まだ二十二歳だが、ここまでの人生は一応順調だったはずだ。
無事に大学まで進学し、単位を取り、就職活動をし。
内定を貰い、卒業論文もほぼ仕上がっている。
あとは来年四月まで遊んで過ごせる…………はずだったのに。
――今のこの状況。俺、たぶん死ぬよな。
いったい俺が何をしたというのだろう。
なぜこんな目に……。
……。
あれ?
目を開けたら、そこに見えたのは木目の天井。
背中は少し柔らかい感触。ベッドだ。
首だけ動かし、周囲を確認する。
どうやら小さな部屋のようだった。
どこだ、ここは。
俺は起き上がろうとし、いつもの癖でまず左手に力を入れた。
「うがぁああ!」
前腕に激痛が走った。左腕を噛まれたことをすっかり忘れていたのだ。
だが崖落ち後と同じく、痛いということはやはり生きている証拠だ。
どういう事情で助かったのかはわからないが、また命拾いをしたようだ。
「うぐ……」
左手を使わずに体を起こそうとしたが、今度は全身に鈍い痛み。
結局今すぐに起きることは諦め、また寝ている状態に戻った。
左の前腕を見ると、包帯らしきものが巻いてある。
手はしっかりと動くようだ。神経や腱が切れているということはないと思う。
が……狂犬病などは大丈夫なのだろうか?
確か、発症してしまうと死亡率はほぼ百パーセントと聞いたような気がする。
そんなことを考えていると、ガチャリという音がした。
「あら、起きたのね。昨日から目を覚まさないので心配したわ」
扉から入ってきたのは、長い黒髪の女性。年齢は二十代後半くらいか。
白衣のせいもあるが、大人の女性という雰囲気だ。俺よりは間違いなく年上だと思う。
「あ、あの、ァイタタタ!」
「起きなくていいわよ」
「あ、はい。すみません。えっと。俺、あなたに助けてもらったんですか」
「私じゃないわ。ああ、でも治療をしたのは私だから、いちおう間違いというわけではないかしら」
「ありがとうございます……」
「それが仕事なので当然よ。打撲だらけだし、今は体をあまり動かさないほうがいいわ。噛まれた痕があったから狂犬病のワクチンはやっておいたけど、様子を見たほうがいいのでしばらくは入院ね」
この人は医者らしい。
日本語に、少し訛りがあった。どこかの地方の出身なのだろうか。
しかしワクチンを打ってくれたのはとても助かる。
狂犬病、怖いし。
「さて、目も覚めたことだし。これから問診を始めないといけないけど、大丈夫?」
「え、あ、はい。大丈夫です……あ、その前に」
「ん?」
クロは、今どうしているのか。
俺が助かっているということは、あいつも助かっているということでよいのだろうか?
「俺、白い犬と一緒だったと思うんですけど。知りませんか?」
「もちろん知っているわ」
「無事……なんですね?」
「無事よ。後で会えると思うわ」
よかった。
あのまま死んでいたらあまりにも不憫すぎる。俺も家族に合わせる顔がない。
「あんな真っ白な犬は初めて見たわ。町の人たちが、神社に祀られている霊獣様にそっくりだって騒いでいるわよ」
え?
えーっと……。初めて見る? 霊獣様?
言っていることが色々おかしい気がした。
紀州犬に伝説があることについては、母親から聞いたことはあった。
紀伊山地では神の使いとされていたことや、高野山に空海を導いたと言われていることなどだ。
だが一般的には、そこまで神性のある犬という認識はないはず。
そこらの神社に紀州犬が祀られていることなども、なかったように思う。
「はぁ……そうなんですか」
気にはなった。
しかし今突っ込む話ではないような気もしたので、この場は適当に流した。
「さて、じゃあ質問させてもらうわね」
女医の問診が始まる。
最初は、既往歴や家族歴、現在処方されている薬がないかなど、ごく普通の内容だった。
そしてそれらが一通り終わると、医療とは関係のない質問も飛んでくる。
「あなたの身に着けていた服の生地、初めて見るものばかりだったわ。あなたはどこの国からの旅人さんなの?」
…………はい?
***
結局あのあと、女医とはかなり長くやりとりをすることになった。
そしてその結果……。
どうやらここが、自分が知る日本の千葉県ではない線が濃厚となった。
この国が日本という名前の国であることは確からしい。
女医に日本語は通じているので、公用語が日本語ということも間違いはない。
しかし、記憶障害を疑われて自分の出生地を聞かれたときに「千葉市です」と答えても、「そんな町はない」と返されてしまった。
他にも千葉の地名をいくつか挙げてみたが、「聞いたことがない」と言われた。
……日本という名前の、知らない国?
