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長命種のエルフや魔族にとって、三日など瞬きする間の出来事だ。
そのはずだったのだが──『魂のツガイ』相手である少女と顔を合わせることを我慢している魔王アーダルベルトにとっては、一日千秋の思いで過ごす三日間だった。
どうにか二日間を過ごせたのは、侍女長自作のトラのぬいぐるみと記録の魔道具である水晶玉があったからに他ならない。
「これらが無ければ、命の危険を感じたやもしれぬ」
「それほどまでとは……」
宰相のテオドールはごくりと喉を鳴らした。エルフである彼には、『魂のツガイ』は存在しないので、幼馴染みの魔王の言葉に青褪める。
頑強で最強な魔王であるアーダルベルトがこの数日で、げっそりとやつれているのだ。ツガイと引き裂かれると、これほどまでに苦しむものなのか、と少しだけ同情していた。
「それはそれとして、仕事は片付けてくださいね?」
「くっ……」
やつれたことにより、さらに妖艶さを増した魔王にも、宰相は容赦がない。
執務机には書類が山と積まれていく。仕事の邪魔をする可愛い小悪魔な勇者がいない分、アーダルベルトの仕事はかつてないほどに
この隙に、溜まっていた仕事をすべて片付けさせようと、張り切って書類を積み上げたのだ。
「面倒ではあるが、仕事をしている間は少しだけ、ツガイのことを忘れていられる……ッ」
血を吐くような苦悶の表情を浮かべつつ、魔王は凄まじいスピードで書類の束を片付けていく。本気を出した魔王は凄いのだ。
苦手な書類をまとめて片付ければ、子猫に戻った勇者を存分に愛でることができる。
それだけを心の支えにして、ひたすら仕事を頑張ったのだ。膝の上のぬいぐるみを五分ごとに抱き締めて撫でながら、無心で書類に目を通し、決裁していく。
「ふふふ。お疲れさまでした、陛下。二週間分の仕事を早めに片付けることができましたよ」
「なかなか終わらないと思ったら、二週間分前倒したのか、テオドール……」
怨嗟の声を漏らすアーダルベルトに向かい、有能な宰相は珍しく笑顔を浮かべてみせた。
「これで二週間、勇者さまといちゃいちゃできますね、陛下」
「二週間いちゃいちゃ……」
それはいい。うっかり頬を緩ませていると、「それでは!」と爽やかに言い放って、宰相は執務室を後にした。逃げたな、あれは。
「しかし、さすがに少し疲れた……」
ふう、とため息を吐いて、アーダルベルトは何の気なしに、窓の外を眺めた。
執務室から見下ろせる中庭は、庭師が丹精込めて作り上げた美しい庭園である。そこに、何やら見慣れない人影を見つけて、アーダルベルトは眉を寄せた。
「あれは……まさか、勇者か?」
ぴょこんと立つ三角の愛らしい獣耳と、ふわりと揺れる長毛の尻尾。
水晶玉で見せてもらった、愛しい少女が中庭をほてほてと歩いていた。
「どういうことだ……? 今日は大人しく読書をして過ごしていると聞いたが──」
何やら不思議なステップを刻んでいる。子猫の姿の折にたまにアーダルベルトに披露していた、あの踊りに少しだけ似ている気がした。
てっきり【魅了】の効果がある何らかの踊りかと思っていたが、一人でもしているところを見ると、そういった類のものではないようだ。
窓を開けて、そっと耳を傾けてみると鼻歌が聞こえてきた。にゃごにゃご。随分とご機嫌そうだ。とても可愛い。見ているだけで、魔王の胸はぎゅんぎゅんとときめいてしまう。
(だが、まだ理性は保てている。やはり、あの香りを吸ってしまうと危険なのだな……)
見ているだけで、近寄って抱き締めたくなるが、まだ大丈夫そうだ。
これ幸いにと、アーダルベルトは勇者ミヤを観察することにする。
ぴょこぴょこスキップをしていた少女が中庭の真ん中で足を止めた。きょろきょろと周囲を見渡して、何やら笑顔で頷いている。可愛い。実験にゃ、とつぶやく声が聞こえてきた。
(実験とは何のことだ?)
