「これは何だ?」
「まだ幼い子ですので、山羊ミルクです」
壁際に控えていたメイドが教えてくれる。
「それと、コカトリス肉を茹でてほぐした物を用意しましたわ」
「にゃああん」
ごはんごはん! 愛らしい声音でおかわりをねだられ、アーダルベルトはヒナにエサを運ぶ親鳥の気持ちで、せっせと山羊ミルクを飲ませてやった。
(まさにヒナだな。私の膝の上で、無防備に口を開いて待っているとは……)
勇者のくせに油断しすぎだろう! と、ついツッコミを入れたくなるほどの間抜けな恰好だ。
物凄い勢いでピチャピチャとミルクを舐め取る様子をアーダルベルトは感嘆のため息と共に真剣に観察する。
ぎこちなかったアーダルベルトの手つきも、やがて手慣れてきた頃、ハチミツ入りのホットミルクを子猫は綺麗に飲み干した。
「次は肉だな」
鳥の大型魔獣、コカトリスの肉を茹でたものだと言っていたか。
コカトリスは巨大なニワトリの身体と大蛇の尾を持つ、厄介な魔獣だ。
が、何よりも面倒なのは、石化の魔法を使えることだろう。中級魔族ならば無効化できるが、下級の魔族なら石像に変えられてしまう。
そんな厄介な魔獣だが、肉はすこぶる旨い。
アーダルベルトはローストにしたコカトリス料理を好んでいるが、あの小さな牙の持ち主である勇者には間違いなく歯が立たないだろう。料理長と侍女長の判断は正しい。
細かく刻んで、ことことと煮込まれたコカトリス肉ならば、子猫でもきちんと食べられる。
ホットミルクと同様──いや、それ以上の勢いで子猫は肉料理に食いついた。
「うみゃいうみゃい」
言葉を発することができないはずの勇者が、嬉しそうに報告してくる。
「旨いと言っているぞ!?」
ぎょっとして思わず叫んでしまったが、なぜか皆から微笑ましげに見られてしまった。
「ふにゃあ」
用意されていた小皿が空になったところで、子猫はあくびを繰り返した。
体に比べて、バランスの悪い大きな頭がふらふらと揺れたと思ったら、バランスを崩しそうになる。
こてん、と子猫が地面に落ちそうになったところで、慌ててアーダルベルトは手を伸ばした。
「……寝た、な?」
てのひらの上で健やかな寝息を立てている子猫を、魔王アーダルベルトはそっと見下ろした。
いとけない寝顔に再び胸がキュウと痛む。
いったい、この攻撃魔法は何なのだろうか、とアーダルベルトは不思議に思う。
胸が締め付けられるような感覚に陥るが、特にダメージを負ったようには思われないし、むしろ謎の力が湧いてくる。
「アーダルベルトさま、カゴはこちらに」
メイドが即席の子猫用のベッドを恭しく差し出してくるが、アーダルベルトは首を振った。
「必要ない。今夜から私が寝室で見張ろう」
「まぁ。まぁまぁまぁ!」
ぱっと顔を輝かせるエルフの侍女長に、アーダルベルトは眉を寄せる。
「お可愛らしいですものね、ミヤさまは。私も一緒に添い寝したいほどです」
「か、可愛らしいとか、そういうことではないぞ? これは人族の王に召喚された勇者だからな、私が見張るしかないのだ」
「ええ、ええ。分かっておりますとも!」
にこにこと微笑ましそうに頷かれても、居心地が悪いだけだ。
侍女長は乳母でもあるため、あまり強く嗜められない。生まれた時から傍にいるため、あらゆる弱みを握られてしまっているのだ。
眠り込んだ子猫を膝に乗せると、アーダルベルトは大急ぎで自身の食事を済ませる。
「とにかく今夜はもう休む」
「かしこまりました。おやすみなさいませ」
◆◇◆
眠る子猫を己の寝台に寝かせて、アーダルベルトはため息を吐いた。
なぜ、自分の寝室で見張ろうなどと口にしてしまったのか。
「……これがあまりにも無防備に寝ているから」
何事も見破るはずの【鑑定眼】でも、ミヤという名と『猫(イエネコ)』という種族しか見えない、この召喚勇者を、魔王たるアーダルベルトはとっとと始末するつもりだったのだ。
