■ 第二章 魔王の誤算
不穏な術式の魔力を感知して、魔王アーダルベルトは端正な眉を
幾度か経験したことのある、嫌な予感。覚えのある魔力は、間違いない──召喚魔法の発動だ。
発動場所は我が魔族の国、アウローラ王国の天敵である、人族の国。
「また、あやつか」
ただでさえ忙しいのに、余計な仕事を増やすトワイライト帝国の皇帝の顔を思い起こして、小さく舌打ちをする。面倒くさい。
だが、このまま放置しておく方が、後からもっと面倒なことになるのは明白だ。
仕方なく、重い腰を上げることにした。
「世界で唯一、魔王たる我を
この世にはもう当代の魔王たるアーダルベルトに敵う『勇者』は存在しない。
そのため、トワイライト帝国は異世界から召喚することにしたのだ。
禁術である召喚魔法。莫大な魔力と何らかの犠牲が必要な術式を帝国は幾度も展開して、異世界から召喚した勇者をアウローラ王国にけしかけてきた。
異なる世界線を越えて召喚された勇者は、あらゆるスキルや魔法を付与された強敵だ。
アウローラ王国最強の魔王として称えられているアーダルベルトをしても、苦労させられた相手である。
どうにか、これまでは倒すことができていたが、それがいつまでも続くとは限らない。
「異世界からの召喚勇者は、成長すると厄介だからな……」
レベル1で召喚されるため、異世界出身の勇者は弱い。だが、戦闘に有利なスキルや魔法の才能を与えられているため、成長速度がとんでもないのだ。
かつて帝国内にあるダンジョンで戦闘訓練を積んだ勇者は、アウローラ王国の四天王クラスの将軍を圧倒するほどに成長していた。
その時は、どうにか自分でも倒せる相手だったが、今回の召喚勇者も倒せるとは限らない。
「そうなると、面倒だ。やはり、召喚の術式が完成される前に介入するとしよう」
帝国のお家芸である『勇者召喚』の儀式には莫大な魔力と生贄、そして時間が必要。
幸い、発動にすぐ気付けたため、今からでも介入は可能だ。
アーダルベルトは颯爽と立ち上がると、上級魔法を使うための魔力を練り上げる。こちらも莫大な魔力を消費するが、魔王たる彼には微々たるものだ。
転移の魔法を発動すると、一瞬で闇に包まれる。座標はトワイライト帝国の城の上空。
黄昏時の空に浮かぶと、アーダルベルトは帝国の城を傲然と見下ろした。
「ふむ……。あの塔の中か」
強い魔力が垂れ流されているのは、城の敷地内にある、ひときわ高い塔の天辺だった。
漆黒の翼を力強く羽ばたかせて、アーダルベルトは塔に降り立った。
石造りの塔にはくり抜かれた窓があるため、容易く侵入できる。アーダルベルトは念のために気配を遮断して、塔の中をすばやく確認した。
地面には三メートルほどの大きさの魔法陣が描かれており、中央には供物らしき捧げものが置かれている。中身を一瞥して、アーダルベルトは端正な顔を不快げに歪めた。
大小の魔石が転がっているのは分かる。あれは魔獣や魔物の命の結晶。魔道具の燃料ともなるほど、純粋な魔力の塊なのだ。
異世界から都合の良い相手を召喚するには、恐ろしいほどの量の魔力が必要なので、その補填のために使われているのだろう。
だが、儀式のために使用されているのは、魔石だけではなかった。
巨大な
(獣の血ではない。これは亜人の血だ)
人族至上主義であるトワイライト帝国は、亜人と呼ばれる種族を忌み嫌っている。
エルフにドワーフ、獣人。帝国人は彼らを人より劣る、亜人と名付けたのだ。そうして、彼らを奴隷として使役している。
(人などよりも、よほど彼らの方が強く、聡明なのに。愚かなことを)
魔法に長けたエルフ。手先が器用で物作りが得意なドワーフ。獣人たちは人のように武器を扱い、人よりも強い力を誇っている。
少数民族だからと、ただ数が多いだけの人族が彼らを迫害して、使い潰しているのが帝国の現状だ。
なればこそ、魔族の王である魔王アーダルベルトは亜人と呼ばれた彼らをアウローラ王国の民として受け入れた。
