■ 第一章 勇者として召喚されたようです
それは、見知った猫だった。
広大なキャンパスにいつの間にか棲みついていた、小さな子猫。
灰色の毛皮を身にまとい、キトンブルーの目をしたその子は長毛種の血が混じっていたのか、ふわふわの柔らかな毛並みを誇っていた。
猫好きの学生たちがこっそり餌をやっていたのは知っている。
かく言う、この自分──羽柴美夜もふわふわの小さき生き物は嫌いではなく、近くに人がいない場合に限ってだが、こっそりと猫用のオヤツを与えていた。
名前は何だったか。可愛がっていた人たちは、それぞれ好きな名前で適当に呼んでいたように思う。チビ、シロ、グレイ、ミーちゃん。学生だけでなく、大学職員や教員、はては巡回の警備員にも可愛がられていた、小さくて愛らしい子猫。
その子猫がアスファルトの上で丸まって動かない姿を目にして、美夜はらしくもなく、慌ててしまった。
深夜までめいっぱいシフトを詰め込んで、勤しんだバイト帰り。
後片付けを終えて帰宅する頃には、すっかり遅い時刻になっていた。
大学前の公園を突っ切るのが自宅アパートへの近道なため、ぽつりぽつりと灯りのついた公園へ足を踏み入れて──美夜はそこで倒れていた子猫を見付けたのだ。
「チビちゃん!」
慌てて脇にしゃがんで、そっと子猫の首に指先で触れてみる。
自身の心臓の音がうるさすぎて、鼓動があるのかどうか、分からない。ぐんにゃりと力を失った柔らかな体に恐怖を覚えながら、鼻先に指を近付けてみると、微かに熱を感じた。
「息がある。良かった……。すぐに動物病院に連れて行かないと」
こんな時間に開いている病院があるかどうかは分からないが、片端から電話で問い合わせればどうにかなるだろう。
診療費はバカにならないが、何食か我慢すればいい。小さな命の方が大切だ。
タオルハンカチで子猫を包むと、そっと抱き上げた──その瞬間、地面が
「なに、これ」
アスファルトの道路に浮かび上がるそれは、フィクションの世界で見かける魔法陣によく似ていた。どうやって浮かび上がらせているのかは不明だが、随分と凝った技術だと思う。
そう言えば、今日はハロウィンの夜。きっと誰かが悪戯を仕込んだのだろう。
「こんな時に最悪」
美夜は小さく舌打ちすると、その光の魔法陣から離れようと足を踏み出したのだが。
「え……?」
強い力で、魔法陣の方へと引き戻らされた。逃れたいのに、身体が動かない。
(誰もいないのに、どうして?)
物理的に拘束されているわけでもないのに、抗えない力で引き戻されて。
ひときわ強く光が弾けると同時に、美夜は子猫を抱きしめたまま意識を失った。
◆◇◆
「ようこそ、勇者よ。我がトワイライト帝国は貴殿を歓迎する。そなたの魂が唯一、我が帝国の宿敵、魔王を討伐せしめる──……む? どういうことだ? 今代の勇者は人ではなく、獣なのか。いや、確かに人の魂の気配もする……」
遠い場所で誰かが話しかけてくるが、目を開けるどころか、指一本動かせる気がしない。
とんでもなく身体がだるくて、ひたすら眠かった。
「多大な魔力を込めて召喚したのだ。この気配は、たしかに勇者のはずだが。ふむ、鑑定。……なるほど。
威厳のある声の主が何かに驚いたようだ、とぼんやりと考える。
どんな姿かは分からないが、何となく喋り口調から白髪の老人の姿が思い浮かんだ。
と、再び何かに引っ張られる感覚があった。
自由に動かない美夜の身体が、強い力で誰かに抱き締められる。
(……だれ?)
身体だけでなく、思考力も低下しているようだ。いきなりの狼藉にも怒りの感情より、疑問が先に浮かんでしまう。
こんな風に誰かに抱き締められたのは随分と久しぶりのことのように思った。
親でさえ、もう十年以上こんな風に美夜を抱き締めてくれたことはない。家事と勉強とバイトに明け暮れていて、恋人や親友と呼ばれる存在とも縁遠かった。
目蓋が重くて目を開けられないことが、とてももどかしい。
優しく抱擁されて、美夜はうっとりと口元を綻ばせた。
肌をかすめた指先はひんやりとしており、だけどそれが心地良かった。鼻先をかすめるのは、
頭上ではまだ誰かが争う気配がしているが、美夜は夢うつつで聞き流した。
「貴様は、魔王! おのれ、勇者を浚うつもりか!」
「人の国の王よ。これは私が貰っていこう」
「待て……! 誰か、はよう──」
「遅い」
低く艶やかな声音が吐き捨てるように、そう告げて。
美夜は自分の身体がふわりと抱き上げられたことを知る。軽々と持ち上げたことから、随分と逞しい人なのだな、と感心した。そして、気付く。
そういえば、これは初お姫さま抱っこなのではないか、と。
(え、本当に誰ですか、これ? もしかして倒れた私を運んでくれている救急隊員とか?)
重い目蓋を持ち上げることさえ適わないけれど、脳内は意外と冷静だった。
保険証はお財布の中にあります。せめて、そう告げようと、どうにか唇を震わせようとしたのだけれど──それが限界だった。
意識がぷつりと途切れて、美夜はそのまま心地良い眠りの世界へとダイブした。