だが、あんまりにも無力で弱々しい生き物すぎて、殺せないまま、その愛らしさに目が離せなくなってしまった。
トワイライト帝国の老皇帝は魔族の統治する豊かな国土を狙い、幾度も勇者を召喚しては、戦を仕掛けてきた。耳当たりの良い言葉に騙された召喚勇者は、魔王を人類の敵だとみなして、こちらの言い分を全く聞こうとはしなかった。
どれも実力で退けてきたが、いい加減面倒になり、召喚直後の勇者を人族に洗脳される前に浚ってくることにしたのだ。説得できれば、そのまま元の世界へと送還し、ダメならば実力行使で「納得」させるつもりだったのだが。
「まさか召喚された勇者がこのような愛らしい生き物だったとは」
ちなみにこの世界に、『イエネコ』という種族の動物はいない。
ネコ科とされる魔獣は数多くいるが、こんなに非力で可愛いだけの動物は、アウローラ王国ではまず見かけたことがなかった。
そのため歴代最強と称えられている魔王アーダルベルトは、生まれて初めての「萌え」や「尊い」という感情に激しく胸を掻き立てられていた。
にゃむにゃむと何やら寝言らしきものを呟きながら、真っ白の子猫がころりと寝返りを打つ。
アーダルベルトの手の上に転がった形だ。動けないでいると、小さな前脚がきゅっと指を掴んできた。額を押しつけてきた子猫からゴロゴロと喉が鳴る音が響いてくる。
なんだ、これは。アーダルベルトは再び胸を押さえた。
何やら叫び出したい気分だが、それをすると子猫が起きてしまう。我慢せねば。
「く……っ! 眠っている間にも魅了魔法か。さすが勇者め」
子猫は彼の手を離さない。すりすりと頬や額をすりつけて気持ち良さそうに眠っている。
「……仕方ない。今夜だけは腕を貸してやろう」
低い声音でつぶやくと、アーダルベルトはいそいそとベッドに横たわった。傍らのふわふわの毛玉を潰さないよう、細心の注意を込めて。
「せいぜい良く眠るが良い、勇者ミヤよ」
眠っているのを良いことに、そうっとその頭を指先で撫でてみる。ふわふわだ。すばらしい。
まんまるの後頭部に鼻先を突っ込みたい衝動をどうにか抑え込んで、魔王は眠りについた。
その夜はかつてないほどに、気持ちよく寝付くことができた。
小さくて、温かなぬくもりを抱き締めて眠ると、深く眠ることができるのだと、アーダルベルトは初めて知ることになる。
翌朝、空腹に耐えかねた子猫が顔面にしがみついてきて、驚いて飛び起きた。
顔面に降ってきた子猫を引き剥がして、アーダルベルトはため息交じりに侍女を呼ぶ。予想していたのか、侍女長が直々にやって来た。
気だるげに身を起こしたアーダルベルトと、その片腕に収まる子猫を目にして「あら」と口元を綻ばせている。
「よく眠れたようですわね」
「猫とは存外にぬくい生き物のようだ」
「まぁ、羨ましい」
軽口を叩く侍女長に食事の準備を頼むと、アーダルベルトは寝台に腰かけた姿で嘆息する。
「はー……」
何だか、朝から疲れてしまった。
肩を落とした姿勢のまま、本日の予定を思い出していると、子猫がこちらを見上げていることに気付く。膝の上によじ登ってきて、顔を覗き込んできた。
「何だ、勇者。この私を心配しているのか?」
くつりと喉の奥で苦笑すると、元気のよい返事が「にゃっ!」と返された。
(まさか、この私を心配する者が、この国にいるとは)
と、ふいに子猫が後ろ脚で立ち上がると、そっと顔を寄せてきた。
なんだ?
戸惑いつつも顔を寄せると、鼻先をつん、と突かれる。冷たく濡れた感触に戸惑う。
鼻を突き合わせての挨拶。獣人族の一部で、好意を持った相手と交わす行為だと聞いたことがある。
(好意。まさか、この子猫が敵である、魔王の自分に?)
潤んだ空色の瞳でじっと見つめてくる、愛らしい子猫。
勇者め!
アーダルベルトは溢れそうな鼻血を止めるため、顔面をそっと両手で覆った。