冷たい雨の降る夜だった。
市川千夏は終電間際の駅に向かって急いでいた。繁忙期で帰りが遅くなり、会社を飛び出したのは日付が変わる直前だった。
慌てて外に出てきたため傘を会社に忘れていが、取りに戻る時間はなかった。
暗い道路にはほとんど車もなく、雨音だけが響いていた。だが、その静寂を破るように、彼女の視界に突然光が差し込む。
対向車線から飛び出した車が千夏に向かって突っ込んできた。
「え……」
声にならない声を漏らし、次の瞬間、視界が真っ白に染まる。激しい衝撃を感じたのも束の間、すぐに千夏の意識は深い闇に落ちていった。
目を覚ました時、千夏は見知らぬ天井を見上げていた。豪華なシャンデリアが天井から吊り下げられ、窓から射し込む陽光を受けて輝いている。重厚なカーテンが優雅に揺れているその光景は、現実感がまるでなかった。
ここはどこだろう、と周囲を見回す。どうやら寝室らしいが、寝室にしてはあまりにも華美ていた。白を基調とした家具には、どれも金細工の装飾が施されている。普段目にする物とはまったくもって異質だった。
まとっているローブは肌触りがなめらかで、素人でも高級な素材を使っているのが分かる。シーツはシルクだろうか。手を触れるとサッと心地よい音が鳴る。
ベッドから抜け出し、ドレッサーの前に立つ。鏡を覗き込んだ千夏は愕然とした。
鏡には、まるでおとぎ話の世界から抜け出してきたかのような女性が映っていた、プラチナブロンドの髪は月光を湛えたように輝き、翡翠のような緑色の瞳は神秘的な光を宿している。その顔立ちは彫刻のように美しく、まるで絵画の中の貴婦人だった。
信じられない気持ちで自分の顔を触る。鏡の中の女性もまったく同じ動作をする。夢かと思い頬をつねるが、痛みは本物だった。
混乱しているところにノックの音が響く。ドアが開き、メイド服に身を包んだ女性が丁寧に頭を下げながら部屋に入ってきた。
「お嬢様、お目覚めになられたのですね。……具合はいかがですか?」
「お…嬢様?」
思わず聞き返してしまった自分の声に驚く。いつもより高く、柔らかな響きがあった。
メイドの女性は千夏の顔を覗き込んだ。
「ええ、クロエ・アーデストお嬢様。昨日のパーティで体調を崩されて倒れられたので、医師を呼びましたが、今はもう大丈夫そうですね」
女性の声は心なしか残念がっているように聞こえたが、千夏にはその理由を考えている余裕がなかった。
「クロエ・アーデスト…………」
初めて聞く名前ではない。どこかで耳にしたような……。
「すぐ朝食の方をお持ちいたします」
メイドはそう言うと部屋を去った。
そして間もなく再び姿を見せた。先ほどとは違い、メイドはディッシュカートを押している。カートの上には銀色に輝くクローシュが乗っていた。
「あ、あの、すみません。ここは、どこでしょうか……?」
困惑を隠しきれない千夏は、恐る恐る自分の現状をメイドに尋ねた。
「お嬢様、そのようなお戯れを……。ここはお嬢様のお家、アーデスト家のお城でございます」
そこまで聞いて千夏は、クロエ・アーデストとは恋人の高野和彦が執筆していた未完成の小説『永遠の花園』に登場する悪役令嬢の名前だったことを思い出した。
運ばれた朝食を食べながら、千夏は、状況の把握と整理に努めた。
まず、本当の自分はどうなってしまったのかを考えた。最後に見た景色は、雨に濡れた横断歩道と点滅する信号、そして横から突っ込んできた眩い光。
「車にしかれたんだわ……」
そこで千夏はハッと顔を上げた。
もしかしたらこれは治療の一環なのかもしれない。車にしかれ、病院に運びこまれたは良いが、なんらかの後遺症が遺った。それは物理的にかもしれないし、精神的にかもしれない。その両方だって考えられる。
そこで和彦と医師が相談した結果、小説の登場人物になりきり、その世界に私を没入させることが治療になると判断したんだ。きっとそうに違いない。だとすれば、何処かに和彦と監察医、家族がいるはず。
そう思うとぐずぐずしてはいられなかった。
千夏はメイドに食器を手渡し「ごちそうさまでした。とっても美味しかったです」と言い残し部屋を出て行った。
