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第34話 子猫に戻りました2

◆◇◆


 朝も早い時間帯だったため、魔王は執務室ではなく寝室にいたようだ。

 三日ぶりの魔王の部屋が不思議と懐かしく感じる。

 侍女長がドアをノックすると、少し不機嫌そうな声音で「入れ」と返答があった。なんだか、声に元気がない。魔王、そんなに寝起きが悪かったっけ?


「失礼いたします、アーダルベルトさま。ミヤさまをお連れしました」

「っ、なに! ……少し待て」

「もう入室しております、残念ながら」

「みゃっ!」

 侍女長の腕の中で、右の前脚をぴょこっと上げて挨拶をする。魔王、昨日ぶり!

「ふ、朝も早くから元気なことだな、勇者よ」

「そういうアーダルベルトさまはまだ夜着のままですか」

「くっ……仕方あるまい。ここのところ、寝付きが悪かったのだ」

「ああ、ミヤさまとは別々の寝室でしたからね。また不眠症が再発したのですか」

 侍女長が端整な眉を微かに顰めている。心配そうに魔王に歩み寄った。つられて美夜もまだ寝台に腰掛けている魔王の顔を覗き込んで息を呑んだ。

(魔王、目の下にクマを飼っている!)

 せっかくの、綺麗な目の下がげっそりと窪んでいる。眼窩がんかの下部にできる、黒ずんだクマが魔王の美貌にかげりを与えていた。なんて、もったいない!


「みゃおう!」

 思わず、侍女長の腕の中からぴょんと飛び降りてしまった。目指すは、魔王の寝台。

 だが、ふかふかのシーツにダイブするつもりが、大きなてのひらに抱き止められてしまった。

「危ないだろう、勇者」

「みゃみゃっ」

 危なくないよ、だって魔王がいるもの。そう訴えると、ちゃんと伝わったのかは分からないが、魔王がふわりと微笑んだ。

 いつも眉間にシワを寄せて難しい表情をしている魔王が、ようやく頬を緩ませてくれたことが嬉しくて、美夜は額をこつん、と魔王の顎にこすりつける。

「ふみゃあ」

「ふ……なんだ、その気の抜けた声は」

 何とでも言うといいよ。嬉しいくせに。ふすん、と鼻を鳴らす美夜。

 硬い胸元に乱暴に顔をこすりつけていると、くつりと喉の奥で笑いながら、魔王がそっと抱き上げてくれた。

 懐かしいぬくもりと香りに包まれて、子猫は魔王の腕の中でくるると喉を鳴らして甘える。

「ああ……お前は暖かくて、いい匂いがするな」

「うにゃ?」

 いい匂いがするのは魔王だと思う。たぶん、何かとても高価なお香のようなものを使っているに違いない。

(この世界へ無理やり召喚された際に、抱え上げてくれた時と同じ香り。すごく落ち着く……)

 白檀びゃくだん、だろうか。強い香りがするものは苦手だったが、焚き染められたような微かな香りは魔王の体臭と混じり合って、とても好感がもてる匂いだ。

 喉のゴロゴロ音が激しくなった。これは自分ではどうにもできない、生理的な反応だ。魔王と一緒にいると、つい安心してしまい──なんだか、眠くなってきた。

 それは魔王も同じだったようで、頭上で欠伸をする気配を感じた。つられて美夜も欠伸をする。

「……もう少しだけ、こうしていよう」

「うみゅ」


 ぽてん、と魔王が寝台に倒れ込む。腕の中にしっかりと子猫を抱え込んだまま。

 広くてふかふかの豪奢な寝台は美夜も気に入っている。この世界で、おそらくはいちばん安全な魔王の腕の中に収まっている子猫は、魔王の誘いを断らなかった。

 お互いの香りとぬくもりが、何よりも心地いい。

 やがて微かな寝息を立て始めた二人を、壁際に控えた侍女長は呆れたように覗き込むと、そのまま魔王の寝室を後にした。

「二週間分の仕事をこなしたとテオドールも言っていたことですし、しばらくは寝かせてあげましょう。本当に困った子たちですこと」


◆◇◆


 空腹に耐えかねて目が覚めたのは、燃費の悪い子猫が先だった。

(お腹がすいた! ごはん! ごはんが食べたいよ、魔王!)

 ぐっすり眠った子猫は寝起きがとてもいい。魔王の腕の中から這い出すと、胸の上に座って大声で空腹を訴えた。ミャアミャアと騒いでいるのに、魔王は熟睡したまま、ぴくりともしない。

「みゃおう! ごあん!」

 硬いかと思いきや、意外と弾力のある胸板を子猫はこねこねと揉んでみる。母猫に甘えるような愛らしい仕種だが、この三日間ほとんど眠れていなかった魔王は起きる気配もしなかった。

「むう……」

 仕方がないので、攻撃対象を変更する。眠る魔王の首の上に移動してみた。ここなら、息苦しくなって目覚めるに違いない。そう思ったのに、まったく気にした様子もなく寝息を立てている。

(なんで? 子猫だから、軽すぎた?)

 一キロ未満の体重の子猫は、魔王にとっては綿ぼこりと変わらない重さだったようだ。

 仕方ない。起きない魔王が悪い。美夜は魔王を見下ろして、その頬を踏ん付けた。えい。さすがにここまですると起き──ない。どういうことです?

