眉間に皺を寄せながら背を丸めて早足で駅へと向かう男が一人。卑屈に背中を曲げている様子は、せっかくのすらりとした長身が台無しだ。こざっぱりと刈られた黒髪に、無難な色のスーツは、ごく普通のサラリーマン然とした風貌だった。
その男の名は朔といった。彼は、元来そう酒を飲むタイプではない。しかし今夜は『飲まなきゃやってらんねーよ状態』なのである。仕事で、先輩からミスをなすりつけられた。当然気分は最悪だ。駅と反対側に旨い物を食わせる飲み屋があると前々から聞いていたことを思い出し、足を向けてみることにする。
駅前に、屋台がひとつ出ていた。薄暗がりの中に、ぼんやりと橙の灯り。香ばしい、腹の虫を刺激する香りが鼻腔をくすぐる。
「もう閉店やから全部買うてってくれへん? 安しとくで!」
通り過ぎようとすると、よく通る声と人なつっこい笑顔で、店主はそう話しかけてきた。
たこ焼きなんて食べたのは、生まれてこのかた片手で足りるほど。気がつけば、言われるがままに、鉄板に残っているたこ焼き全てを買い取っていた。
「ありがとう! また来てな!」
商売上手な店主にまんまとしてやられた訳だが、決して嫌な気分ではなく、威勢の良い声に見送られて駅へと向かう頃には、むしろ少しだけ心が晴れていた。
――あれ、飲み屋に行くんじゃなかったっけ。
そう思い出したのは、電車に乗って随分経ってからだった。
帰ってから包みを開くと、あんなにコロコロまるまるとしていたたこ焼きたちは無残にもしなしなに萎んでしまって、カリカリであったであろう外側も、水蒸気にやられてすっかりびしょびしょだ。
飲み屋を蹴ってまでありついたたこ焼きの悲しい末路に、一人で食べるむなしさが一層増した。
次の夜も、退社後に朔が向かったのは駅の反対側。目的地はもちろんあの屋台。今度こそ、焼きたてを食べてやる。そう決意して。
駅の階段を降りて地上のアスファルトに降り立てば、幸運にもあの灯りがまたついていた。迷いなく一直線に、蛍光灯に吸い寄せられる虫のように、その屋台に向かった。
「いらっしゃい! 早速リピートしに来てくれたん? めっちゃ気に入ってくれてるやん!」
店主が何年来の友人のように話しかけてくる。接客のための業務用スマイルとわかっていても、その笑顔は周りをも明るくする、屋台のオレンジ色の灯りと似たような温かさがあった。
「ここで食べていってもいいですか」
「もちろん! やっぱたこ焼きは焼きたてが一番旨いもんな! 兄ちゃんようわかってるやん」
すっかり上機嫌になって、鼻歌交じりでくるくるとたこ焼きをひっくり返す男の様子を、朔は焼き上がりを待つ間じっと見ていた。
休むことなく動き続けている腕が半袖のTシャツの袖から晒されており、華奢ながらしっかりと筋肉がついているのがわかる。ひっくり返すたびに前腕筋が見え隠れするのを興味深く眺めながら、この仕事はもう長いのかな、なんて考える。茶色で少し長めの髪は、オレンジの灯りに照らされてますます明るく見える。俯くと案外睫毛が長いのがわかり、頬に影を落としていた。
「今日もサービスしとくわな。リピ割!」
その声にはっとした。すっかりたこ焼きは焼き上がっており、パックに詰める作業に移っていた。
彼のことは夜にしか見ていないのに、まるで太陽みたいだな、なんて思って、内心赤面した。柄にもなく詩人のようなその思いつきに。
「はい、冷めへんうちにそこで」
だが手渡されたたこ焼きを受け取る時にふと触れ合った指先は思いのほか冷え冷えとしていて驚いた。こんな熱気のそばにあって、こんなにも休まず働いている指先が、こんなに冷たいだなんて。
あまりにも考えることが多すぎて、ボーっとしている時間が長くなってしまった。少し不審な目で見られていることに気づいた朔は、急いで指示された通り屋台の脇の少しくぼんだところで早速たこ焼きを頬張った。昨夜と同じ調子で勢いよく口に放り込んでしまい、思わず大きな声が出た。
「熱っ!」
「口ん中火傷するで、ゆっくり食べや」
そう笑う彼はまるで手のかかる幼子を見守る母のような眼差しを向けていた。
たった二夜、昨夜と今夜、それもほんの数分間。その僅かな時間の中で、朔はすっかりこのたこ焼き屋台が居心地良くなってしまった。否、屋台というより店主のそばにいるのが、といったほうが正しいだろうか。
また会いたい、だなんて、たこ焼き屋の屋台の店主に抱く感情としては不相応かもしれない。朔自身もなぜそんなふうに思うのか、わからない。ただひとつわかるのは、三日連続で通うのはさすがに気持ち悪がられるのではないか、ということ。