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第2話 勇者として召喚されたようです2

◆◇◆


 頬に当たる柔らかな感触を堪能しながら、美夜はころりと寝返りを打った。

 ふかふかの敷布団は体が沈みそうなくらいにやわらかく、とても快適だ。

 このまま二度寝を楽しみたいところだが、奨学金を得ている苦学生の美夜にとって、大学をサボるなんて、とんでもない。

 学費どころか、生活費さえまともに貰っていないので、生きていくには自力で稼ぐしかないのだ。

 手の甲で、そっと目元をこすった。まだ眠気は少し残っているが、目覚めは悪くない。


(よく寝た……。そういえば、ここのところずっとレポートとバイトにかかりきりで、寝不足だったっけ……)


 ふわぁ、とあくびをひとつ。

 ついでにもう一度、寝返りを打とうとして、はたと気付く。頬に触れる、やけに質の良い手触りに首を捻った。古ぼけた自宅アパートのお布団がこんなに素敵な寝心地だっただろうか、と。


「ン……?」


 ゆったりと瞬きを繰り返すと、どうにか視界がクリアになる。


「ンン?」


 真っ先に目についたのは、豪奢なシャンデリアだ。

 キラキラと光を弾く透明なクリスタルが目に眩い。


(いやいや、シャンデリア? なんだ、これ)


 くどいようだが、事故物件並みの家賃の安アパートにあるはずがない照明である。


(どう見ても、知らない天井すぎる)


 戸惑いながらも、美夜はそろりと身を起こそうとした。自身が横たわっていた、大きくてふかふかのクッションに埋もれないよう、両手で身体を支えようとして──動きを止めた。

 見覚えのない、ふわふわの何かが目に入る。


(灰色の毛皮に覆われた、短い前脚?)


 目にした物がそれだと頭では理解しているはずなのに、意味が分からなかった。

 だってそれはどう見ても、子犬か子猫の可愛いあんよだ。

 灰色の短くて愛らしい小動物の前脚であることは理解したが、それがどうして自分の意志に合わせて動いているのか、意味が分からない。


(まさか……。まさか、だよね?)


 美夜はあらためて、慎重に身を起こした。

 両手をついて起き上がったはずなのに、なぜか四つん這いのままだ。

 戸惑いを隠せない。なぜ、立ち上がることができないのだろう。それでもどうにか身体を起こして、そうっと周囲を伺った。


(やっぱり、見覚えのない部屋だ)


 見慣れた1Kの自宅アパートとは比べようがないほどに、そこは豪華な部屋だった。

 執務室だろうか。高価そうな調度品の中でもひときわ立派な黒壇の机が奥に据えられている。

 少し離れた位置には座り心地の良さそうなソファセット。低いテーブルの上には立派な花瓶に漆黒のバラが飾られている。黒いバラなんて初めて見た。

 壁一面は本棚だ。ぎっしりと書棚を埋めた本の背表紙にある文字は、見たことがない形をしていたが、なぜか美夜には読めた。読めることはできたが、どれもオカルト的な内容をほのめかすタイトルばかりで、手に取る勇気が出ない。『闇の魔術大全』って、何それ怖い。

 床に敷かれた絨毯を眺めるだけでも、それがとんでもなく価値が高い代物だろうと、門外漢の自分でも分かる。丁寧で繊細な手仕事の賜物だ。

 多分、これ一枚で自分の一年分の生活費に相当すると思われる。

 おそろしい。踏みしめて汚してしまうのが怖いが、他に逃げ場がない。

 絨毯かソファに避難したところで、そのソファも本革。多分、これもとっても高価なお品だ。


(……さて、現実逃避をしても仕方ない。そろそろ向き合おうかな)


 深呼吸をして落ち着きを取り戻すと、美夜はあらためて自分の身体を見下ろした。

 もふもふだ。細くやわらかな毛に包まれた、何とも頼りない、小さな体。

 そっと持ち上げてみた手は、我ながら愛らしいフォルムをしている。

 てのひらにはクマの形をしたピンク色の肉球。意識すると、小さく細い爪がにょきっと顔を出した。ちょっとおもしろい。


(うん……。これは、あれだな……)


 首を背後に巡らすと、ふさふさの尻尾がはたりと揺れた。今まで存在していなかった肉体の一部が、意識すると動かせる感覚が不思議でならない。

 思い切って、居心地の良い寝床から立ち上がってみた。

 寝かされていたのは、クッションやブランケットを敷き詰めたカゴの中だったようだ。

 幸い、高さはなかったので、よたよたと頼りない足取りでも、どうにか外に出ることができた。

 目指すは、窓際。執務机の後ろが一面、大きな窓になっている。慣れない四つ足で辿り着いた窓際には、ピカピカに磨き上げられた窓ガラスが嵌まっていた。


(うん、鏡になりそう。さて、私の姿はいったいどうなっている……?)


