第2話 トイトイトイ
天藍が六歳の時だった。学校で何かあったのか、べそをかいて帰宅してきたことがあった。
「天藍さま。どうされたのですか? どこか怪我を? 痛いところはありますか?」
そう、声を掛けながら、アネモネは優しく天藍を抱き寄せ、背中をさする。バイタル値に異常はみられない。それを裏付けるように、天藍は泣きじゃくったまま、首を横に振って否定した。
やがてアネモネの胸の中で落ち着いてきたのか、しゃくりあげながら、はぁはぁと荒い呼吸をしている。
「落ち着かれましたか?」
「アネモネ。ママの映像出して」
それでなんとなく察しが付く。天藍に母親がいないことで虐められたか、からかわれたか。そうであろうが、なかろうが、天藍が母親のことで深く傷つくような、何かがあったのだ。
――――あとで旦那様に報告しなければ。
「はい。いつのが良いですか?」
「『全力』のやつ」
それは、生後十か月頃の眠る天藍を腕に抱いて語り掛けている母親の姿を映したものだった。亡くなる直前で、母親は既に死期を悟っており、自分が居なくなった後に残される天藍に向けて語り掛けるものだった。
「ねぇ、天藍。生きているとね。理不尽なこと、納得のいかないこと、悔しいこと、腹立たしいこと、いっぱいあると思う。天藍は優しい子だから、そんなとき、きっと沢山傷ついて泣いちゃうかも」
母親は静かに眠る天藍を起こさないよう、静かにおでこをちょん、ちょん、ちょんと人差し指で軽く触りながら、「トイトイトイ」と言った。
「自分の力でどうにもならないことに抗おうとしないでね。理不尽でも、納得がいかなくても、悔しくても、腹が立っても。ぐっと堪えて受け入れなさい。その上で、なんとかしようと全力で頑張るの。そうしたら、きっと上手くいくわ」
そして、もう一度、おでこに触れながら「トイトイトイ」と言った。
ドイツ起源のおまじないの言葉で「上手くいくよ」「大丈夫だよ! しっかりね!」といった意味があるらしい。
「アネモネ、撮れた?」
「はい、奥様」
「天藍に見せてあげてね」
「はい、奥様」
ここまで再生して動画を終了した。これまでにも何度も再生してきた動画だ。天藍は、母親の「全力で頑張る」の言い回しがとても病床にある人とは思えない力強さを感じる、と気に入っていた。
「アネモネ」
そう言って天藍は、目をつぶり、黙っておでこを突き出した。
アネモネは、母親を真似て、静かにおでこをちょん、ちょん、ちょんと人差し指で軽く触りながら、「トイトイトイ」と言った。
「もう一回」
「はい」