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第10話 魔王の戸惑い1

■ 第四章 魔王の戸惑い 


 執務室で溜まった書類を片付けていると、ドアがノックされた。

「アーダルベルトさま。ミヤさまをお連れしました」

 侍女長のシャローンだ。書類に視線を落としたまま、魔王アーダルベルトは入室の許可を出す。

「入れ」

「失礼します」

 侍女長はこちらの仕事が一息つくまで、静かに壁際で待機している。

 デスクの上には羊皮紙の束が小山を築いていた。恐ろしい量の仕事だ。

 いくらなんでも、ちょっと多すぎると文句を言いたいが、ここ最近は帝国に勇者を浚いに行ったり、勇者の面倒を見たりと地味に忙しく、書類仕事が溜まっていたので仕方がない。自業自得だ。

(これでも、有能な宰相が自身の裁量である程度は片付けてくれているのだが……)

 最終決裁は魔王である自分がせねばならないので、一枚ずつ書類に目を通して、黙々とサインしていく。

 慣れた仕事だ。慣れてはいるが、心が荒む。


 と、アーダルベルトの耳に何とも気の抜けた声が響いてきた。これは勇者の鳴き声か。

「ふみゃあ……」

 肩の力が不思議と抜けていく。

(そういえば、先程シャローンは勇者を連れてきたと言っていたか。風呂で洗ってきたのだな)

 アーダルベルトは書類から視線を引き剝がして、ゆっくりと顔を上げる。

 声が聞こえた方向は侍女長が待機している壁際だ。

 そこには、風呂上りの勇者が侍女長の腕の中でちんまりと丸まっていた。

「うふふ。見違えましたでしょう? とっても愛らしくて、驚きましたわ」

 軽やかに笑いながら、侍女長はアーダルベルトに見えるように、腕の中の子猫をそっと抱き上げた。

 異世界から召喚された、「猫」という種族の、小さな勇者。空色の瞳とぱちりと視線が合った。


(なんだ、この可愛らしい生き物は!)


 魔王アーダルベルトは震撼した。

 今までもふわふわで愛らしいと密かに考えていた勇者だが、汚れを落とした姿はまるで光り輝いているかのごとく、神々しい。

 あまりの眩しさに、つい「うぐぅ」と呻いてしまったほど。

 幸い、表情は崩れなかったので、理性を総動員して何事もなかったかのように平静を装った。

 呆れたような視線をこちらに投げ掛けてくる侍女長の眼差しには気付かないふりをする。

 やれやれ、といった表情で侍女長はこちらに歩いてきた。勇者を連れてくるつもりなのだろう。

 彼女は慈愛に満ちた笑顔をたたえて、勇者を差し出してきた。思わず、受け取ってしまう。


「アーダルベルトさま、とても良い子ちゃんでしたので、この子を褒めて差し上げてくださいね?」

 しまった、と後悔していると、良い笑顔を保ったまま侍女長がそんな無茶ぶりをしてくる。

「な、なに。褒めるのか? この、私が?」

「はい。お湯から逃げませんでしたし、私たちを噛もうとしたり、爪を立てることもありませんでしたわ」


 それはすごい。素直に感心した。

 獣人の中でも獣の姿に近い一族は風呂を嫌うものが多い。水浴びが好きな一族もいるが、蛇蝎だかつのごとく嫌う種族もそれなりにいるのだ。

 獅子族や豹の一族は、湯はもちろん、水に入るのさえ嫌がる。祖先が同じと言われている虎族は水浴びが好きで泳ぎが得意なので、不思議に思ったので覚えていた。

(獅子族の子供など、汚れを落とすために水で洗おうとしたら、血の惨劇となったと聞いた覚えがあるぞ)

 子供でさえ、それほどに狂暴になるのだ。こんな小さな生き物なのに、逃げようともしなかったとは、さすが勇者である。

 これは侍女長の言う通り、褒めてやらねばなるまい。


 アーダルベルトは小さく咳払いした。子猫がきょとんと見上げてくる。

 膝の上の子猫を見下ろして、アーダルベルトは威厳を保った表情で口を開いた。

「さすが勇者、我が宿敵よ」

「アーダルベルトさま! もっと優しく、笑顔で!」

 途端に、侍女長からダメ出しされる。

「なんだと。なぜ、笑顔」

「ミヤさまが怯えてしまわれます!」

 はっとして腕の中の子猫を見下ろすと、すんっとした「無」の表情を浮かべている。

「そ、それはいかん。分かった」

 慌てて、笑顔を作ろうとするアーダルベルト。……作り方が分からない。未だかつて、この魔王に笑顔を求めてきた相手など皆無なのだ。当然だろう。

 とりあえず、口角を上げて目元を細めればいいはず。そう考えて、実践してみたのだが。

「…………」

 主に忠実なはずの侍女長から、とても残念なものを眺める目を向けられてしまった。


(なぜだ、これではダメなのか? 何が悪い?)

