■ 第五章 魔族の国はとても過ごしやすいようです
魔王が統治する、この国はアウローラ王国。そして、敵対する人族の国はトワイライト帝国。
現在、この二国は対立しており、圧倒的に弱い帝国が「魔王を唯一、倒すことができる」勇者を異世界から召喚したらしい。それが、召喚勇者。
(なんと、驚くことにその勇者が私だとか)
アウローラ王国の魔王城にお世話になって、はや三日。
その間、美夜は無垢な子猫姿であるのをいいことに、城中を探検しまくり、聞き耳を立てて情報を収集したのだ。
そうして得た情報が、これ。
(あの、偉そうなおじいちゃんが人族の皇帝で、諸悪の根源だったのね)
こんなことなら、召喚された直後、根性で立ち上がって、思い切り顔を引っ搔いてやれば良かったと、しみじみ思う。
あの傍迷惑な召喚の魔法陣に、抱えた子猫と一緒に吸い込まれて、異世界へと呼び寄せられた際に、どうやら美夜と子猫が「混じって」しまったらしい。
その結果が、現在のこの姿である。
鏡に映る、小さくて愛らしい子猫の姿を目にして、美夜は嘆息した。
(混じるにしても、普通は体積の大きい「私」の身体に子猫要素がちょっとだけ混じるものでは? 人の姿に猫耳と尻尾がオプション扱い的な)
だが、実際にはこれである。
(完全に子猫の肉体ね。中身は「私」の意識だけど……)
元の美夜の肉体がどうなったのかは、あまり考えたくなかった。
(でも、逆にこれで良かったのかもしれない。だって、肉体は「私」で、中身が子猫よりはマシだもんね?)
そう考えると、少しだけホッとする。
子猫はとても可愛い。あの、恐ろしそうな魔王でさえメロメロになるくらい、この異世界でも通じる愛らしさがあるのだ。
だが、子猫の中身は災害に近い。あの小さなボディのどこにそれほど、と言いたくなるくらいの体力お化けの悪戯っ子なのである。
生後一ヶ月の理性も何もない、無邪気な子猫を魔王の執務室に解き放ってみるといい。
一時間もあれば、あの立派なソファや絨毯、カーテンはボロボロになることだろう。
重厚なデスクの上に置かれた水晶の文鎮、艶やかな漆黒の羽ペン、高価そうな花瓶などもすべて床に叩き落されているに違いない。
(小さな子猫でさえ家中を散らかすのに、それが人間の「私」の姿だったら……?)
高価そうな品物の数々を思い浮かべて、美夜はぞっとした。
とても弁償できそうにないので、中身が理性のある「自分」で良かったのだと、どうにか納得することに成功する。
(それに、子猫の姿だからこそ、殺されずにいるものね! 勇者召喚に巻き込まれたのは腹が立つけど、そこだけは感謝しておこう)
愛らしい子猫ちゃんだからこそ、魔王に気に入られているのだ。
天敵であるはずの「勇者」である自分が殺されずに済んでいることも、右も左も分からない異世界で、衣食住のお世話になれているのも、可愛い子猫だからなのだ。
そう、勇者であるはずの美夜は魔王城にて、なぜか客人扱いされている。
魔王城の主である魔王はもちろん、エルフの侍女長にメイドさんたち、護衛らしき獣人さんたちは皆、美夜に優しい。
(三食おやつ付きだけでも嬉しいのに、お昼寝もし放題! 最高! ここが天国なのでは?)
料理長が作ってくれる、美味しいご飯に美夜はすっかり胃袋をつかまれていた。
毎晩、綺麗なエルフのメイドさんたちがお風呂に入れてくれるし、夜は豪奢な天蓋付きの魔王のベッドで眠れるのだ。ふかふかのお布団に、極上の美貌の主の腕枕付き。
(……うん、最後はちょっとアレだけど。寝心地はいいから気にしない!)
あれほどの美形を前にすると、やはり少し落ち着かない気持ちになったが──
そこは子猫。日中遊びまわっているので、すぐに疲れて寝落ちてしまう。なので、美夜は魔王の腕枕があまり気にならなくなった。ときめきよりも、睡魔が勝っている。子猫なので!
(子猫の睡眠時間は十八時間必要って、ネット記事で読んだことがあるもの。仕方ないよね)
異世界の一日も、地球と同じく二十四時間だ。魔王城にある柱時計で確認した。
バイトを掛け持ちしていた苦学生の美夜からしたら、ちょっとありえない睡眠時間である。
逆算すると、六時間しか起きていない。むしろ、その六時間が元の美夜の睡眠時間だ。
(食べて眠って、遊んで眠って、食べて眠るだけの一日。控え目に言っても最高では?)
安全なお城の中で、豪奢なベッドに横たわり、ぬくぬくと眠れるのだ。
食事はとっても豪華だし、綺麗なメイドさんたちがちやほやしてくれる。異世界、最高すぎる。
(元の姿のままだったら、勇者として帝国に酷使されていそうだし、子猫姿で良かった!)
