの人生で経験したことのない疎外感を覚えていた。優美な城で、何不自由ない生活ができる。周囲には自分を世話してくれるメイドや執事が大勢いて、家事のことを一切考えなくていい。望む物は何でも手に入るだろう。しかし、ここに自分の居場所はなかった。自分が他者を受け入れ信頼しようとしても、向こうはそうしてくれないばかりか、こちらの行動に裏があるのではと疑ってくる始末だった。
これもすべてこれまでのクロエの振る舞いが原因だった。それを正さなくてはならない。仮に物語の結末通り死刑にならなくても、このままではストレスで精神的に死んでしまいそうだった。
「頑張れ私」
頬を叩き気合を入れる。
セリアとここの皆に受け入れてもらうために。
翌日、千夏は早朝に目覚めた。太陽が大地を照らし、草木が朝露に濡れている。青と白の模様が入った名前も知らない鳥が、群れを成して白けた大空を翔けていた。
千夏はクローゼットから一番質素なドレスに着替えて部屋の掃除をはじめた。掃除する必要がないほど、手入れは行き届いていたが、自分の部屋は自分で整理整頓しないと妙に落ち着かなかった。
しばらくすると、メイドが昨日と同じように朝食を運んできた。
「おはようございます」
「お嬢様おはよう……な、何をされているのですか!?」
「お部屋のお掃除です。でも、ほとんど掃除する必要なんてありませんでした。きっと毎日のように誰かが手入れしてくれてるんですね。感謝しかありません」
千夏の返答を聞いて、メイドは白目を剝かんばかりに驚いていた。驚きのあまり手に持っていたクローシュを落としてしまい、料理が絨毯の上にぶちまけられた。
「大丈夫ですか!?」
今にも倒れそうになっているメイドの傍に駆けよって体を支える。
「く、クロエ様!申し訳ございません!こんな…………!」
言うまでもなく、絨毯には染みが出来ていた。今朝の献立はコーンスープのような黄色く粘り気のある汁物だけだった。クロエは、朝はあまり食べないらしい。
「これくらい洗えば大丈夫ですよ」
落としたくらいで大げさだなと思う。しかし、メイドの目の前にいるのが本物のクロエだったら、彼女はどうなるのだろうか。
あまり良い結末は迎えそうになかった。何故ならメイドは目から滝のように涙を流している。そればかりか、何度も「お許しください」と懇願していた。
「大丈夫です。大丈夫ですから。ね?」
千夏はまったく怒っていなかったのだが、メイドは顔を伏せたままだった。
「あの、絨毯を汚すのってそんなに大変なことなんですか?」
「…………は、はい」
顔を上げたメイドは心底怯え切っている様子だった。
きっとクロエがまたやらかしたのだ。記憶を辿る。
問題の場面はすぐに見つかった。クロエは粗相をした若いメイドを即刻クビにしていた。それだけならまだ良かったのかもしれない。クロエはクビにするだけでは収まりがつかず、メイドの身ぐるみや財産をすべて取り上げ、裸の状態で彼女を城から追放したのだった。その後、メイドの行方は分からないままになっている。
千夏はうんざりとしながらメイドの背中を撫でていた。
確かにこんな行いをしていたとあっては、どれだけ「大丈夫だから」と言っても信用されないだろう。
「……!」
千夏は、邪なことを思いついた。
他人の弱みに付け込んで、自分の望みを果たそうとする。ドラマや映画などで、性格が悪く頭のキレるキャラクターがよくやる行動だった。
千夏はこれまでの人生でそのようなことをしたことがない。幼い頃から共感性が高かく、相手の感情や心情を思い浮かべてばかりで、弱みに付け込むなどという行為をする暇がなかった。
クロエに転生した影響なのか。でも、クロエならやりそうなことだ。
頭を振って考えを払拭しようとしたが、そうすればするほど、どんどん思い付きは肥大化していた。
「ひとつ、お願いがあるんですが」
「な、なんでございましょう…………」
「こんなことであなたを解雇しませんし、財産を奪うことなんてしません。その代わりにと言ってはなんですけど、昨日の質問に答えてくれませんか?」
「昨日の、と仰いますのは……」
「セリア様の好きなこととか、御趣味を教えて欲しいのです」
「…………わ、分かりました」
メイドは不承不承といった体で質問に答えた。
その後、メイドが落ち着くのを待っていた。
「私だって、何度も食器を落として割りましたし、カーペットに飲み物をこぼしたことがありますよ」
割れた皿をディッシュカートに載せながら、和彦と同棲していた頃を思い出す。
「そ、そうなのですか……?カーペット……?」
カーペットという耳慣れない言葉にメイドは困惑している様子だった。
「こ、こっちの話です!本当に片づけを手伝わなくていいんでしょうか?」
「もちろんです。お嬢様にこのようなことを…………本当に申し訳ございません」
「良いんです。それでは、片付け、よろしくお願いしますね」
そう言うと、千夏は、笑顔を浮かべながら寝室を出た。
向かっているのは書庫だ。セリアの読んでいる本や好みのものを学んで、共通点をつくる必要がある。
偶然とはいえ事態が少し進展したことに、千夏は満足感を覚えていた。
廊下を歩く足取りが、自然と軽やかになっていた。