 睨み付けるようにして見上げた先のガラス窓には、美夜の予想通りに小さくてふわふわの子猫の姿が映っていた。


「ニャッ⁉︎」


 思わず声が出た。か細くて頼りない子猫の声。何となく、聞き覚えがある。

 ガラスに映った子猫の姿に、美夜は愕然とした。

 そこにいたのは、大学に住み着いていた、あの小さな子猫だった。


(……そうだ、思い出した。意識を失う直前に、私はあの子を抱きかかえていた――…)


 バイト帰りに倒れていた子猫と遭遇して、謎の光に包まれて気を失ったはず。


(猫と、身体が入れ替わった?)


 まさか、そんなことがあるはずはない――だが、実際に美夜はいま、あの子猫の姿になっている。


(どういうことなの? あの変な魔法陣が光って気絶して、その後……)


 そういえば、妙な老人の独白を耳にしたことを思い出す。

 勇者召喚、二つの魂が融合。──そして、魔王。

 単語の断片だけでも嫌な予感がひしひしと迫ってくる。あの老人は何と言った?


(魔王が、勇者を拐うつもりか、と―――…)


 勉学とバイトに勤しむ苦学生の美夜の唯一の楽しみは、隙間時間に無料で楽しめるネット小説を読み耽ることだった。なので、流行りの異世界ファンタジーな物語にもそれなりに詳しい。


(待って。魔王とか勇者とか召喚とか……まさか、あれ?)


 異世界召喚ネタを扱った小説をいくつか思い起こす。


(異世界転移。いや、姿が変わっているから、異世界転生?)


何にせよ、とんでもない事態に巻き込まれたのだと呆然としていると──


「目が覚めたか、勇者よ」


 低く艶やかな声に呼び掛けられた。

 はっと目の前の窓ガラスに視線をやると、小さな子猫の背後に長身の男が立っていた。

 何の気配もしなかったのに、いつの間にそこにいたのだろう。


「フゥッ!」


 怯えた悲鳴が喉をつき、美夜は尻尾をぱんぱんに膨らませて飛び上がった。

 逃げようにも、逃げ場がない。前面には子猫のか細い前脚ではどうにもならなそうな大きな窓、背後には黒服の大男。

 背中の毛を逆立てて、怯えてフーシャーするだけの美夜に、黒服の男は困惑したようだった。


「どうした、勇者。何を言っている?」

「シャーッ!(近寄らないでッ)」

「む……」


 精一杯の威嚇ポーズでトトト、と斜めに移動して唸ってみせると、目の前の男は少し怯んだように見えた。


(ん、この威嚇ポーズが効いたの?)


 調子に乗った美夜は『やんのかポーズ』を保ったまま、左右にピョンピョンと素早く飛び跳ねてみる。よく知らないが、野良猫がそんな風にしていたのを見たことがあったので。


「なんだ、その奇妙な踊りは。不思議なことに、見ているとこう……胸が妙に締め付けられる……」


 長身の男は困惑した様子で、子猫姿の美夜をじっと見詰めてくる。

 それ以上近付いてこないことに安心したのと、意外と体力を消費した『やんのかアタック』に疲れた美夜はぺたんとその場に座り込んだ。


(うん、小さい体は疲れやすいね。ちょっと休憩しよう)


 ふかふかの絨毯に座り、心を落ち着かせるために顔を洗うことにした。

 マシュマロみたいなふわふわの前脚を丁寧に舐めて濡らし、顔をくしくしとこする。

 なぜだか、こうすると妙に心が穏やかになる気がしたのだ。

 ついでに気になった背中や腹をぺろぺろ舐めていると、離れた場所から「ぐふっ」という低い呻き声が聞こえてきた。


「ミャ?(なに?)」


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