最初は魔王を警戒して怯えていた美夜だったが、今ではすっかり慣れ親しんでいる。
妖艶な美貌の持ち主である魔王だが、中身が生真面目で不器用な男であることを、この三日の間で知ったのだ。
一瞥するだけで敵対する存在は委縮し、弱い相手だと存在ごと消滅してしまうのだとメイドたちが噂していたが、美夜の前では書類仕事に忙殺されて目の下にクマを飼うイケメンでしかない。
疲労が極まると、おもむろに子猫姿の美夜を抱き上げて、後頭部の匂いを嗅ぐという奇行に走るくらいで、今のところ害はなかった。
匂いを嗅がれるのは嫌だが、今は子猫姿なので諦めている。
三食おやつ付きの素晴らしい生活を送れているので、そのお礼代わりとして甘んじて受け入れているのだ。
(そう、サービスは大事。今は魔王が私の保護者のようなものだし? 衣食住のお世話になっているのだもの。少々のセクハラは甘受します)
そんなわけで、お昼寝から目覚めた美夜は、さっそく本日のお仕事に向かうことにした。
とてとてと短い脚を繰り出して、通い慣れた廊下を歩いていく。
目的地は、魔王の執務室。ドアの前には近衛騎士が二人、立ち塞がっている。二人ともよく似た容貌をしているので、おそらくは兄弟。護衛を担当する騎士らしく、どちらも体格が良く、強面だ。
灰色に近い銀髪の持ち主で、同じ色の獣耳が凛々しい狼の獣人である。
ほてほてと小さな子猫が歩み寄ると、二人は揃って息を呑んだ。警戒されているのかもしれない。
(勇者だけど、怖くないよ。多分、この城の中でも最弱です!)
「…………」
困惑気味にこちらを見下ろしてくる狼獣人たちの足の間をすり抜けて、執務室のドアの前でちょこんと座った。
ドアノブを見つめながら、美夜は「にゃあ」と鳴いてみる。ノブは動かない。
美夜は首を傾げて、しばらく待機したが、やはりドアは開かなかったので、実力行使に出ることにした。
後ろ脚で立ち上がると、前脚で執務室のドアに爪を立てて訴える。カリカリ、カリカリ。
(開けてよー!)
にゃあん、と呼び掛けてみるのだが、沈黙が返ってくる。とても悲しい。
項垂れたところで、ドアの前の近衛騎士が動いた。
「くっ……もう見ていられない」
「おい、いいのか?」
「ずっとこのままでいるつもりか? 落ち着いて仕事もできんぞ」
「それはそう」
意見がまとまったらしく、近衛騎士の一人がドアをノックする。
「失礼します! ミヤさまが入室を希望しておられます」
少しの沈黙の後、ドアが開かれた。執務室から、艶やかな低音で「入れ」と言われる。
「にゃっ!」
許可をもらえたなら、こっちのものだ。
美夜は狼獣人たちを見上げると、一言お礼を述べて、尻尾をぴんと立てて執務室に足を踏み入れた。
執務室にいたのは、魔王一人だけ。部屋の主である彼は、仏頂面で本日も書類仕事に忙殺されている。魔王が指先を軽く振ると、ドアが閉じられた。魔法だ。とても便利そうなので羨ましい。
美夜はふかふかの絨毯をかき分けるようにして魔王の足元まで辿り着くと、元気よく鳴いてみせた。
慣れた様子で、魔王が片手で美夜を抱き上げてくれる。
爪を立てれば、魔王の足を登ることはできるのだが、それをすると高そうな服に穴を開けてしまう。
魔王は気にしないだろうが、メイドさんに余計な仕事を増やしてしまうので、美夜は無力な子猫を装って、抱っこしてと甘えているのだ。そう、他意はない。楽だから、とか思ってはいません。
魔王は子猫姿の美夜の頭をひと撫ですると、己の膝の上に乗せてくれた。
美夜は魔王の硬い太腿の上でしばらく、くるくると回ると、良さそうな場所を見つけて、そこで丸くなった。
鍛えられた筋肉は多少硬くはあるが、それなりに弾力があるので悪くない寝心地だ。
魔王は己の膝の上で居眠りを始めた子猫を片手でそっと撫でながら、すごいスピードで書類にサインを施していく。やる気が出てきたようで何よりだ。やはりアニマルセラピーは偉大である。
退屈だけど大切な書類仕事を魔王に気持ちよくこなしてもらうために、美夜はこの国の宰相から直々に仕事を頼まれたのだ。
どうか、魔王さまを癒してさしあげてください、と。
なので、美夜は食事と睡眠の合間の情報収集も兼ねて、毎日この執務室に通っている。
(魔王のお膝でお昼寝するのも、私の大事なお仕事!)
たったそれだけで、魔王の心はほんわかと癒されるらしい。
自慢の純白の毛並みを撫でさせるだけの、簡単なお仕事です。
撫でられると気持ちがいいので、美夜はうっとりと瞳を細めた。