興味深く観察していると、ミヤはその場にしゃがみ込んだ。ここに侍女長がいたら、きっと悲鳴を上げたことだろう。せっかくのワンピースに土がついてしまう。
が、ミヤは気にせずに地面に手をついた。魔力が発動する気配がして、アーダルベルトは眉を寄せる。小さな手が触れていた箇所にぽこりと穴があいた。小さな穴だ。
「土魔法か。さすが、勇者。もう魔法を発動できるようになったか」
まだまだ未熟な練度ではあるが、これほど短期間に魔力を制御できるようになったとは、とても優秀な魔法使いである。
成功をしたことをひとしきり喜んだ少女が、ふたたび地面に腰を下ろした。もう一度、土魔法。今度は穴を埋めていく。器用だな、とアーダルベルトが感心していると、次の魔法を練り始めた。
(今度は何をするつもりだ?)
ほっこりとした気持ちで、愛しい少女を見守る魔王。もはや仕事は放置して、窓にべたりと張り付いている。その姿を異世界出身の賢者に見られたら『愛娘の初めてのおつかいを見守るパパ』のようだと笑われていたことだろう。
魔王に熱心に観察されていることに気付いた様子もなく、勇者ミヤは楽しそうに宣言する。
「じゃあ、次は火魔法にゃ!」
もう火魔法まで使えるようになったのか、とアーダルベルトは我が事のように嬉しく思った。さすがは我が宿敵にして『魂のツガイ』。あんなに小さい姿でなんと頑張り屋さんなのだろうか。
などと、微笑ましく見守っていたのだが、次の瞬間、目を見開くことになる。
(む? 思ったよりも魔素の流れが大きい……待て、そのまま魔法を発動させる気か?)
むーっ、と少女が片手を突き出した先に大きな火柱が立ち昇った。
「ニャッ⁉」
どうやらミヤにとっても想定外だったようだ。
驚きのあまり、大きく飛び上がってしまっている。白銀色の豊かな尻尾が倍ほどの太さに膨らんでいた。あまりのふかふか具合に、きゅっと掴みたくなってしまうが、今は我慢だ。
それよりも、このまま放置しておけば、勇者が危ない。
おろおろと右往左往する少女は恐慌に陥っているようで、火魔法の発動を止めることさえ失念していた。あのままでは、魔力が枯渇してしまう。
涙目になった少女が震えながら「みゃ、みゃおう……」と鳴いた。
呼ばれた瞬間、アーダルベルトは己に課していた『満月の時期が終わるまでは、勇者と会わない』という誓いを月の彼方にまで投げ捨てた。
愛しい存在に呼ばれたのだ。駆け付けるに決まっている。後でどうなろうとも、知るものか。
怖がって泣く少女の元まで瞬時に転移すると、そっと背後から抱き上げてやった。硬直していた華奢な肢体から、震えが止まる。……ミヤがこの自分の腕の中で、安心しているのだ。
あまりの嬉しさに、だらしなく顔が緩みそうになってしまい、魔王アーダルベルトは慌てて表情を引き締めた。愛しい少女に格好が悪いところを見せたくない。
「何をしているのだ、勇者よ」
む、表情を引き締めたついでに、声も低くなってしまったようだ。
おそるおそる、頭上を見上げた少女がふにゃりと目に涙を浮かべたことに気付き、魔王は激しく動揺した。どうした、何があった!
