……曇天の下、西川さんから貰った地図を頼りに、自転車をこぐこと20分。僕はとあるマンションの前へと辿り着いていた。
「えーと、ここの405室……か」
自転車を駐輪場に置き、エレベーターに乗って4階へと向かう。そして、小綺麗な廊下を真っ直ぐに進む。
「405、405……あった、これだ」
該当の部屋を発見した僕は、すぐにインターホンを鳴らした。
ピンポーン
扉の向こう側から、インターホンの鳴る音が聞こえる。すると、数秒経ってから、インターホン越しに声が聞こえた。
『……は、はい。く、黒影ですけど』
それは、黒影さんの声だった。彼女の声はとてもか細くて、インターホンに耳を近づけないと、聞き取るのが難しかった。
「あ、えーと、こんにちは。僕です、黒影さん。隣の席の白坂です。黒影さんに渡したいプリントがあったので、持ってきました」
僕は初めて彼女とまともに喋るという緊張からか、同級生のはずなのにやたらと丁寧な口調で話していた。
『あ、えっと、プリント……は、その、ポストの中に、入れておいてください』
「ポストの中……あ、これですね」
僕は扉につけられているポストの中へ、プリントを二つ折りにして投函した。
「今、入れておきましたんで」
『はい、ありがとうございます……。ケホッ、ケホッ』
彼女はお礼を述べた後に、小さな声で咳き込んだ。
「それじゃあ、失礼します」
『は、はい。どうも……』
そうして、僕たちの会話は終了した。またエレベーターを使って一階へと帰り、駐輪場に置いてある自転車に股がって、家へと帰ろうとした。
「…………………」
だけど、僕はそのままチャリをこぐことなく、その場に立ち尽くしていた。
(……今さっき、黒影さん本人がインターホンに出たってことは、家の中は……他に誰も人がいないってことだよね?)
親とかがもしいるんであれば、体調の悪い娘を起こすようなことはしないはず。わざわざ本人が僕の対応をしたってことは、彼女は今も家で一人なんだ。
(……一人、か)
僕は彼女のことが、少しだけ心配になってしまった。
今彼女が一人でいるということは、親は仕事に出ていて、二人ともいない……という状況なんじゃないだろうか。となると、体調が悪いのに、家の中で独りぼっちなのは、結構心細いことだろう。
彼女の家庭環境がどういうものか全く知らないから、一概には言えないけど……何か、差し入れでもした方がいいんじゃないだろうか。
スポーツドリンクとか、栄養ブロックとか、そういうのがあると、きっと彼女も楽に……。
「…………………」
いやいや、何考えてるんだ。僕がそこまでする必要はないと思う。
お互い全然喋らないクラスメイトなのに、僕がいきなりそんな差し入れなんて持ってきたら、向こうが困惑しちゃうよ。距離感もまだ上手く掴めてないのに、変にそういう気遣いするのは、かけって迷惑だ。
それに、家族がいないのだって、仕事じゃなくて、単に買い物とかに行ってるだけの可能性もある。もしそうなったら、僕の差し入れなんて、ただのお節介にしかならない。
(そうだ、僕はプリントを渡した。それだけで十分だ。今日はもう、これで帰ろう)
そうして僕は、自転車に股がった。
「………………」
それでも、どうしても僕は……黒影さんのことが気になってしまった。
彼女がいつも浮かべている……どこか寂しそうな顔が、頭の中から離れなかった。
(今も彼女は、同じような表情を浮かべて、家に独りでいるのだろうか……?)
『ねえお兄ちゃん!私もジュースちょーだい!』
「………………」
“元気だった頃の妹”の顔が、不意に頭を過った。
明るくにこやかなあの子の声が、耳のすぐそばで聞こえたような気がした。
ポツ、ポツポツ
小さな雨が、降り始めていた。僕の肩や頭に、その雫が落ちてくるのが分かる。
僕は唇を噛み締めて、灰色の空を見上げた。
「……よし」
自転車をこいで、自分の家にではなく……近くのコンビニへと向かった。そこで、のど飴とスポーツドリンクを買った。
それをビニール袋の中に入れて、チャリの籠の中に置き、また急いで彼女の家へと向かった。
ザーーーー……。
コンビニを出ると、小雨だった雨が一気に強まってしまった。しまったなあ、天気予報じゃ今日は晴れだったはずなんだけどなあ。
「ふー、やっとついた」
びしょびしょに服が濡れた状態で、また僕は彼女の住むマンションへとやってきた。そして、さっきと同じようにエレベーターを使って登り、彼女の部屋まで訪ねに行った。
ピンポーン
インターホンを押すと、やはりさっきと同じく、黒影さんが『はい……』と言って尋ねた。
「あ、黒影さん。何回もすみません。あの……差し入れを持ってきたんですけど、いりますか?」
『え?さ、差し入れ?』
「うん、よかったらでいいんですけど」
『………………』
しばらく間を開けた後、扉がぎぃ……と、音を立てて開いた。
そこには灰色のパジャマを着ている、マスク姿の彼女が立っていた。
「やあ黒影さん、こんにちは。具合はどう?」
彼女と対面できて安心したのか、僕はいつの間にか丁寧な言葉使いを止めていた。
「これ、今さっきコンビニで買ってきたんだ。風邪ひいてる時は、こういうのがいいんじゃないかなって思って」
「…………………」
「のど飴とスポーツドリンクにしたけど、よかったかな?さっき黒影さん咳き込んでたし、そういうのがいいかなって」
「……え、えっと、なんで?」
「え?」
「え、いや、な、なんで……買ってきたんですか?」
「いやほら、黒影さんが今、体調悪いんだったら、差し入れでもしようかなって」
「は、はあ……」
「お節介だったらごめんね」
「あ、い、いえ、そういうわけじゃ……」
黒影さんは困惑した様子で、僕が手に持っているビニール袋を見つめていた。
「あ、あの、い、いくらですか?」
「え?いくらって?」
「この、いろいろ、買った金額……。いくらなんですか?」
「いやいや、いいよ返さなくて。僕が勝手にやったお節介だから」
「で、でも……」
「いいって!全然気にしないで」
そうして、僕はビニール袋ごと彼女へと渡した。そして、黒影さんへと小さく手を振った。
「それじゃ、また学校でね。お大事に」
「…………………」
黒影さんは何も言わないまま、黙って頭を下げた。
そうして、僕は彼女の部屋から離れて、マンションから出た。
(うん、これでいい……。よくやったぞ僕)
僕は心の中で、自分自身を褒めた。もやもやしたままにせず、ちゃんと最善を尽くせた時、僕はこうして自分を褒めるようにしている。
たとえ彼女から喜ばれなくてもいい。僕は、やりたいことをやったんだ。何も怖がることはない。
ザーーーー……。
相変わらず、雨は未だに振っている。
僕は「へっくしゅ!」とひとつくしゃみをしながら、自転車にまたがり、家への帰路を走るのだった。