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5.どうして優しくするのだろう


「……38.1度、ね」


お母さんは、ボクが渡した体温計を見て、顔をしかめていた。


翌日の6月11日、朝7時の食卓で、ボクはお母さんに「風邪をひいた」と伝えたところ、そうして体温を測られたのだった。


悪寒と腹痛に苛まれて、気持ちが悪い。でも、身体の具合とは対照的に、心の中は「これで学校が休める」という安堵感に包まれていた。


「ご、ごめんなさい、お母さん。わ、“私”……今日は学校、休みたい」


「………………」


「今日1日休めば、き、きっと、治ると思うから」


「………………」


お母さんは体温計をテーブルに置いて、ボクのことをじっと睨んだ。


「彩月、お母さんはいつもなんて言ってる?」


「………………」


「お母さん、いつも大切なことを言ってるわよね?ねえ、なんて言ってる?」


「……た、体調管理も、仕事の内……」


「そう、大人の世界ではね、体調管理もできない人は、まともに仕事もできない人って思われるのよ?」


「………………」


「あなたはまだ子どもだから許されているけど、大人になったらこんなこと通用しないからね。だってそうでしょ?もし私が風邪をひいたら、誰がご飯を作るの?誰がお金を稼ぐの?あなたに全部、私の仕事を代わりにできるの?」


「………………」


ボクは黙ったまま、首を横に振った。


「ほらね?風邪をひくっていうのは、そういうことなのよ」


「……ごめん、なさい」


「もういいわ、今日はとりあえず家にいなさい。明日まで長引かないようにね」


「……はい」


「それと、具合が良くなったら、勉強を進めなさいね」


「え?」


「今日の授業は、何があるの?数学?英語?」


「……え、えっと、社会科とか、理科とか……」


「そう。なら、社会科の問題集を進めておきなさい。少しでも他の子より遅れないようにしないとね。私が仕事から帰ってきたら、どこまで進められたか確認するからね」


「………………」


「いいわね?彩月」


「………………」



バンッ!!



「彩月!!聴いてるのっ!?」


お母さんは、手の平で机を思い切り叩いた。そして、部屋中に声が反響するくらい、凄まじい剣幕で怒鳴った。


ボクは肩をびくっ!と震わせて、「は、はい」と弱々しく返事をした。


「なんでしっかり返事をしないの!?彩月は、お母さんのことが嫌いなの!?」


「ち、違い、ます……」


「なら、ちゃんと返事をしなさい!お母さんを嫌な気持ちにさせないで!」


「は、はい……。ご、ごめん、な、さい……」


ばくんばくんと、心臓が跳ね上がる。お母さんの顔をまともに観れずに、顎先から首もと辺りに視線を置いていた。


手にじっとりと汗をかいていて、気持ちが悪い。お母さんからそれを隠すように、ボクはパジャマのズボンに手の平を当てて、汗を拭う。


(ああ、こんなに怒られるんだったら、風邪なんか引かなきゃよかった)


自分で自分の具合を悪くさせたことを、ボクはこの時になってやっと後悔した。


でも、学校に行ったら行ったで、嫌いな水泳がある。どっちにしても、今日は嫌な日だったんだ……。


「彩月、お母さんはね、全部あなたのためを思って言ってるのよ?」


「………………」


「私の言う通りにすれば、ちゃんとした人生を送れるんだから。いいわね?彩月」


「……はい」


ボクは小刻みに震えながら、ゆっくりと頷いた。


「それじゃあ、私は行ってくるから」


そうしてお母さんは、仕事へと出かけていった。


家の中は、しーんと静まり返っていた。窓の外に見える空は、どんよりと曇っていた。


「………………」


ボクは勉強机に座って、社会科の問題集を解いていた。


だって、お母さんが家に帰ってきたら、成果を見せないといけないから。


たくさん問題を解いていないと、また怒られる気がしたから。


熱で頭が朦朧とする中、ボクは無理やり手を動かしていた。


「………………」


ぽたりと、問題集の上に雫が落ちた。


ボクの涙だった。


口をぎゅっとつぐんで鼻をすすりながら、眼をごしごしと手の甲で擦り、涙を拭った。


部屋の中は、異様に静まり返っていた。






……誰もいない家の中で、ボクは一言も喋らず、黙々と勉強を続けた。


お昼ご飯は、ブルーベリージャムを塗ったトースト一枚と、小さなヨーグルトをひとつだけ食べた。


もともとボクは食事に興味がなく、放って置いたらいつまでもご飯を食べない、なんてこともよくある。だから今日は、珍しくお腹が空いていた方だった。


食事が終わったら、またボクは机に座り、勉強の続きを開始する。


窓の外ではぽつりぽつりと雨が降り始めており、次第に雨音が静かな部屋の中にも入り込んでいた。



ピンポーン、ピンポーン



来客があったのは、お昼の3時を過ぎてからだった。


(嫌だな……。誰にも会いたくないのに)


ボクは自分の部屋から出て、インターホンに付けられた液晶を確認し、外にいる人が誰か観てみた。


「…………………」


そこには、一人の男子が立っていた。


今月から隣の席になった……確か、白坂くんって名前の男子だった。


(え?な、なんで、白坂くんがボクの家に?)


