冬の八ヶ岳。麓まで純白の雪に覆われた静かなる連峰。
新築のログハウスのベランダで、悲しげな瞳をした初老の男が雪山を見詰めている。
髪や肩に降りかかる粉雪をそのままにして。
今、彼が吐いたのは白い息か、それとも溜息なのだろうか。
彼の瞳に映っているのは雪景色だろうか、それとも過去の思い出だろうか?
「……ごめんね」
詫びる言葉を呟いた彼は、背後から人が近付いて来た事にも全く気付いていなかった。
「先生。そこは寒いですから、もう中にお入りください」
うら若き女性が男の肩に降り積もった雪を手で払いながら、心配そうに声を掛ける。
「……ああ、そうだね。少し寒くなってきた」
先生と呼ばれた男は大学で民俗学を教えていた。
彼の専門は日本に古から伝わる伝承と伝説である。神や妖については誰よりも詳しい。
大学で助手を務める美しき女性の院生に、彼は静かに微笑んでみせた。
笑っているはずなのに寂しさを感じるのは何故なのだろうと、いつも女性は考える。
「どうかなさったのですか?」
「僕は少し呆けていたみたいだね。……少年時代を思い出していたからかな」
「先生の少年時代、ですか?」
「うん。僕が子供の頃に交わした大切な約束のこと、なんだけどね」
女性は男の表情に一瞬浮かんだ悲しみの影を、決して見逃さなかった。
「先生。……私、その話をお聞きしてもいいでしょうか?」
男はしばらく返事を迷っていたが、やがて意を決して女性に伝えた。
助手を頼んだこの女性には、出会った時からなぜか既視感を持っている。
だがこの機会に話しておいた方が良い。自分は彼女の想いに気付いているのだから。
「うん、判った。君には話したい。だけどここは寒いから、まず中に入ろうか」
そう語ると、男は女性を先に部屋に戻る様に誘った。
防寒仕様の二重ガラスの扉を通る前に、男はもう一度雪景色を振り返る。
外の世界では粉雪がまださらさらと降り続いている。
「ごめんね……雪ん子」
男はもう一度、心から謝る言葉を小さく呟いていた。
暖かく快適なリビングのソファに座った男に、女性は温かいココアを差し出した。
炎が揺らめく暖炉から、薪が爆ぜる音が時折聞こえる。
「先生。お飲みください。冷えた身体が温まりますから」
「ありがとう。君はいつでも気が利くね」
凍えた手でカップを口に運ぶ。
女性は男の正面に静かに座って、彼の口が語り出すのを静かに待っていた。
「……今まで誰にも話さなかった話なんだ」
「私が聞いてもよろしいのですか?」
「うん。別に口止めされていたわけではないからね。……それでも」
男は一度、その口を閉じた。思い出が走馬灯のように蘇る。
「……僕はまだ十歳だったんだ。彼女と……雪ん子と出会ったのは」
そして男は、雪の日に起きた特別な出来事を徐に語り始めたのである。
呼吸器の病を患っていた少年時代の彼は、八ヶ岳が見える療養所で過ごしてた。
汚れがない新鮮な空気の効果か病状は安定し、回復に向かっていると自分でも判る。
だが外で遊ぶことができない十歳の少年には、外の雪景色は目の毒であった。
眩しい銀世界で遊んでみたいと願うのも、子供だから仕方ない。
だが二つの理由で少年は他の子供と遊ぶことが許されなかった。
もちろん第一の理由は少年の体調悪化を心配しての話である。
そしてもう一つの理由は、少年から他の子に病が伝染するのを恐れてのことだ。
判ってはいたが、それでも少年は雪が積もる外で遊んでみたかったのである。
「今日は体調もいいし、他の子と遊ばなければ、きっと外に出てもいいよね」
ある朝、少年は看護師の目を盗んで療養所を抜け出した。
少しだけ外で遊んだら、こっそりと帰るつもりだったのである。
もちろん他の子に近付くつもりはなかった。遠目に眺めるだけである。
だが少年は、一人だけ仲間外れの子供がいることに気が付いた。
一人離れた場所で、他の子供たちが遊ぶ姿を羨ましそうに見つめている。
様子が気になった少年は、離れた所から一人ぼっちの子に語り掛けてみた。
「ねぇ君。どうして皆と遊ばないの?」
仲間外れの子は自分より小さな女の子だった。俯いたまま少年に応える。
「私……雪ん子だもの。皆、私を怖がって遊んでくれないよ」
「雪ん子? 君って妖なの?」
「うん、妖よ。信じられないなら、これを見て」
少女が傍らの草に手を触れると、草は一瞬で凍り付いた。
そして少女は微かに震える声で少年に語り掛けてくる。
「怖かったら、貴方も逃げてもいいのよ」
「別に怖くないかな。それより君、妖だったら僕の病気はうつらないよね?」
