――ビクンッと身体を震わせて、白昼夢から覚めた薫は、のろのろとした視線を絹依に向けた。
絹依は目を大きく見開くと、荒れひとつない艷やかな唇をキュッと引き結んだ。さて、ゆっくりとした動作で拒絶された手を着物の合わせ目に持っていき、もう片方の手で強く握りしめる。絹依は泣いてしまいそうなのを
「……か
不思議なことに、絹依が『薫』と呼びだした。そう、あのスミのように。
薫がおかしくなってしまったのか? それとも、絹依は他の人間と同じように、薫のことを『
「か
絹依の見当違いの言葉を聞いて、『姉上は本当に
「僕がぬい姉様を嫌いになる? そんなこと、万が一にもありはしませんよ。むしろ、嫌いになったのはぬい姉様の方ではありませんか? 友人に嫉妬してしまうような、狭量な僕のことを……! だからもう『かおくん』と呼んでくれないのでしょう!?」
「何を馬鹿なことを! そのようなこと、あるはずがないわ! それに、わたくしはずっと、か
「嘘だ! ……結局、ぬい姉様も、今までの奴らと一緒なんだっ!」
絹依が悲痛な叫び声を上げた瞬間、ビュウッ! と目を開けるのも困難な程の強風が吹いた。
「きゃあっ」
絹依は振袖の袖口を顔の前に掲げ、砂ぼこりが目に入らないように気をつけながら、片目で薫の姿を一瞥した。薫の白いセーラーカラーを、強風がさらって、パタパタと巻き上げている。薫は顔を覆うこともせず青空を見上げ、風を身にまとうように、なすがままでいた。其の姿は神々しく、絹依が瞬き一つする間に、あっと姿を消してしまいそうに見えた。
――神風。
絹依にはその強風が神が起こしたものに思え、妖精である薫を、ついに天へと連れ戻してしまうのではないかと戦慄した。
「だ、だめよ、か
――わたくしの側から、離れて行かないでちょうだい!
「か
薫は、ハッと目を見開く。必死で懇願する絹依の姿に、強く胸が締め付けられた。
――もう、いいではないか。絹依の元に戻ろう。
そう思う気持ちとは裏腹に、
「嘘だ! ……だって、いつも僕にだけお見せになる笑顔を、槍輔に向けていたではないですかっ! ぬい姉様は僕を捨てて、槍輔の元に行くつもりなんだ!」
「か
絹依に罪悪感を抱かせて、槍輔に近づくことを忌避させるための演技のはずが、段々と熱が入っていく。
『
薫は表情を取り繕うことも忘れて、卑屈な笑いで口元を歪ませた。
「ハッ、アハッ、アハハハハ!」
――ああ。可笑しくてたまらない。
ビュウと風が吹き、薫の髪が乱れて、ほんの少し長くなった前髪が目元にかかる。
薫は思った。どうして忘れていたのだろうか、と。吾桑家に連れて来られてから、毎日が夢のようであった。心の温かい義両親。美しく、優しく、気高い姉――絹依。生きているだけで愛される、夢のような毎日。
だから忘れてしまっていたのだ。
己が何者であるかを。
『
――そう。
どう足掻いても、江戸川槍輔のような、大帝国日本男子にはなれない。
薫は笑いを収めると、憎らしいほど青く澄み渡った空を見上げて、片方の口角を上げた。
「……所詮、僕は
――パシーン!
「……え?」
薫は、自身の身に何が起こったのか、すぐに理解することができなかった。ただ、何故か左頬がかあっと熱を持ちはじめ、じくりと鈍い痛みを訴えてくる。薫は呆然としたまま、右手で左頬を押さえると、のろのろと絹依に視線を移した。
すると絹依は、白魚のような右手の平を赤く染め、胸の前に掲げた状態で小刻みに震わせていた。
「ぬい……ねえさま……」
――薫はようやく理解する。絹依に頬を叩かれたのだと。
薫は、吾桑家に引き取られるまで、毎日折檻を受けていた。痛くて辛くて惨めであった。
然れど、肉体は徐々に痛みに慣れていき、痛みを感じても涙を流すことはなくなった。
されども今、薫の目からは涙が流れ落ちている。叩かれた頬よりも、心が痛くて堪らない。――何もよりも大切な絹依を傷つけてしまった。其のことに
しかして、時すでに遅し。
「わたくしの、わたくしの大切な
絹依は黒真珠の瞳から一筋の涙を流し、
「ぬい姉様……っ!」
咄嗟に伸ばした手は
――