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第6話 魔王の誤算3

 寝返りを打った子猫がふと、むずがるように前脚を動かした。小さな前脚で目元をこすっている。くあっとあくびをして、ころりと転がった。ぱちぱちと瞬きをしている。


(ようやく目覚めたのか)


 何となく、すぐには声を掛けずに、アーダルベルトは息を呑んで見守ってしまう。


「ン……?」


 戸惑ったように子猫がきょろきょろと辺りを見渡している。真上を見上げて、ぽかんと口を開けた。間抜け面だが、妙に心惹かれる。目が離せない。


「ンン?」


 首を傾げながら、子猫はそろりと身を起こそうとして固まった。なぜか、自分の前脚をしげしげと見つめている。不思議そうだ。ここが何処か、不安に思っているのだろうか。

 子猫は顔を上げると、そうっと起き上がる。

 ぷるぷると震える四肢でどうにか立ち上がったようだ。周囲を見渡したり、自分の身体を見下ろしてみたりと忙しない。

 そうして、ようやく何かを納得したようにキリッと表情をあらためると、そろりと一歩を踏みだした。カゴの中からおそるおそる這いだす。

 見守っていた魔王アーダルベルトは知れず詰めていた息をようやく吐きだすことができた。

 いつ足をもつれさせてしまうのか、はらはらしながら見つめていたが、小さな子猫は時間を掛けて目的地に到着できたようだ。

 執務室の背後にある窓に辿り着いた子猫は小首を傾げながら、ガラス窓を見上げている。


「ニャッ⁉︎」


 と、何とも頼りない声が響いた。小さくて、愛らしい子猫の悲鳴だ。


(何だ、何があった?)


 慌てて身を乗り出すアーダルベルト。

 目の前では、灰色の子猫が倍ほどに膨らんでいた。そんなに毛が膨らむのか、と驚くのと同時に不思議と胸が高鳴った。触り心地が良さそうだ、と何となく思う。

 しばらく観察して、ようやく魔王は腑に落ちた。何かに驚いた子猫は、おそらく毛を膨らませて、身体を大きく見せようとしているのだ。下位の魔獣にそういった習性のものがいた。


(何に警戒しているのだ……?)


 ここには子猫と自分以外、他に何の気配も感じないのだが。

 くりくりの愛らしい青い瞳が真っすぐ見つめているのは──まさか、窓ガラスに映った自分の姿、か? 

 まさかそんなはずはあるまい、とは思うのだが。


(いや、どう見ても自分の姿に驚いているな、あれは)


 窓ガラスを見つめたままの姿勢で固まっている毛玉。もしかして、初めて己の姿を認識したのかもしれない、とふいに思い至る。

 なにせ、この勇者。生後一ヶ月なのである。

 長命を誇る魔族にとって、生後一ヶ月なんて生まれたばかりの赤ちゃんだ。そう考えると、途端に放置しておくのが可哀想になってきた。ここは声を掛けて安心させてやらなければ。


