……他人と会話してて、“楽しい”と思ったことがなかった。
和気あいあいと話すとか、のんびりと気楽に駄弁るとか、ボクには絶対できないことだと思っていた。
いつもいつも、他人の顔色を伺って、相手を不快にさせていないか、気持ち悪いことを言っていないかが気になって、とても会話を楽しむ余裕がなかった。
他人と触れ合って傷つくくらいなら、最初から何もしない方が楽だと思っていた。
悲しい思いをするくらいなら、ずっと独りぼっちで構わないと……そう考えていた。
……でも。
こんなボクが、ほんの少しだけ、他人と一緒にいて“楽しい”かもと……そう思えた瞬間があった。
それは本当に、偶然の産物だった。いろいろとベストなタイミングが重なって起きた出来事で、奇跡だと言っても過言ではなかった。
それは、2025年6月15日、日曜日のことだった。
……パッポ、パッポ、パッポ
スクランブル交差点にある歩行者用の信号義が、一定のリズムを刻んで鳴っている。
その交差点の真ん中を、ボクは人混みを分けて歩いていく。
小さなポーチを肩にかけ、身を縮めてこそこそと進む。
(うう……。相変わらず、街は人が多いなあ……)
右も左も、人、人、人。とにもかくにも、見渡す限り人で溢れていた。
大声で談笑する男性グループに、しかめっ面でスマホをいじるお姉さん。腕時計を見ながら慌ただしく小走りをするサラリーマンに、亀のようにゆっくりと歩く腰の曲がったおばあちゃん。
そんな大勢の人でざわつく街中に、ボクはたった1人でいる。
普段の休日は、こんなに騒がしいところへは絶対に来ないのだけれど、今日はどうしても街へ来る用事があった。
それは、漫画のためだった。
好きな漫画を買うために、ボクはわざわざ家を出て、ここまでやって来ていた。
ボクは漫画に対しては少し拘りがあって、「そこそこ好きな作品」だったなら、電子書籍でも大丈夫だけど、「本当に大好きな作品」だったなら、ちゃんと現物の本を持ちたいと思うタイプのオタクだった。
本特有の紙の香りや、ページを捲る時の手触り。そして何より、間違いなく自分の手元にあるという安心感。そうしたものを感じられるから、ボクは現物で持つのが好きだった。
こんなこと、他の誰に言っても、理解して貰えないと思うけど……。
「……ふう」
家を出て、電車を乗り継いでから約30分。ボクはようやく、商店街の通りにある大きな本屋さんの前へと到着した。
自動ドアを通り、店内へと入る。さっきの交差点とはうってかわって、中はしーんと静まり返っていた。
人はそれなりにいるけれど、みんな本を探すのに夢中で、一言も喋らない。そんな空気に安堵しながら、ボクは漫画コーナーへと足を運び、本棚の中をじっと凝視する。
ボクが今探しているのは、ダーク・ブルーという漫画の13巻だった。
この作品は、ボクにとって物凄く思い入れのあるものだった。ボクをオタクの沼へ導いた漫画であり、ボクが“ボク”という一人称を使うきっかけになった漫画であった。
世界観の作り込みが凄く緻密なダークファンタジーで、あまり広くは認知されていないけど、濃いファンが多いタイプの作品だ。
著作の先生がかなりの凝り性で、刊行ペースも遅く、この13巻が出るまでに二年もかかった。
だからこそボクは、わざわざこの本屋まで来ていたのだ。
正直に言えば、明日の月曜日、学校の帰りにここへ寄って買うのが一番効率がいい。せっかくの休日に、こんな街中までわざわざやって来る必要はない。
それでもボクは、発売日当日にこの本が欲しかった。1日でも早く、続きが読みたかった。
(あ……!あった!)
漫画を探し出してから、10分ほどした頃。ボクは少し先にある新刊コーナーの中に……目当ての13巻が陳列されているのを発見した。
ここ数年で、一番テンションの上がった瞬間だった。待ちに待ったあの漫画の続きが、今……すぐそこにある。
子どものようにワクワクする気持ちを胸に、ボクはその新刊コーナーの前へと向かおうとした。
「………………」
その時、ボクよりもワンテンポ早いタイミングで、新刊コーナーの前に立った人がいた。
それは、白坂くんだった。
彼は腕を組みながら眉をひそめて、本棚をじっと見つめていた。
(え!?え!?し、白坂、くん!?)
知り合いがいたことに驚いてしまったボクは、一旦来た道を引き返して、彼のそばから離れた。
バクバクと震える心臓を、手の平でぐっと抑えた。
完全に自分1人の世界に入っていた時に、見知った他人の存在に気がつくと、いつも以上に緊張してしまう。
(な、なんで白坂くんが、ここにいるの……?)
