……黒影さんは、いつも独りぼっちだった。
朝の挨拶の時は、僕が声をかける以外は、誰も彼女と挨拶を交わさない。
彼女が声を発する機会は、先生から問題を当てられて、それに答える時だけで、それ以外で彼女の声を聞くことはない。
いや、もしかしたら他のクラスに友だちがいるのかも知れないが、とにかく僕が確認できる範囲では、彼女が誰かと親しくしている姿は見たことない。
いつも肩を縮こませて、小動物のように隠れていた。
もちろん、一人でいること自体が、悪いわけではないと思う。一人でいる方が気楽な人だっているし、それで楽しくしているのであれば、僕も「黒影さんは一人が好きな人なんだな」と思って、全然気にならなかったはず。
僕が彼女のことがずっと気になるのは、どこか……寂しそうだったから。
なんの起伏も見えない表情だけど、言葉にしがたい影が……彼女の顔に降りている気がした。
そんな彼女を見ていると、いつも胸がちくっと痛む。心配というほど明確に彼女を意識していたわけじゃないけど……どことなくいつも、目の端には彼女の姿があった。
しかしかと言って、あれやこれやと黒影さんに話しかけるのも、それはそれで彼女は嫌がりそうだなと思っていた。
僕が毎朝挨拶する時も、目線は僕から外して、黙ったまま会釈する。とても好感触とは言えない雰囲気で、話しかけにくく感じていた。
(このまま2ヶ月、黒影さんと全然話せないまま、隣の席でいることになるのかなあ……)
僕は横目で彼女のことを見つめながら、なんとも言えない気持ちを抱えていた。
……事が起きたのは、6月11日の水曜日だった。
キーンコーンカーンコーン
朝の一発目のチャイムが、校内に鳴り響く。各クラスでホームルームが始まり、1日のスタートを切る瞬間だった。
しかし、この日はそんな時間になっても、まだ黒影さんが来ていなかった。
(あれ、どうしたんだろう?いつもは10分前くらいには席に着いているのに……。遅刻するなんて珍しいな)
僕は黒影さんが先生に怒られやしないか不安に思いながら、隣の空席を見つめていた。
「よーし、今日から体育は水泳が始まるからな。みんな、指定の水着を忘れんなよー」
担任の石田先生が教卓の前に立ち、今日のお知らせを話していく。
「それと、今日は山本が発熱してな、1日休みになるそうだ」
そう言われて、僕はクラスメイトの山本くんの席へ眼をやった。教室の中央付近に彼の席はあって、確かにそこも空席になっている。
「えー?今日山ちゃん休みかよー!」
「発熱って、どんくらいなんだろーな?ちょっと具合大丈夫かLimeしてみよーぜ」
彼の友人であるクラスメイトたちは、山本くんが休みであることをとても残念そうにしていた。
(そうか、もしかしたら黒影さんも、山本くんと同じで具合悪くして、学校休みなのかな?)
もしそうだとしたら、また先生がそのことについて説明するだろうと思って、僕は先生の次の言葉を待った。
「よし、それじゃあ、朝のホームルームはこれで終わりだ」
だが先生は、黒影さんのことには一切触れず、もうホームルームを終わらせてしまった。
(あ、あれ?)
