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第十七話 麻生薫 参(過去編2)

 スミを拒絶することができないまま、季節は春へと移り変わろうとしていた。


「――雪もこれで最後かな……」


 冷気で凍りそうな鼻をすすって、薫は曇天どんてんを見上げた。つい今しがたまで、小さな雪の結晶が舞い降りてきていたのであるが、時折、思い出したようにあくびをもらす春風の暖気から逃げるように、雪たちの宴は閉会してしまった。

 薫はシャベルを小脇に抱えたまま、足元に置いてある雪入りのバケツに左腕を伸ばした。その時、


「あっ」


 首に巻き付けていたマフラーが、するりと滑って、雪と土が混ざり合う泥水の中へ落ちてしまった。

 薫はシャベルを投げ捨てるように手放し、自分の服が汚れることもいとわず、泥濘でいねいに両膝をついたのであった。いで、雪かきの過程でできてしまった豆だらけの手のひらを、泥水を吸って変色していくマフラーに向かって伸ばす。両手ですくい上げるように持ち上げたマフラーは、美しかった空色から、きたならしい土色に染まってしまっていた。――スミが薫の瞳に合わせた色で編んでくれたマフラーは、この冬一番の相棒であり、気心のしれた友人のようであった。


「うっ……うぅ……! あ、……あぁ……っ!」


 薫は嗚咽おえつを噛み殺しながら、衣服が汚れることを気にも留めず、使い物にならなくなってしまったマフラーを胸に掻き抱いたのであった。


 ――本当は、スミに言いたかった。『ありがとう、大切にするね』と。


 されども薫は、礼の一つも言っていなかったのだ。

 寒空の下でひとしきり泣いたのち、薫はマフラーだけを大事に抱えて立ち上がり、重い足を引きずるように歩き出した。――目指す場所は使用人棟。

 まずはマフラーを洗濯し、その後でスミに謝り、今度こそ礼を言おうと思っていた。


――スミは優しいから、きっと許してくれるだろう。もしかしたら来年も、同じマフラーを編んでくれるかもしれない。


 ほどなくして使用人棟に到着した薫は、台所に続く勝手口の戸口に手をかけ、年数を重ねて建て付けの悪くなってしまった引き戸を開けた。キュルキュルと不快な音を立てる戸を閉めて、土間を横切り式台に腰を下ろすと、黒いゴム長靴を脱ごうと上体を曲げる。

 しかる、扉が僅かに開いたままの食堂室の中から、聞き慣れた――されど仕事中以外では初めて耳にする、スミのやかましい笑い声と、先輩女中達の話し声が聞こえてきた。

 盗み聞きをする趣味はなかったのだが、よく通るスミの声が、薫の鼓膜を震わせた。


「薫のことなんて、好きじゃありませんよ!」

「またまたぁ〜! スミにその気がなくったって、あの混血児あいのこの方は、絶対スミに惚れてるよ〜〜」

「か、からかわないでくださいよぅ。元はと言えば、お姉様方が始めた遊戯ひまつぶしでしょう? あたしはそれに一役買っただけですからっ!」

「もぉ〜、スミちゃんってば拗ねないの〜! ……それにしても健気よねぇ。あの鬼の子に、手編みのマフラーなんてあげちゃうんだもの」

「あー、あれはですね……実は、里にいる弟のために編んだマフラーの――なんですよぅ」

「あははははは! スミちゃんったら! 意外と性格悪いのね!」

「きゃははははは!」


 ――ガラガラ、バタン!!


 スミ達の会話を聞き続けることができなくなり、薫は逃げるように使用人棟を出た。他に行くところもないというのに、とにかく麻生の屋敷にはいたくなくて、裏門に向かって全速力で走り出す。強く握りしめたせいで豆が潰れ、血が滲んでしまった手の中に、マフラーは握られていなかった。


 ――皆の方が鬼だ! 鬼の子だ! 人でなしだ!!


 双眸から溢れ出る涙をそのままに、ひたすら足を動かした。あと少しで門扉に辿り着くという時、ぱしっと左手首を掴まれた。


「!」


 驚いて後ろを振り返ると、そこには息を切らし、泣き出しそうな表情を浮かべたスミの姿があった。


「か、薫……聞いて。違うんだよ! 最初はからかうだけのつもりだったけど、でも今は違うの! あたしは本当に、薫のことが……!」


 その先の言葉を聞きたくなくて、スミの手を振り払おうとしたが、軟弱な薫の力では拘束から逃げ出すことは出来なかった。


「……離してください」


 門扉から視線をそらさない薫の手首を、両手でと掴んだスミは、涙を散らしながら首を左右に振った。


「いやだ」


 泣きたいのは薫の方だというのに、まるで被害者のように嗚咽をもらすスミに苛つき、薫は「離せ!」と声を張り上げる。その際、大きく開いた唇の端がプツリと切れて、じわっと鉄の味が口腔内に広がった。其のことに、一瞬だけ意識がそれた隙を狙い、スミは正面から薫に抱きついた。


「嫌よ! 好きなの! …………薫」


 耳元で名前を呼ばれた瞬間、薫は渾身の力を振り絞って、スミの身体を突き飛ばした。甲高い悲鳴を上げたスミの身体は、軽く吹き飛ぶようにして、泥濘ぬかるみの中に倒れ込んだ。


 ――薫がスミを拒絶したのは、これが初めてであった。


 華奢な身体を地面にしたたかに打ちつけたスミは、泥にまみれながらよろりと上体を起こし、得体の知れないものを見る目を薫に向けた。常ならば、隠しきれない好意できらきらと光る黒い瞳は、くすんだ黒曜石のように輝きを失っていた。


「ス、スミ……」

「――混血児あいのこのくせに」


 感情の消え失せた声音で、悪意を持って吐き捨てられた言葉に、薫はヒュッと息を詰めたのであった。


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