正直に言って、ボクはこの時、白坂くんのことを恨んでいた。
せっかく1人の世界で安心してたのに、それを彼に邪魔されたような気がしたからだ。
もちろん、彼は全く悪くないし、あまりにもコミュ障過ぎる自分が情けないだけなんだけど……。
(と、とりあえず……白坂くんがいなくなるまで、時間を置こうかな)
今あの漫画を取りに行くと、間違いなく彼に気づかれる。下手したら、話しかけられるかも知れない。それは絶対に避けたかった。
どんな会話をすればいいのか、分からない。好きな漫画の話とか、なんでここにいるのかとか、そういうことを上手く話せる自信がない。
だから一旦、漫画コーナーから離れて、参考書や問題集が並んでいる勉強コーナーへと移った。
もともとついでに参考書を買う予定だったから、そっちの方を先に選ぶことにしたのだった。
(えーと、どれにしようかな……)
中身をパラパラと捲って、自分に合う参考書を探す。
そして、五冊ほど中を確認して、気に入った一冊を脇に抱えた。
(……10分ほど経ったかな。さすがに白坂くんも、もういないかも)
スマホで時間を確認してから、またボクは漫画コーナーへと戻っていく。
そして、ダーク・ブルーが置かれている本棚に誰もいないか……おそるおそる顔を覗かせた。
「………………」
残念なことに、まだ白坂くんはそこにいた。
しかも、彼は今まさに、漫画を読んでいる最中だった。
本屋さんには、試し読み用として漫画の一話から三話程度まで切り抜かれた本が置いていたりする。白坂くんは、その試し読み用の漫画を読んでいたのだ。
これでは、もう少し時間がかかってしまうかも知れない。
(う、うう、どうしよう……)
せっかく一人の休日をのんびり過ごしていたんだから、こんなところで知り合いに会いたくない。
白坂くんが嫌いなわけじゃないけど、それでもやっぱり……一人がいい。他人と一緒にいたくない。
だから他の本棚へ移って、彼がいなくなるまで粘ろうと、最初はそう考えていた。
「………………」
だけど……この時のボクは、いつも以上に積極的な気持ちがあった。
今すぐにでも、本棚の前へ行きたいと思っていた。
だって、二年も待ったダーク・ブルーの新刊が、すぐそこにある。人混みが嫌いなボクが、わざわざ重い腰を上げて街へ出てくるくらいに、ボクはあの漫画が欲しかった。
もしもこれが別の漫画だったなら……ここまで積極的にならなかった。当たり前のようにこの場から離れて、時間を置いてからまた来る。それ以外の選択肢はなかったと思う。
それに……。
『代わりにやってくれて、ありがとうね』
「………………」
たぶん、あそこにいるのが“白坂くんじゃなかったら“、ボクはこんな積極的にはならなかったと思う。
ボクの苦手なタイプの人だったら、たとえダーク・ブルーでも取りに行きたくない。絶対に近寄りたくない。
でもボクはこの時……白坂くんの隣に行くことに対して、そこまで抵抗はなかった。
彼が学校で隣の席であることと、多少は会話をしたことがあるというのが、ボクにとっては結構大きかった。
バレないように隣に立てばいいかなと思うくらいには、近くに寄ることに対して拒絶感はなかった。
そうした特殊な状況だったからこそ、ボクは珍しく……足を踏み出していた。
(き、気づかれないように……)
そろりそろりと、まるで泥棒かのように歩く。
そして、白坂くんの右横に立ち、素知らぬ顔でダーク・ブルーの13巻を手に取る。
(わあ……!や、やっと!やっと13巻が!)
興奮のせいで、手が震える。音を立てないように息を飲んで、ボクは参考書と共に脇に挟んだ。
「………………」
その時、これまたボクにしては珍しく……横にいる白坂くんのことが気になった。
今もずっと夢中で試し読みを読んでいるけど、一体なんの漫画を読んでいるのだろうか?そんな好奇心が不意に沸き上がった。
ちらりと、横目で彼の手元に視線を送った。そして、漫画のタイトルを確認した。
(……あっ)
ボクは思わず、声を上げそうになった。
彼が読んでいたのは、なんとダーク・ブルーだった。
1巻の半分までが試し読みできる小さな本を持って、彼はじーっと集中した様子で読んでいた。
試し読みの本を読んでいるということは、たぶん彼はダーク・ブルーを初めて読むんだと思う。でも、こうして夢中になって読むということは、少なくとも面白いと思っているんだろう。
「………………」
しばらくの間、ボクはぼーっと、彼のことを見つめてしまった。
(今、どのあたりなんだろう。“レイン”はもう出てきたかな)
白坂くんが今見ているページがどこなのか、ついつい気になってしまった。
そんなボクの視線に気がついたのか、白坂くんはふっと、こちらへ顔を向けた。
「あれ?黒影さん?」
彼から声をかけられて、ボクはようやくハッとした。
(し、しまった!つ、つい、うっかり……!)
白坂くんに気づかれないようにこそこそしていたのに、ボクがぼーっとしてたせいで、あっさりと見つかってしまった。
「わあ、やっぱり黒影さんだ!奇遇だね、こんなところで会うなんて!」
「あ、あ、う、うん、そうだ……ね」
ボクはひきつった笑顔を浮かべながら、彼の言葉に答えていた。
全身から、言葉にし難い嫌な汗が滲んでいた。