あの崖落ちで、そんな国に飛ばされたということなのだろうか?
まだこの病室だけしか見ていないので、その結論で納得しているとは言い難い。
ただ、病室内を見回すと、確かにおかしな点はある。
まず、電気の気配がない。
天井に蛍光灯がなく、壁にコンセントもない。
そして、樹脂製の物が、見る限りは一つもないようである。
現代日本の病室で、それはあまりにも不自然だ。
他にも、世話になっているのに申し訳ない言い方ではあるが、内装が全体的に前時代的な雰囲気がある。
壁も壁紙が貼られておらず、板張りのまま。
病室らしい備品もほとんどない。バンガロー風の部屋にそれらしいベッドを置いただけ、という印象を受ける。
……外はどうなっているのだろうか?
確認してみたい――そう言ってみたら、
「いいけど。怪我人だから介助があったほうがいいわ。ちょっと待っててね」
と言われた。
女医は退室。現在待ち状態だ。
窓を見る。カーテンは開いていた。
ここからでは木が見えるだけで、街の景色などを窺い知ることはできないが、外は明るいようだった。
半日以上眠っていたということだから、今は崖落ちの次の日の午後くらいか。
俺とクロが行方不明なので、家族は心配しているだろう。
そうだ……クロと言えば。
女医は、クロとは後で会えると言っていた。
今回ほぼ俺のせいでクロも散々だ。野犬襲撃のせいで未遂に終わってしまったが、今度こそきちんと謝ろう。
と、心の中で決意表明をしていたら。
バタン。
急にドアが開いた。
「おー。兄ちゃん目が覚めたんだ。よかったね!」
そう言いながら入ってきたのは、金髪ショートの少年だった。
歳はかなり若い……というよりも、子供だ。見た感じは小学生か中学生くらいだろう。
そして、手に何か黒い布を持っている。
「これ兄ちゃんが着けてた下着だけどさ。ツルツルだし、ゴムじゃないところも伸びるし面白いな! こんなの初めて見た」
「あ! それ俺のボクサーパンツじゃないか。あれ? そういえば俺、全然違う格好に……? 俺の服は一体どこに」
「全部脱がしたよ!」
「な、何ぃ?」
「だって汚れてたし汗でベチョベチョだったし。そのままベッドに寝かせるのはマズイでしょ」
それはその通りだ。
あの女医さんがやるわけにはいかないということで、この金髪少年に任せたのか。
「これはボクサーパンツって言うの? 面白いなぁ。貰ってもいい?」
「ダメに決まっているだろ。だいたい俺が着けてたんだから汚いぞ」
「洗ったから大丈夫!」
……な、何だこいつは。
「ちょっとカイルくん。ダメよ怪我人を困らせたら」
女医が戻ってきた。どうやら、この金髪少年はカイルという名らしい。
日本人の名前ではない。外国人だろうか?
「車椅子の準備が出来たわ。じゃあカイルくん、あとはよろしくね。あまり遅くならないうちに帰ってきて頂戴ね」
そして女医は俺のほうを向く。
「倒れていたあなたを背負って運んできてくれたのは、この子よ。見た目よりもずっとしっかりしているから安心するといいわ」
「え! そうだったのか?」
「そうだよ! たまたま用事の帰りで森を歩いてたら、まっ白な犬がやって来てさ。
生まれて初めて見たけどアレ霊獣様でしょ? オレのズボンを引っ張るんで、何かな? と思って、行ってみたら兄ちゃんが倒れてたんだ」
その少年の説明で、俺は意識がなくなったあとに何があったのかを理解した。
野犬はクロが全匹追い払ったのだ。
そして俺が例によって気絶したままだったので、助けを呼びに行ってくれた――そういうことらしい。
しかし俺は身長175センチ、体重も70キロ近い。
それをおぶって街まで運ぶ?
どれくらい距離があったのかは知らないが、とんでもない体力だ。
「そうか……なら命の恩人だな。ありがとう」
「お礼にボクサーパンツ貰っておくよ。へへへ」
「お前は変態か……」
「だってこれ凄くない? ね? お医者さん」
「確かに。私も初めて見るわ。考えられないくらい薄くて絹のような光沢もあるし、それにかなり伸び縮みもするのね。不思議な布だわ」
結局ボクサーパンツは奪われた。