メイドは目を丸くして部屋の主人の背中を眺めていた。
「よく作り込んであるわね」
部屋を出た千夏は、和彦の小説にあった描写を思い出しながら、まじまじと城内を見て歩いていた。
城の物は小物ひとつとっても豪華絢爛な様相だった。これほどの品物を集めてセットを作り上げるのはさぞ苦労したに違いない、と心の内で和彦と医師たちに感謝を述べた。
「クロエ様、お陽がなも麗しゅう」
歩いていると古めかしいデザインのスーツをまとった男たちや、朝食を運んでくれたメイドと同じ格好をした女性が慇懃な態度で挨拶をしてくれる。
「皆さんおはようございます。本当にありがとうございます!」
千夏は上機嫌になりながら一人一人に挨拶を返していった。
彼らは互いに顔を見合わせ呆気にとられた表情を浮かべていた。
「皆どこに居るんだろう」
和彦たちを探し始めてからかなりの時間が経ったように思われた。
不思議なことに、千夏は城の中のことを完全に把握していた。どこに行けば何があるのか、また誰がどこで何をしているのかも分かっていた。
しかし、和彦たちの姿を見つけることは遂にできなかった。
失意を抱きながら目覚めた部屋へ戻って来た千夏は、ベッドに体を横たえた。
開け放たれた窓からは小鳥のさえずりが聞こえてくる。シルクのシーツは相変わらず手触りが良い。それらに加え、どこからともなくほのかに甘い香りが鼻腔に忍び寄ってきた。
「……………………」
千夏はそよ風に揺れるシャンデリアを眺めていた。
たった一人の一般女性を救うために、こんな大がかりなことしないわよね。
和彦たちを探している途中から、千夏は、この城はセットではなく本物なのだと勘づいていた。記憶にある城の描写と、目に映っている景色は見事に一致していた。窓の外に広がるのは牧歌的な自然の風景で田畑がひしめき合っていた。眼下には城下町が在り、景気の良い嬌声が風に乗って耳に入って来ていた。
千夏が知る限り、日本国内にこのような場所は存在しない。言葉が通じるので海外だとも思えなかった。
自分は本当に和彦の小説の中に…………本当にそうならどうすれば良い?
千夏は自分に問いかける。
おそらく自分はあの事故で死んだのだろう。突然の終わりを迎えてしまった人生。まだアラサーにもなっていなかった。和彦と婚約はしていたが、式は挙げていなかった。二人で色々なことをしたかった。ショッピングしたり映画を見たり、旅行に出かけたり。彼の子供も欲しかったが、それももう叶わない。
しかし、どういう因果が働いたのか、千夏はクロエ・アーデストに転生し、偶然にも第二の人生を手に入れた。
であるならば自ずと答えは決まっている。
「……和彦の世界で悔い無く生きよう!」
千夏は意気込んでベッドを飛び出した。
改めて見回すと寝室はかなり広々としている。亀戸で借りていた1Kのワンルームより二回り以上も広く見えた。
この部屋が現実にあったとして、ここで片時でも暮らしたらあの部屋には戻れなくなるだろうと思う。
「和彦とこんなところでのんびり暮らせたらなあ」
そう言いながら寝室を物色する。
別段興味を惹かれる物はなかったが、ウォークインクローゼットの存在は千夏を喜ばせた。
クローゼットの中は電気もないのに明るかった。天井に天窓がついており、そこから太陽の光が室内に降り注いでいるからだった。衣服は太陽光が直接当たらないように仕舞われていた。
クローゼットの中身は、ほとんどが煌びやかなドレスだった。手入れが行き届いており、埃一つ被っていない。
千夏は年甲斐もなくはしゃいだ。姿見を使って、一人でファッションショーを開催する。
これならディズニープリンセスにも引けを取らないかもしれない、と本気で思っていた。
「クロエは本当に豪華な物が好きなのね」
他人事のように呟く。実際、千夏は自分のことを市川千夏だと認識していた。外見はクロエ・アーデストかもしれないが、精神的な部分では市川千夏だった。
そこまで考えて思わず手を止める。
待って。クロエって結局どうなるんだっけ?