先生はスタスタと教室の扉に手をかけて、今にも出ていこうとしていた。
「あのー!先生!」
僕は思わず手を上げて、先生に向かって叫んだ。先生はこっちを振り向いて、「どうした白坂?」と聞き返した。
「黒影さんって、今日はお休みなんですか?」
「うん?黒影?黒影は……あれ?なんだったか?」
先生はしばらく怪訝な顔をした後、「ああ、そうだ」と呟いてから、僕たち生徒にこう告げた。
「すまんすまん、今日は黒影も体調不良で、1日休みになるからなー」
そうして先生は、足早に教室から出ていった。
「なあなあ、一時間目の国語って宿題あったっけ?」
「俺も知らね~。まあ、なんかあっても忘れたフリしようぜ」
「ねえ見てみてー!今日ちょっとだけネイル塗ってみたんだよねー!」
「えー!すごーい!めっちゃ綺麗じゃんこれー!」
黒影さんが休みであることについては、あの山本くんの時とは違って、残念がる声はひとつも出なかった。
彼女の話題はどこにも上がらず、「黒影さん」という言葉すら出ず、いつもと同じ毎日が始まった。
「………………」
ぽつんと残されている机と椅子が、じっとそこに佇んでいた。
……静かな時間が過ぎ去っていった。
授業を終え、清掃を終え、気がつくと1日が終わっていた。
「よし、後ろの席まで全員プリントもらったかー?」
この日は帰りのホームルームで、担任の石田先生が、僕たち生徒に重要なプリントを配った。
それは、今年の10月に予定されている、修学旅行についてのお知らせだった。
「いいなー?このプリントは必ず親に見せるんだぞ~。旅費の支払い期日とか書いてあるからなー」
先生がそう言い終えた瞬間、ホームルームの終わりを告げるチャイムが鳴り響いた。それを聞いたクラスメイトたちは、蜘蛛の子を散らすように教室から出ていった。
「ねーねー!今日部活って監督来るっけー?」
「広瀬ー!カラオケ行こうやー!」
「そう言えばさあ、利香んちって結構学校から近かったよねー?今度遊び行っていいー?」
ガヤガヤざわざわとクラスメイトたちの声で溢れ返る中、僕も鞄を背負って、みんなとともに教室を出ようとしていた。
「白坂くん、ちょっといい?」
その時、僕は後ろから声をかけられた。振り返ってみると、そこには一人の女の子が立っていた。
長い髪を後ろで結んでいて、キリッと切れ長で精悍な眼を持っている人だった。
学級委員長の、西川 凛さんだった。
「西川さん、どうしたの?」
「白坂くんって、黒影さんと仲いい?」
「黒影さんと?」
「うん」
「……いや、まあ……どうだろう?朝の挨拶はするくらいかな」
「あー、うーんそっか……」
「……?」
彼女の質問の意図が分からなかった僕は、首を傾げて彼女の言葉を待っていた。
「いや実はね、このプリントを、今日お休みしてる黒影さんに届けなきゃいけなくて」
西川さんはそう言って、さっき先生が配っていたプリントを俺へ見せてきた。
「いつもは学級委員長の私が持っていってるんだけど、今日は私、どうしても早く帰らないといけないくて……。それで、他の誰かに頼みたかったの」
「なるほど……」
「黒影さんも女の子だし、家へ持っていくのは女の子の方がいいと思うんだけど……みんな、用事やらなんやらで断られちゃって」
「…………………」
「それで、まあ……男子ではあるけど、白坂くんだったら隣の席だし、お願いしやすいかなって思ったの」
「……山本くんは」
「え?」
「山本くんのは、どうしたの?ほら、彼もお休みだったでしょ?」
「ああ、山本くんの友だちに頼んだから、大丈夫だよ。黒影さんのだけお願いできれば」
「………………」
ここまで話を聞いて、なぜ西川さんが僕へ「黒影さんと仲がいいのか?」と問いかけてきたのか、ようやく理解できた。
家までプリントを届けるというのは、わりと面倒な仕事だ。それなりに仲がいい人のところでないと、行きたくないと思うのが普通だ。
だから、断った女の子たちのことを悪く言うつもりはない。彼女たちの気持ちも十分に理解できる。だが、黒影さんのことを思うと、僕はきゅーっと……胸が締めつけられるような寂しさを覚えてしまった。
「……………………」
僕はもう一度、黒影さんの机へ目を向けた。誰もいないその席に、彼女の幻が朧気に見えた気がした。
「……わかった。いいよ、僕でよければ持っていくよ」
「本当?ありがとうー!すごく助かるよ!」
西川さんは心底安堵した様子で、目を細めて笑っていた。
「それじゃあ、西川さん。黒影さんの家を教えてもらえるかな」
「うん、Limeに場所を送っておくね」
「うん、わかった」
「ごめんね、白波くん。いきなりこんな頼み事して。今度何か、ジュースでも奢るから」
「いいよいいよ、気にしないで」
「ほんとにごめんね。あ、白坂くん、今Limeで送ったよ」
「うん、ありがとう」
彼女はスマホの画面を俺へ見せてきた。確かに彼女の言うとおり、僕のLimeへ黒影さんの家の地図が送られていた。
……僕の家とは、反対方向だな。学校から自転車で約20分くらい。彼女の家から僕の家へ帰るには、40分くらいかかっちゃうな……。
いや、仕方ない。ここはもう、快く引き受けよう。
「それじゃあ、行ってくるね」
「うん、お願い」
そうして僕は、西川さんからプリントを受け取り、黒影さんの家へ向かうことにした。