「……む?」
老皇帝が眉を顰める。
帝国魔導士と護衛らしき騎士が、突如現れた黒衣の男を目にして血相を変えた。
「何者だ!」
「曲者め、捕えろ!」
「うるさい」
魔力を込めて一瞥するだけで、魔導士と騎士たちはその場に昏倒した。
魔王のスキルのひとつ【威圧】をほんの少し浴びただけで、この有り様だ。帝国が異世界から勇者を召喚するのも納得か。
アーダルベルトは横たわったままの生き物を指先で摘まみ上げた。
軽い。それに、なんと柔らかな毛皮なのだろうか。
(少しでも力を込めたら、潰してしまいそうな頼りなさだな……)
こんな弱々しい生き物がいたとは。
心の中でかなり狼狽えていたのだが、どうやら鉄壁の仏頂面は内心を綺麗に覆い隠してくれていたらしい。
老皇帝はアーダルベルトを目にするや否や、青褪めた。
「貴様は、魔王! おのれ、勇者を浚うつもりか!」
物凄い形相だ。焦りと怯え、恐怖が垣間見えるが、精一杯の虚勢でこちらを睨み付けてくる。
あいにく、ちっとも迫力はない。アーダルベルトはふん、と鼻先で笑い飛ばしてやった。
「人の国の王よ。これは私が貰っていこう」
「待て……! 誰か、はよう──」
「遅い」
アーダルベルトは小さな生き物をそっと抱き上げると、練り上げた魔力を塔に叩き付けた。
特に念入りに召喚用の魔法陣を破壊する。
(もう二度と、勇者を転移させることのないように)
それだけでは不安だったので、塔ごと壊してしまうことにした。
崩れ落ちる塔から悠々と抜け出すと、黒い雲を呼び寄せて、雷を塔に落とす。
塔の中にいた老皇帝の悲鳴が響き渡るが、くさっても人族の頂点なのだ。あの程度の崩壊では死ぬことはないだろう。大怪我は負うかもしれないが。
「召喚の魔法陣は壊したが、また勇者を異世界より召喚しようとすれば、幾度でも邪魔をしてやろう。……分かったな、人の国の者どもよ」
朗々とした声音でそう告げると、アーダルベルトは颯爽とその場を後にする。
その腕には、今宵の戦利品である勇者が何とも気の抜ける愛らしい表情で眠りについていた。
◆◇◆
「──で、帝国に召喚された、その『勇者』を連れて帰ってしまわれたのですね、アーダルベルトさま」
「うむ」
呆れたような視線をこちらに向けてくるエルフの女性に向かい、アーダルベルトは言葉少なに頷いてみせた。そして、ふいと目を逸らす。
はぁ、と女性のため息が室内に響いた。
アーダルベルトは聞こえなかったふりをして、賢く口を閉ざしている。
「まったく、もう……」
お説教の気配を感じて、アーダルベルトは小さく肩を揺らした。
このエルフの麗人は魔王城の侍女長、シャローンだ。
美しい黄金色の髪を綺麗に結い上げ、濃紺のドレスに身を包んでいる。涼しげな翡翠色の瞳をうっそりと細めて、アーダルベルトを一瞥した。
「どうなさるおつもりですの?」
「う……その、勇者は我が王国の捕虜とする」
「捕虜? この小さくて愛らしい子を、捕虜にすると言いましたか?」
「だ、だが、それは勇者だぞ?」
「この子が? 私には無理やりに親元から離された、可哀想な子供にしか見えません」
「うう……」
きっと侍女長に睨まれて、途端にアーダルベルトは押し黙ってしまう。
シャローンは侍女長。王城に勤めるメイドや侍女、下働きの女性たちを纏める立場にあるが、元々は魔王の乳母だった。乳兄弟である宰相の母であり、あらゆる官吏や大臣、将軍たちでさえ何故か逆らえない女傑でもある。
その彼女から問い質され、アーダルベルトは頭を抱えたくなった。
「な、ならば……そう、勇者は客人だ。無理やり親元から離された、可哀想な子供を悪辣な帝国の魔の手から私が救い出したのだ。傷が癒えて、元気になるまでは魔王城で面倒を見ることとする」
「ふふ。まぁ、そういうことでしたら、お手伝いしますわ」
途端に笑顔になるシャローン。
どうやら、この回答で正解だったようだ。ほっと胸を撫で下ろす。