 むにむに、頬をもんでみても起きる気配がなかった。どれだけ熟睡しているのか。

「ごあーん!」

 はぷり、と魔王の耳たぶに齧りついてみた。さすがに牙は立てない。かじかじ。なかなか、良い弾力だ。これは吸いたくなる──

「くっ……くすぐったいぞ、勇者」

「みゃっ?」

 気が付いたら、空腹も相俟って魔王の耳たぶを吸ってしまっていたようだ。

 ようやく目を覚ました魔王が、子猫を己の耳元から引き剥がす。両脇の下を掴まれて、至近距離で視線を合わせられた。これは叱られる流れだ。美夜は耳をぺたんと寝かせた。

「お仕置きだ」

 低い声音で宣言するや否や、魔王が子猫のお腹に顔を埋めた。

「みゃー!」

 それはだめ、くすぐったい! じたじたと暴れるが、しっかりと捕まっているために逃げられない。存分にお腹を吸われてしまった。

「みゅう……」

 乱れた毛並みを舐めて整えながら、恨めしそうに見上げると、やけにすっきりとした表情で魔王が笑う。

「おかげでよく眠れた。感謝する、勇者」

「にゃ?」

 そういえば、目の下のクマが消えている。肌も心なしか、艶々しているようだ。

 お腹の空き具合からして、三時間ほど眠っただけだが、それだけでもかなり回復したらしい。

「では、久しぶりに共に食事を楽しもう」

「ごあん!」

 小脇に抱えられた子猫がぴんと尻尾を立てる。ご飯だ、ご飯! 朝食を食べそびれてしまったので、今ならいつもの倍は食べられそうだ。うきうきと喜ぶ美夜を目にして、魔王アーダルベルトは口角を上げて、小さく笑った。こんなに嬉しそうにしている魔王を見るには初めてかもしれない。



 本日はどうやら魔王は休日のようだ。

 いつもの豪奢な衣装とは違い、ゆったりとしたシャツとシンプルなパンツ姿で食堂に向かう。どこからともなく現れたメイドさんたちが素早くテーブルを整えてくれた。

 美味しそうなブランチが運ばれてくる。魔王にはがっつりとした肉料理をメインにした食事だ。美夜の前にはいつものように蜂蜜入りのホットミルクと白身魚のムニエル。

 そして、メインはふわふわのパンケーキ!

(わーい! パンケーキだ! クリームたっぷりで嬉しい!)

 身を乗り出すようにして目を輝かせている子猫に気付いて、魔王が首を傾げる。

「……それは何だ? 生焼けではないのか」

「みゃっ⁉」

 生焼けではなく、これはふわふわのスフレパンケーキなの!

 きっと魔王を睨み付けていると、メイドさんがくすりと笑って魔王に説明してくれた。

「こちらはミヤさまのお好きなパンケーキだそうです。柔らかな生地とクリームやフルーツの相性がとても良くて、私たちもご相伴にあずかりました」

「ほう。勇者の世界のパンか。興味深い」

「陛下にもお持ちしましょう」

 すかさず、魔王の分のパンケーキが運ばれてきた。こちらはクリームが控えめで、バターが添えられている。そっちも美味しそうだ。

 魔王は自分の食事を取りつつも、器用にミヤに食べさせてくれた。ホットミルクを舐め、ほぐしてくれた白身魚のムニエルを頬張る。バターがきいていて、とても美味しい。バジルの香りも気に入った。


 そして、本日のメイン。スフレパンケーキだ!

 これが食べたくて、あやふやな記憶を頼りにレシピを書いて侍女長に渡したのだが、まさかここまで再現してくれるとは思わなかった。

 ファミレスでバイトをしていた時に、オーダーミスがあったから、と食べさせてもらったことのある、ふわふわのパンケーキ。あれはとても美味しかった。

 ふわふわの生地は少しばかり物足りない重量だったけれど、添えられていたホイップクリームとメープルシロップ、フルーツのおかげで、とても食べ応えがあったように思う。

 あれは、とてもいいもの。ただし、それに比例してお高い。貧乏な苦学生にはおいそれと手が出せないご馳走スイーツだった。

 千五百円のパンケーキを食べることよりも、美夜は五百円の学食を三回食べることを選ぶ。


(でも! 今はこの魔王城のお客さまなので! パンケーキも食べ放題なのです!)

 ぱたぱたと忙しなく尻尾を揺らして、魔王のおねだりをする。

「落ち着け、勇者、ちゃんと食べさせてやるから」

「みゃみゃっ!」

 はやくはやく、と魔王の膝の上で足踏みをすると、苦笑しながらパンケーキを切り分けてくれた。子猫サイズの小さなパンケーキにクリームをのせて口元に運んでくれる。

 あぐっ。大喜びでかぶりつく。ふわっふわだ! やわらかなパンケーキに頬がとろけそうなほどに甘いホイップクリーム。ふにゃあ、と瞳を細めて味わった。とっても美味しい。

 二口目はパンケーキに蜂蜜を垂らしてくれたものを、三口目はベリージャムをつけて食べさせてくれた。ぱかりと口を開けて待っていると、パンケーキが降ってくるのだ。至福。


(ここが天国では? あ、魔族の国だった……どっちでもいい、最高すぎる)


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