少年の意外な反応に戸惑う雪ん子。自分に出会って逃げない子供は初めてだった。
「うん、私は妖だから病気にはならないけど」
「だったら僕と遊ばないかい。病気持ちの僕は、他の子と遊べないし」
「本当にいいの? だけど私……」
躊躇する雪ん子に、病気で友達がいなかった少年は不安気に尋ねた。
「もしかして君も僕が嫌い?」
雪ん子はふるふると首を横に振った。少女も淋しくて仕方がなかったのである。
「じゃあ、僕らはもう友達だね」
明るい笑顔で誘うと、少年は二人で遊べそうな近くの林へと向かった。
二人は雪合戦をして、少年はさんざんに打ち負かされた。
二人で協力して、大人の背丈の二倍もある大きな雪だるまを作った。
二人でそりに乗り、坂道を滑ってキャアキャアと声を挙げて楽しんだ。
あまりに楽しくて、少年は日が傾くまで時を忘れていた。
「あ、そろそろ帰らないといけないみたいだ」
夕刻になったことに気付き、少年は雪ん子に帰ることを語った。
「もう会えないの?」
いかにも寂しげな顔をする雪ん子に、少年は努めて明るい声で伝える。
「きっと明日も来るから。必ず来るって約束する」
「本当? 明日も遊んでくれるの?」
約束がよほど嬉しかったのか、雪ん子は少年に大輪の花の様な笑顔を見せていた。
少女は少年が呆然と見惚れる程に美しく、そして可愛らしかった。
自分の初恋を知った少年は、自分の心からの願いを少女に伝えたのである。
「もし君さえ良かったら、これからも一緒に。できれば……僕のお嫁さんになって」
突然の少年の言葉に、雪ん子は顔を赤くしながら頷くばかりだった。
「約束したからね! じゃあまた明日!」
走り去っていく少年の後姿を、雪ん子はいつまでも一人で見つめ続けていた。
そう、少年の約束を心から信じて。
しかし少年が雪ん子と交わした約束は果たされなかった。
病気にも拘らず無理をした少年の病状が一気に悪化したからである。
高熱に苦しみ、三日三晩、少年の意識は戻らなかった。
いや、熱が下がったのは神の奇跡だったと主治医は後に述懐している。
ようやく意識が戻った少年は、自分が約束を破ってしまったことを知った。
なおも朦朧とする意識の中で、少年は小さく呟く。
「約束を守れなくてごめんね、雪ん子」
そして療養所にいる少年が、雪ん子と出会うことは二度となかった。
少年が日本の伝説や伝承を詳しく調べるようになったのは、その時からである。
辛い思い出を全て語り終えた男は、深くため息をついた。
「僕は雪ん子との約束を一つ破ってしまったんだ。とても大切な約束だったのに」
初恋の相手、雪ん子に嘘をついて傷付けたことが、彼の大きなトラウマになっていた。
深い哀しみを湛えた表情をする男に、女性が静かに質問する。
「先生が今まで女性を身辺に近付けなかったのは、それが理由なのですか?」
「うん。何があってももう一つの約束だけは、絶対に破りたくないから」
「その話、もっと早く伺えば良かったです」
男は今でも雪ん子との再会を待ち続けていると語り、申し訳なさそうに女性に謝った。
「君の気持ちには気付いていた。だけど僕には応えられないんだ」
はっきり断られたのに、女性は笑顔を崩さずに次の質問をした。
「ところで先生。雪ん子は先生を恨んでいると思います?」
「きっとね。大切な約束を守れなかった僕を彼女が許してくれるはずがない」
「そうでしょうか? だって先生の熱が下がったのは奇跡だったのでしょう?」
確かに奇跡に違いなかった。
少年が回復したのは、主治医にも信じられない出来事だったのだから。
だが彼には彼女の質問の意味が良く判らない。
「君は何が言いたいんだい?」
女性は自分の過去を振り返りながら、静かに語り始めた。
「雪ん子は先生の熱を下げるために、自分の妖力を使ったのです」
「えっ、妖の力を僕に?」
「でも力を使い果たした雪ん子は眠ってしまいました。目覚めたのは40年後です」
「40年も眠っていたって? 僕を救うために?」
「雪ん子は少年を探しました。年の差が四十歳ある彼は大学教授になっていました」
女性は自分の過去をなおも懐かし気に語り続ける。
「彼の傍にいたいと思った雪ん子は、一生懸命勉強して彼の助手になったのです」
はっきりと語られて、男は過去から今までの真実にようやく気付いた。
そして、かねてから女性に持っていた既視感の理由についても。
「……雪乃くん、まさか君は?」
雪乃と呼ばれた雪のように白く美しい女性は、にっこり笑って男に念を押した。
「先生。もう一つの約束は、今度こそ守ってくださいますよね?」