「ならば、お迎えの準備をしなくてはなりませんわね。アーダルベルトさま、勇者さまが目を覚まされるまで、責任を持って見守っていてくださいな」
「なに、私が? 待て、シャローン」
ほほほ、と実に楽しそうに笑いながら、楚々と執務室を後にした侍女長を魔王は呆然と見送った。
後に残されたのは、すやすやと気持ち良さそうに眠る、小さな毛玉と自分だけ。
「どうしろというのだ……」
絶望に似た気持ちで、そっと『勇者』に視線を向けた。
灰色のふわふわの毛皮に包まれた、その小さな動物は清潔な布で包まれている。
ソファの上にそのまま寝かせていたのだが、寝返りを打ったら落ちそうだ。不安に思ったので、アーダルベルトは使っていないカゴを持ってきて、クッションを敷き詰めてみた。
布に包まれた状態の『勇者』をそっと抱き上げて、床に置いたカゴの中に入れてやる。ふかふかの感触が気に入ったのか。ふみゃり、と口元を綻ばせると、気持ち良さそうに寝息を立て始めた。
(かわいい)
ふいに胸をよぎった感情にアーダルベルトは戸惑った。
(勇者だぞ? 魔王である私の天敵である、勇者をまさかそんな「かわいい」だなど)
慌てて首を振って、気持ちを落ち着けてみた。うん、そうだ。正しくは「かわいそう」だ。侍女長も言っていたではないか。これは可哀想な子供。
「……いや、本当に勇者なのか? うっかり間違えて、魔法陣に迷い込んできた動物なだけでは」
眠る毛玉をじっと観察してみる。四つ足の小動物の子供。生まれて間もないのは明白だ。こんな小さな牙で獲物が獲れるわけがない。それに、このふわふわの毛皮!
「魔獣の毛皮は矢も通らぬほどに硬いはず。なのに、勇者のこの毛皮はなんだ! こんな、ふわふわで弱々しい……ふわふわ……けしからん……」
気が付いたら、無心で毛皮を撫でてしまっていた。
いかん。何だ、これは。
「もしかして、この勇者。魅了スキル持ちか?」
慌てて身を離して、【鑑定】スキルを発動してみた。
<勇者・ミヤ>
レベル1
種族 猫(幼体・生後一ヶ月)
体力 F
魔力 A
攻撃力 F
防御力 F
俊敏性 E
魔法 【全属性魔法】
スキル 【全言語理解】・【鑑定】
固有スキル 【猫パンチ】・【ひっかき】・【咆哮】・【毛玉吐き】
「……魅了持ちではなかったが。何だ、このステータスは。本当に勇者なのか? 弱すぎる」
とりあえず、この毛玉が勇者というのは確かなようだ。
名前も分かった。そして、種族。猫。
「猫とは何だ……? しかも幼体だと。生後一ヶ月。……生まれたばかりではないか!」
知らない種族である。ここ、アウローラ王国はもちろん、トワイライト帝国やその他の国でも見かけたことのない動物だ。やはり、異世界の生き物なのだろう。
「魔力だけはAランクか。レベル1でこれはすごい。さすが勇者というべきか。それにしては他のステータスが悲惨すぎるが……」
魔族の国では最弱とされる草食系の獣人の幼子でさえ、もっとランクが高い。
ちなみにランクの最上位はSだ。Aランクは次点。めったにいないクラスである。そして、最も下位のランクがF。この猫という種族の勇者はほとんどを最下位ランクが占めている。
ちょっとでも力を込めたら、潰してしまいそうだと思った第一印象は正解だったようだ。
(乱暴に抱き上げたら、骨を折ってしまう。気を付けなければ)
何の気なしに近くに立っているのが、途端に怖くなってしまい、アーダルベルトはそっと壁際まで下がった。三メートルほど離れたので、踏みつける心配もない。
これで良し。ほっと胸を撫で下ろす。
この執務室、というか魔王城の主であるのに、なぜか壁際に張り付いていることをアーダルベルトは特に疑問には思っていなかった。魔王なのに。
何となく息を殺して、眠る勇者──猫の子を見つめる。
子猫はこちらの気持ちも知らぬまま、呑気に寝息を立てていた。
(宿敵である魔王の城で、こんなにも無防備に眠る勇者はかつていただろうか……)