「ごめんにゃ、さい……」
しくしくと鳴かれてしまい、はっと顔を上げた。
目の前では相変わらず、火柱がごうごうと立ち昇っている。先代魔王自慢の庭園がこのままでは焼け野原になってしまう。勇者もこの様子に心を痛めているに違いない。
「魔法の練習をしていたのだろう? 謝ることはない」
アーダルベルトは右腕で勇者を抱き上げた姿勢のまま、左腕を軽く振った。
火柱を包み込むような形で闇魔法を発動し、炎を飲み込ませていく。轟々と燃えていた炎は消え、中庭に静寂が戻る。
「火が消えた、にゃ? よかった……」
ふにゃあと力が抜けたのか、寄りかかってきた少女を慌てて抱え直す。
「火が消えにゃくて、こわかったにょ」
「そうか。次からは誰か魔法を使える者と共に練習をするといい。場所も中庭はダメだ。兵の鍛錬場があるので、そこを使え」
こくり、と素直に頷く姿がとても愛らしい。
そこへようやく事態に気付いた見回り兵がやって来た。メイドや女官たちが何事かと窓から身を乗り出している。
「このままでは見世物になってしまうな。執務室に戻ろう」
「ん!」
当然のように魔王の首に細い腕を回してくる姿に、くっと前のめりになった。
鼻の奥が痛い。
どうにか理性を総動員して、魔王は脳内で素数を数えながら、執務室に転移した。
腕の中の愛しい存在を直視するのを避けて、なるべく遠くへ視線を向ける。息はもちろん、止めてある。そろそろ苦しい。と、そこへ救世主がようやく現れた。
「ミヤさま! アーダルベルトさまも、ご無事ですかっ?」
「にゃっ!」
侍女長、シャローンだ。腕の中の少女がぱっと顔を輝かせる。
せっかく首に抱き着いてくれていたのに、すぐさま侍女長へと手を伸ばす様に、アーダルベルトは遠い目になった。寂しい。が、ここはおとなしく侍女長へ手渡しておく。
シャローンが「ご無事ですか」と尋ねたのは、ミヤのことではなく、自分の理性のことだろう。
「どうにか無事ではあるが、これ以上は危険だ」
「かしこまりました。……では、ミヤさま。お部屋に戻りましょうね。お怪我がないか、確認させてください」
「怪我はにゃい、にょ。でも、お庭が燃えちゃったにょ……」
「まぁ……それは大変ですわね。では、明日にでも私と一緒にお庭を直しましょう。お手伝いしていただけますか?」
「! んっ! お手伝い、しますっ」
しぴっと片手を上げて宣言する様がとても微笑ましくて、シャローンが頬を緩ませた。
「では、そうしましょうね。……アーダルベルトさま、御前を失礼致します」
顔色が悪くなってきているのに気付いた侍女長がすばやくミヤを抱き上げて、執務室を後にする。
気配を感じなくなった頃に、ようやくアーダルベルトは呼吸を再開した。
「ふ……この私としたことがもう少しで地に膝をつくところだった」
肩で息をしてしまうのは仕方ない。だが、おかげでどうにか勇者を襲わずに、やり過ごすことができたのだ。これは進歩だ。
一度でも認識してしまった『ツガイ』を前にすると、特に所有欲の強い男性の方が深く執着することが多いと聞いてはいたが、本能とはこれほどに激しく胸を掻き立てるものなのか。
「おそらくは、うなじを咬めばこの執着も落ち着くのだろうが……」
ツガイであることを証明する印を愛しい存在に刻むことができれば、これほどに焦燥することがないことは理解している。だが、もう少し──せめて、勇者が自衛できるほどに強くなれば、魔王の『魂のツガイ』として傍らに立てるようになるはずだった。
「それまでは、自重せねば。……今回のように、匂いを嗅がないよう呼吸を止めることは有効だったな。十分が限界だが」
だが、匂いさえどうにかできれば、あの生誕祭の夜のような醜態を晒さずに済むことは分かったのだ。どれだけキツい匂いでも、ずっと嗅いでいると慣れると聞いた覚えがある。
「ならば、慣れてみせよう。まずは子猫の姿に戻った勇者の匂いから……!」
この場に賢者がいれば、鋭いツッコミが入っただろう宣言を、魔王は再び心に誓った。