 魔王アーダルベルトは自身の口元が引き攣り、緊張のあまり目が充血していることに気付いていない。

 優しい笑顔どころか、殺人鬼の愉悦の笑みですね、などと侍女長が引いていることにも。

 だが、本人は至って真剣にその表情で口を開いた。

「さすが勇者、我がしゅ、」

 言い切る前に、魔王は言葉を止めた。英断であろう。壁際に控えた侍女長からの無言の圧が恐ろしい。

 白皙の額に浮かんだ青筋が雄弁にダメ出しをしている──


 何を言えばいいのか。途方に暮れそうになったところで、腕の中の子猫が立ち上がった。

 器用に後ろ脚でよいしょ、と立ち上がると、そっと前脚を伸ばしてきたのである。

(なんだ? なにがしたいのか……?)

 分からないが、必死な形相が思いのほか愛しくて、つい見守っていると──


「ふっ、む」


 ふわふわの綿毛のような前脚がアーダルベルトの口元をそっと押さえてきたのである。

 魔王は言葉を失った。文字通り、勇者な子猫に口を塞がれてしまい、びしりと固まってしまう。


(どういうことだ? 何を考えているのだ、勇者よ。こんな短くて小さくてふわふわの前脚なんぞで私をどうにかできると考えているのか? ふっ、笑止! こんな、こんな──)


 こんな、ふわふわで気持ちの良い、可愛いあんよごときで。

「…………ッ!」

 意識すると、もうダメだった。


(なんだ、このけしからん感触は! ふわふわの純白の毛皮! 洗ったばかりで、石鹸の良い匂いがしてけしからん! 顎に触れたところがくすぐったいではないか! それに、この……ぷにぷにしたピンク色のこれは……肉球? 肉球なのか、これ! こんなに柔らかくて役に立つのか、肉球! あと、仄かに甘くて馨しいのはどうしてだ!)


 口を封じられた分、魔王の脳内は雄弁だった。

 唇は身体の中で唯一、露出した粘膜だ。つまり、とても敏感な部位。

 そこを、ふわふわのぷにぷにの愛らしい子猫の前脚で触れられたとしたら──


「みゃああああん?」

 前脚でそっとアーダルベルトの唇を押さえた子猫がこてん、と小首を傾げながら小さな声音で鳴いた。

 消え入りそうな、儚い鳴き声に魔王の胸がきゅうと締め付けられるように痛む。


(くっ! 可愛いではないか!)


 この上目遣いを眺めているのは危険だ。慌てて視線を逸らす。きゅんきゅんする胸が鬱陶しい。

 そう、きゅんきゅん──きゅう、と愛らしい音が物理的に耳朶じだを震わせた。

 小動物の鳴き声にとてもよく似ているが、微妙に違う。

 アーダルベルトは音が響いてきた方向にそっと視線を向けた。そう、ふわふわの真っ白の毛並みの子猫のお腹だ。

 柔らかで豊かな毛並みで誤解しそうだが、よく観察すると、そのお腹はぺたんこだった。

 小さい小さいとは思っていたが、かなり痩せている。

 きゅうきゅうと切なく空腹を訴えてくる、正直な子猫のお腹を呆然と見つめていると、やがて焦れたように子猫が声を張り上げた。


「ごあああん」


 勇者の言葉は分からないが、何を訴えているかは不思議と伝わってきた。

(ごあん……ご、はん? ごはんか!)

 腹がへったと泣き喚く子猫を前にして、アーダルベルトは大いに焦っていた。

 これまで見苦しい命乞いは何度も目にしてきたが、切迫した鳴き声がこれほどに胸に迫るものだとは思わなかったのだ。

 空色の瞳を潤ませて、無心で食事をねだる姿が何ともいじらしく、胸が苦しい。


「くっ……!」

「あらあら。ミヤさま。お腹が空かれたのですね?」


 それまで大人しく壁際で控えていた侍女長がそそ、と近寄ってくる。

 はっと我にかえったアーダルベルトは、きりっと表情を引き締めると、元乳母である頼れる女性に「勇者の食事の準備を」と命じたのだった。



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