戸惑いと混乱で、しばらく固まってしまった。最悪、居留守を使うことも頭に過った。


でも、よくよく彼の手元を観てみると、プリントが握られているのが分かった。それで、おそらく学校のプリントを持ってきてくれたのだろうということが理解できた。


「……は、はい。く、黒影ですけど」


ボクがおそるおそるそう告げると、白坂くんは『あ、えーと、こんにちは』と言って、話し始めた。


『僕です、黒影さん。隣の席の白坂です。黒影さんに渡したいプリントがあったので、持ってきました』


やっぱり、ボクの予想通りだった。


「あ、えっと、プリント……は、その、ポストの中に、入れておいてください」


『ポストの中……あ、これですね。今、入れておきましたんで』


「はい、ありがとうございます……。ケホッ、ケホッ」


ボクの身体の中に産まれたウイルスは、どうやら喉も攻め込んだらしい。イガイガし出した喉の違和感を払うために、小さな咳を二回ほどした。


『それじゃあ、失礼します』


「は、はい。どうも……」


そうして、白坂くんはいなくなった。彼が立ち去ったのを見計らって、ボクはポストからプリントを取り出した。


修学旅行についてのお知らせ……か。ボクにはずいぶんと縁のない話だ。


班決めの時なんて、地獄になるのは目に見えている。ボクのことをどこが“引き取るか”で、揉める姿が目に浮かぶ。今までもそうだったように。



『ねえ、そっちの班でどうにかしてよ。私らんところはもう人数オーバーなんだから』


『無茶言わないでよ。ウチのとこだって、入る予定の人決まってるし』



……ああ。想像するだけで、胃がキリキリする。


もう何も考えたくない。辛い。辛い。辛い。


「……はあっ」


ボクの体調は、いよいよ限界を迎えた。


ベッドへと横たわって、白い天井を見上げる。


朝からずっと勉強をし続けたけど、問題集は12ページまでしか進まなかった。


(もっと……もっとした方が、いいかな)


どこまでやればお母さんが認めてくれるか分からない。だから、際限なくやり続けるしかなかった。「これっぽっちしか進んでないの?」って、幻滅されたくなかった。


ああ、でももうキツイ。やりたくない。やりたくないよ。


身体は熱いはずなのに、物凄く悪寒がする。咳も出るし、冷や汗が止まらない。


「……もう、嫌だ。嫌だぁ……」


無様な泣き言が、思わず口から漏れていた。


呼吸がどんどんと浅くなり、「う~……」という唸り声が口をつく。どうしようもない孤独感が、胸に大きな黒い穴を開けていく。


「ねえ、誰か、誰か……」


ボクは無意識の内に、こう呟いた。



──誰か、助けて。




……ピンポーン、ピンポーン


その時、またチャイムが鳴り響いた。ボクはもううんざりしながら、ベッドから起き上がり、部屋から出てインターホンを確認した。


またもや、白坂くんだった。


(なんだろう……二回も来て)


ボクは内心面倒に感じつつも、インターホン越しに「はい」と告げた。


『あ、黒影さん。何回もすみません』


白坂くんがそう言ったのを聞いて、心の中で「ほんとだよ、迷惑な」と毒づいていた。


……でも、そうして白坂くんを嫌に思っていた気持ちは、次の言葉でなくなっていった。


『あの……差し入れを持ってきたんですけど、いりますか?』


「……え?さ、差し入れ?」


『うん、よかったらでいいんですけど』


「………………」


その時になって、ようやくボクは白坂くんの手にビニール袋が下がっていたことに気がついた。


差し入れ?まさか、ボクのために?


なんで白坂くんがそんなことを……と、思いながらも、ボクはとりたえずマスクをした。


ギイ……。


玄関のドアを開いて、少しだけ顔を覗かせる。みすぼらしくて汚いボクの姿を見せるのは、すごく恥ずかしかった。


「やあ黒影さん、こんにちは。具合はどう?」


白坂くんは、心配そうに眉をひそめて、ボクにそう言った。


「これ、今さっきコンビニで買ってきたんだ。風邪ひいてる時は、こういうのがいいんじゃないかなって思って」


「…………………」


「のど飴とスポーツドリンクにしたけど、よかったかな?さっき黒影さん咳き込んでたし、そういうのがいいかなって」


「……え、えっと、なんで?」


「え?」


「え、いや、な、なんで……買ってきたんですか?」


「いやほら、黒影さんが今、体調悪いんだったら、差し入れでもしようかなって」


「は、はあ……」


「お節介だったらごめんね」


「あ、い、いえ、そういうわけじゃ……」


なんなんだろう?本当に意味が分からない。どうしてボクなんかに、差し入れを……。


「あ、あの、い、いくらですか?」


「え?いくらって?」


「この、いろいろ、買った金額……。いくらなんですか?」


「いやいや、いいよ返さなくて。僕が勝手にやったお節介だから」


「で、でも……」


「いいって!全然気にしないで」


そうして、ボクはビニール袋ごと白坂くんから手渡された。そして、彼はにっこりと笑いながら、ボクへ手を振った。




「それじゃ、また学校でね。お大事に」




「…………………」


そうして、彼は去っていった。その背中は、雨のせいでずぶ濡れだった。


彼が一歩ずつ歩く度に、廊下は濡れた足跡がついていった。


……初めて。


今日、初めて、お大事にって言われた。


な、なんで?白坂くんとは、別にそんな……仲良くもないのに。


一回プリントを渡した後に、またわざわざボクのところへ届けに来て……。あんなに濡れてまで。


「………………」


この時のボクは、喜びよりも困惑の方が大きかった。


自分へ向けられた優しさを、受け入れることができなかった。


これがボクと、白坂くんの初めての会話。


ボクの……人生最大の恋の始まりだった。






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