「目が覚めたか、勇者よ」


 何と話しかけていいのか迷いに迷って、そんな風に呼び掛けてしまった。

 後で知った侍女長にはしっかり叱責されてしまったが、その時のアーダルベルトには他に呼び掛けるべき言葉を知らなかったのだ。

 だって、自分は魔王で、この毛玉もどきは天敵たる勇者なのだ。仕方ない。

 唐突に背後から声を掛けられた子猫は、アーダルベルトの想像以上の高さまで飛んだ。

 予備動作なしにぽーん、と飛び跳ねたのだ。尻尾を膨らませて「フゥッ!」と唸ってくる。


 アーダルベルトは戸惑った。

 驚かせてしまったことは、少しだけ申し訳ないと思うのだが、声を掛けただけなのだ。

 自分は武器を持ってもいないし、魔法を繰り出したわけでもない。

 だが、小さな猫の子は愛らしい顔を恐怖に歪めて、フーシャーと威嚇をやめないのだ。


「どうした、勇者。何を言っている?」


 怯えさせないように、と。

 なるべく小さな声で優しく問い掛けてみたのだが、返ってきた返事はこれである。


「シャーッ!」

「む……」


 言葉は通じないが、寄ってくるなと怒っているのは何となく分かる。

 どうするべきか。ここは素直に侍女長に助けを求めるべきだろうかと悩んでいると、灰色の子猫は背中と尻尾の毛を膨らませた愉快な姿勢のまま、ぴょこぴょこと移動を始めた。


「うっ」


 恐怖のあまり、三角の耳をぺったりと後ろに寝かせて。そのくせ精一杯の威嚇ポーズ(らしきもの)で左右に飛び跳ねる様子がとんでもなく愛らしい。

 思わず怯んでしまったら、子猫は「お?」といった表情でこちらを見上げてきた。この威嚇に効果があったと思ったようだ。にゃっ、と小さく声をあげながら、ふたたび左右に飛び跳ね始めた。

 ドヤ顔なため、せっかくの威嚇が台無しだ。まず、怖くない。魔族どころか、おそらく人族でさえ、ふふっと笑い出したくなるくらいには微笑ましい光景なのだ。

 当の勇者が大真面目になればなるほど、笑いを誘われるというあれである。


「なんだ、その奇妙な踊りは」


 それ以上はやめておけ、と言いたい。

 だが、なぜだか、目が離せない。


「不思議なことに、見ているとこう……胸が妙に締め付けられる……」


 アーダルベルトは子猫の珍妙な動きにすっかり見惚れてしまった。

 だが、そこで子猫は唐突に動きを止めてしまう。

 どうした、と固唾を呑んで見守っていると、ぺたんと座り込んでしまった。


(何があったのだ、勇者。……まさか、顔を洗っている? 今、ここでか?)


 すっかりと腰を落ち着けた子猫は小さな前脚を丁寧に舐め上げて、くしくしと顔を拭い始めた。

 宿敵である魔王を前にして、この度胸。幼くとも、さすが勇者というわけか。

 感心するアーダルベルトの目の前で、子猫は顔だけでなく背中や腹の毛を舐め始めた。丁寧に身繕いをしているようだが、あいにく小さな舌はきちんと届いていない。

 自分では綺麗にしているつもりらしく、満足顔でいるが、ピンク色の愛らしい舌は宙を泳いでいる。

 その様子がおかしくて、アーダルベルトは笑いを嚙み殺した。

 ぐふっ、と少しだけ声が漏れてしまったが気にしない。


「ミャ?」


 きょとんと、子猫がこちらを見つめてくるが、そっと視線を外した。

 今、目が合うと爆笑してしまう気がして、口元をそっと片手で覆い隠す。肩が少しだけ震えてしまったのだけは許してほしい。

 子猫は不思議そうにこちらを見ていたが、やがて毛繕いを再開した。

 ふう、とアーダルベルトは息をついた。


(魔王たる私が、何たることだ。様子のおかしい勇者に惑わされるとは。しっかりしろ)


 こっそりと深呼吸を繰り返して、どうにか心を落ち着かせようとしたところで、魔王は目を疑った。

 子猫がその小さくて短い前脚でそっと両目を覆ったのである。


(かわいい)


 眠いのか。眠いのだな? 

 そう問い掛けようとしたところで、バランスを崩した子猫がこてんと仰向けに転がってしまう。みゃ、ととぼけた声がする。

 そのまますぐに起き上がればいいものを、子猫は少しの間、固まってしまっていた。


(ショックだったのか。まぁ、やたらと頭がデカいのだから仕方ない。重いのだな)


 ようやく我に返った子猫が起き上がろうとしてか、両手足を動かした。

 立ち上がろうとして、頭が重くて起き上がれない。おぶおぶと懸命に宙をかく両手足。じっと観察していると、アーダルベルトはその衝動が抑えきれなくなった。


(ものすごく叫びたい。この胸に迫る熱い何かを吐き出したい──!)