千夏は、いつの日か和彦に聞かせてもらった『永遠の花園』のストーリーを思い出そうとしていた。
未完だが、最後はハッピーエンドのはずだった。
主人公はクロエではなく、確かセリア・アーデストという平民出身の女の子で、クロエはアーデスト家の長女だった。自己中心的な性格で他人との衝突が絶えない人物だった。
そんな自分を差し置いて、皇太子であるアルベルトに選ばれたセリアを恨み、クロエは陰湿な嫌がらせを始める。その傍ら、自分の力を誇示しようとするも領地経営に失敗し、家臣団や領民からの人望を完全に失った。
そして最期はそんな彼らの訴えのもと、処刑され、嫌がらせを耐え抜いてきたセリアはアルベルトと結ばれてハッピーエンド……。
「そんな、駄目よ!」
千夏は思わず叫んでしまう。せっかく転生したのに、このままではまた他者に命を奪われてしまう。
これ以上、自分という存在を踏みにじられるのは嫌だった。千夏は考え込んだ末、善良な生き方を歩もうと決める。
まずどうするべきか。
空気に当たりたくなって窓辺に寄った。寝室からは城内に設けられた庭園が見下ろせる。その中に見覚えのある姿があった。
日傘を射し、ベンチに腰を降ろして読書をしている女の子。この世界の主人公であるセリア・アーデストだった。
「……!」
千夏は急いで彼女に会うのに相応しいドレスを見繕う。
着替えを済ませると、足早に庭園へと降りて行った。
庭園は手入れされた芝生が茂っており中央には噴水があった。回廊を出ると、見たことのない果物を実らせた樹木が目に入った。その枝葉からは白く美しい鳥が顔を覗かせている。
セリア・アーデストが腰を降ろしているベンチは噴水の近くにあった。背筋を伸ばし、本を読んでいる姿は気品と自信に満ち溢れていた。
「あ、ええと…………ご、ごきんげよう」
千夏はお嬢様らしく声をかけた。
「……!く、クロエ様。…………ごきげんよう」
セリアが顔を上げる。
彼女の瞳はサファイアのような透き通った青色で、海を彷彿とさせる深い輝きを放っていた。クロエの瞳とは違い、強い信念を感じさせるものだった。
髪色はくすんだブロンドで、一見するとクロエに及ばないが、光の当たり方によっては淡い金色や茶色が混ざり合っている。その輝きは時間と共に色を変える太陽のように思える。
素朴な顔立ちは貴族とは程遠いが、代わりに純朴な可愛らしさを持っていた。陶器と見まごう程の滑らかなで透き通った肌は、眺めているだけで心を奪われそうだった。
「あ、あの…………クロエ様。何か御用でしょうか………………」
見た目の雰囲気とは違い、セリアの表情は曇り、声音は陰鬱としている。
千夏は心を痛めながらも笑顔を浮かべながら一歩近づいた。
「い、いえね。その、何を読んでいるんだろうと思いまして」
会社の上司に話すような喋り方だった。
「は、はぁ…………。これはアーデスト家の歴史をまとめた書物です」
「勉強熱心なんですね」
「皆さんのお役に立ちたいので……」
「それは素晴らしいことですね!」
また一歩近づこうとした瞬間、千夏とセリアの間に一人の男が割って入った。
「クロエ様、セリア様に何か御用でも?」
千夏は脳みそをフル回転して男の名前を記憶の底から引き抜こうとしていた。セリアの護衛で確か名前は……。
「ガレン…………さん?」
確信を持てなかったため尋ねる形になってしまう。
「ええ。左様ですが……」
ガレンは背丈のある偉丈夫で、アーデスト家に仕える騎士だった。平時ではセリアの護衛を任されている。
「あの、いえ。セリア様が読書していらしたので、何をお読みになっているのか気になったものですから」
「そう、ですか」
ガレンは胡乱な眼差しを千夏に向けていた。冷汗が額から噴き出してくる。
千夏は回廊や庭園に面した窓から視線を感じていた。横目で見てみると、それはセリアに向けられた憐れみのものと、自分に向けられた敵意を込めたものとに分けられた。
想像以上に危機的状況なのかもしれない。
千夏はこれ以上自分の立場を悪くしたくなかった。どうにしか場を丸く収めなければ。
「ガレン様、クロエ様の仰ることは本当です」
千夏が必死になって言葉を紡ぎ出そうとしている傍らで、セリアがガレンに言う。
「様は不要です。……そうですか。分かりました。セリア様、これ以上お外にいては御体に障ります。お部屋へ戻りましょう」
「…………分かりました」
立ち上がったセリアは小ぶりだが華奢過ぎでもなかった。健康的な体つきで、その立ち姿も座っていた時と同様に芯の強さを感じさせた。
「それではクロエ様、失礼いたします」
セリアがクロエを見つめる眼差しには鋭さと同情が同居していた。慇懃に頭を下げる姿を見て、千夏も慌てて頭を下げる。
「あ、は、はい。また」
セリアはガレンに付き添われ回廊から城内へ入って行った。
千夏は、セリアの後姿を見届けると、寝室に戻った。
考えるまでもなく、千夏はセリアに避けられていた。
それだけではない。ガレンをはじめとするセリアの派閥からも同様の扱いを受けているのだろう。
クロエ・アーデストの運命を変えるには、セリアたちとの関係を改善する必要があった。
「絶対仲良くなってみせる」
千夏はそう独り言ち、窓からセリアが腰掛けていたベンチを見下ろしていた。