(だが、全員ではない。奴隷として捕まっていた彼らを解放できなかった……)
帝国に残された彼らを、恥知らずな彼奴らが召喚儀式の生贄として害したのだろう。
冷たい怒りが腹の底からひたひたと湧き上がってくる。
塔の中に作られた玉座らしき場に腰を下ろした老人を睨み据える。
白髪の年老いた男──トワイライト帝国の皇帝だ。
シワだらけの瘦せ細った老人だが、瞳だけが
幾つになるのだろうか。人族にしてはやたらと長命なのは、エルフの生き血を啜ったからだと噂されているようだが。
百をとうに越えた老人だが、未だ権力への執着は凄まじく、玉座を降りようとはしていない。
己の地位を更に盤石にしようと、この度の勇者召喚の儀式に臨んだのは明白だ。
(そんなくだらないことのために意味のない戦を仕掛けてくる……)
苛立ちのまま、アーダルベルトはこの男のシワ首を落としてやろうかと本気で考えてしまった。
だが、この男を殺したとしても、次の皇帝がまた召喚の儀式を行うかもしれない。
(ならば、今後一切、勇者を召喚できぬよう、この塔ごと壊してやろう)
それはとても良い考えに思えた。
(ついでに召喚されたばかりの弱々しい勇者を浚ってやれば、きっと悔しがるに違いない)
にやり、と笑みを浮かべると、アーダルベルトは勇者召喚の術式に、己の魔力を紛れ込ませていく。座標が微かにずれるよう、術者である帝国魔導士たちに気付かれないよう、細心の注意を払って介入した。
ぴしり。微細な歪みが魔法陣に生じる。誰も気付かない。
そうして、その瞬間が訪れる。
魔法陣の中央に置かれた供物が消えて、淡い光が立ち昇った。
「おお……! ついにか」
皇帝が身を乗り出して、魔法陣を凝視する。ひときわ強い光が暗い塔内を照らして、やがて光は薄まっていく。
強い魔力を感じる。この世界の者とは違う、異質な魔力だ。異世界からの来訪者。
介入は失敗か、とアーダルベルトは小さく舌打ちした。が、光が消えた先の魔法陣を目にして、らしくもなく呆気に取られてしまった。
ざわり、と帝国魔導士たちが動揺する中、未だ視力が回復していない皇帝が悦に入った口調で工場を述べ始める。
「ようこそ、勇者よ。我がトワイライト帝国は貴殿を歓迎する。そなたの魂が唯一、我が帝国の宿敵、魔王を討伐せしめる――……む? どういうことだ?」
ようやく視力が戻ってきたのか。
老いた皇帝は何度も瞬きを繰り返しながら、魔法陣の中央に横たわる『勇者』を凝視する。
そこにいたのは、人ではなかった。亜人でもない。てのひらに乗るほどの大きさの灰色の生き物だった。
皇帝が困惑しながら、何度も目をこする。見間違いかと、確認しているのだろう。
あいにく、これが現実だ。老人は小さく舌打ちをした。
「今代の勇者は人ではなく、獣なのか。いや、確かに人の魂の気配もする……」
魔王アーダルベルトは皇帝のその言葉にはっと我に返った。
そう、たしかに皇帝の指摘通りに、召喚されたその獣には人の魂を感じた。
意識が混濁しているようだが、理性のある生き物であることは何となく分かる。
(ならば、やはりこの者は勇者だ。帝国に渡すわけにはいかない)
すぐに心を決めたのはアーダルベルトだけではない。
逡巡していた皇帝もすぐに老獪な笑みを浮かべて、灰色の生き物にふたたび声を掛けた。
「多大な魔力を込めて召喚したのだ。この気配は、たしかに勇者のはずだが。ふむ、鑑定。……なるほど。
わざとらしい。
アーダルベルトは騙されない。口では甘いことを言いつつ、恩を着せて使い潰すつもりだ。
人の姿をしていないなら、なおのこと。
(帝国は人族至上主義。獣の姿をした勇者など、都合の良いように使い捨てるつもりだ)
こんなに小さく、幼い生き物相手に虫唾が走る……!
苛立ちのまま、アーダルベルトは動いた。魔法陣を踏み躙りながら、その灰色の獣のもとまで堂々と歩いていく。