 けれど、それをすると何かが終わってしまう、と心のブレーキが発動する。


(いや、違う。終わりではない。これは、きっと始まりなのだ……)


 懸命に飲み込もうとした情動が唇の端から零れ落ちる。咄嗟に片手で顔を抑えたが、「ふぐううう」という呻き声だけは止められなかった。


「みゅう……?」


 不思議そうにこちらを振り返る子猫。綺麗な青い瞳と目が合う。

 仰向けで倒れたままの姿勢で、こちらを見上げる無垢な瞳を意識すると、なぜか鼻の奥がつん、と熱くなった気がした。口元を押さえていた指の間から、何かが滴り落ちてくる。鼻血だ。

 これは攻撃だ、とその途端アーダルベルトは悟った。

 きょとんとした表情の子猫に向けて、びしっと指をさして糾弾する。


「ききき、貴様! なんだ、その技は! 卑怯だぞ、そんな、そんな……けしからん格好で!」

「ピァ?」


 よく分からない。そんな表情で子猫が首を傾げる。

 仰向けで、おぶおぶしながら。


「ぐはっ!」


 アーダルベルトは小さく悲鳴を上げた。

 口元を覆った指の隙間から、だばだばと鼻血が溢れ出してくるのが分かる。

 なんという恐ろしい攻撃だろうか。胸がとても痛い。心臓が激しいダンスを踊っているようだ。


(勇者を見ていると、胸がぎゅんぎゅんとなる。これは、なんだ……?)


 戸惑うアーダルベルトを見つめる子猫が「みょう」とぽそりと鳴いた。

 ぎゅん、胸が軋む。


「よせ、なんだ、その気の抜けた声は! 魅了魔法か? けしからん! 小癪な!」


 魔法だとしか思えなかった。

 最強にして最凶の魔王として名を馳せた、この自分に対して、小さな毛玉の分際で不可思議な攻撃を仕掛けてくる。なんという強敵か!

 子猫はじっとアーダルベルトを見つめてくる。ぎゅんぎゅんしていた胸が、ほんのりと温かくなってきた。何だ、この気持ちは。


「うっ……そんな、つぶらな目で見上げてくるな!」


 勇者を目にするとダメージを負うと分かっているのに、どうしてだか、自分から目を逸らすことができそうにない。

 動かないアーダルベルトに安心したのか。

 子猫は何度か寝返りを繰り返して、ようやく身を起こした。ぷるるっと身震いすると、尻尾をぴんと立てて歩き出す。アーダルベルトの足元へと。


(なぜだ! なぜ、こちらに来る?)


 少しでも動いたら踏み潰してしまいそうだ、と。

 硬直するアーダルベルトの足元にちょこんと腰掛けると、子猫は目を輝かせながら彼を見上げてきた。


「みゃあああん?」


 先程までの警戒した声音から一変。それは、とても愛らしい鳴き声だった。

 子猫が親を呼ぶ、信頼感に満ちた甘えた声音だ。


「くっ…………!」


 動揺が隠せない。何だ、この生き物は。ありえない。


(なぜ、天敵たる魔王にこれほど甘えた声で懐いてくるのだ!)


 なぜか、手指が震えてしまう。しっかりしろ、何をしようとしている!

 足元にすり寄る、ふわふわの毛玉があれば撫でてみたくなるのは当然だ。だが、これは勇者。

 葛藤するアーダルベルトを見上げて、子猫はふすん、と鼻を鳴らす。不満そうだ。

 何を思ったのか、子猫はアーダルベルトの足首に頬を押し付けてきた。


「みゃお~ん」


 布越しに伝わる、その柔らかな感触にアーダルベルトは息を呑んだ。

 胸の鼓動が痛いくらいに速まる。躊躇しているこちらの気持ちなど知らぬげに、その小さな猫はその場に転がった。

 急所である腹を見せ、小首を傾げて見せたのだ。


「にゃおん?」 


 それが、トドメだった。


「…………ッ!」


 その甘やかな誘惑を前にして、アーダルベルトはあっさりと理性を投げ捨てた。

 言葉もなく、その場で両膝をつく。

 そうして、魔王アーダルベルトは子猫を抱き上げると、その魅惑のもふもふの腹毛に思い切って顔を突っ込んだのだった。


(ふ……さすが勇者だ。初めての、敗北……ッ!)


 だが、不思議と悪い気はしない──


 存分に、子猫を吸っていたところ、子猫を迎える準備を整えてきた侍女長が戻ってきて、盛大に呆れたのは言うまでもない。


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