スミを拒絶することができないまま、季節は春へと移り変わろうとしていた。
「――雪もこれで最後かな……」
冷気で凍りそうな鼻をすすって、薫は
薫はシャベルを小脇に抱えたまま、足元に置いてある雪入りのバケツに左腕を伸ばした。その時、
「あっ」
首に巻き付けていたマフラーが、するりと滑って、雪と土が混ざり合う泥水の中へ落ちてしまった。
薫はシャベルを投げ捨てるように手放し、自分の服が汚れることも
「うっ……うぅ……! あ、……あぁ……っ!」
薫は
――本当は、スミに言いたかった。『ありがとう、大切にするね』と。
されども薫は、礼の一つも言っていなかったのだ。
寒空の下でひとしきり泣いたのち、薫はマフラーだけを大事に抱えて立ち上がり、重い足を引きずるように歩き出した。――目指す場所は使用人棟。
まずはマフラーを洗濯し、その後でスミに謝り、今度こそ礼を言おうと思っていた。
――スミは優しいから、きっと許してくれるだろう。もしかしたら来年も、同じマフラーを編んでくれるかもしれない。
ほどなくして使用人棟に到着した薫は、台所に続く勝手口の戸口に手をかけ、年数を重ねて建て付けの悪くなってしまった引き戸を開けた。キュルキュルと不快な音を立てる戸を閉めて、土間を横切り式台に腰を下ろすと、黒いゴム長靴を脱ごうと上体を曲げる。
しかる
盗み聞きをする趣味はなかったのだが、よく通るスミの声が、薫の鼓膜を震わせた。
「薫のことなんて、好きじゃありませんよ!」
「またまたぁ〜! スミにその気がなくったって、あの
「か、からかわないでくださいよぅ。元はと言えば、お姉様方が始めた
「もぉ〜、スミちゃんってば拗ねないの〜! ……それにしても健気よねぇ。あの鬼の子に、手編みのマフラーなんてあげちゃうんだもの」
「あー、あれはですね……実は、里にいる弟のために編んだマフラーの――
「あははははは! スミちゃんったら! 意外と性格悪いのね!」
「きゃははははは!」
――ガラガラ、バタン!!
スミ達の会話を聞き続けることができなくなり、薫は逃げるように使用人棟を出た。他に行くところもないというのに、とにかく麻生の屋敷にはいたくなくて、裏門に向かって全速力で走り出す。強く握りしめたせいで豆が潰れ、血が滲んでしまった手の中に、マフラーは握られていなかった。
――皆の方が鬼だ! 鬼の子だ! 人でなしだ!!
双眸から溢れ出る涙をそのままに、ひたすら足を動かした。あと少しで門扉に辿り着くという時、ぱしっと左手首を掴まれた。
「!」
驚いて後ろを振り返ると、そこには息を切らし、泣き出しそうな表情を浮かべたスミの姿があった。
「か、薫……聞いて。違うんだよ! 最初はからかうだけのつもりだったけど、でも今は違うの! あたしは本当に、薫のことが……!」
その先の言葉を聞きたくなくて、スミの手を振り払おうとしたが、軟弱な薫の力では拘束から逃げ出すことは出来なかった。
「……離してください」
門扉から視線をそらさない薫の手首を、両手で
「いやだ」
泣きたいのは薫の方だというのに、まるで被害者のように嗚咽をもらすスミに苛つき、薫は「離せ!」と声を張り上げる。その際、大きく開いた唇の端がプツリと切れて、じわっと鉄の味が口腔内に広がった。其のことに、一瞬だけ意識がそれた隙を狙い、スミは正面から薫に抱きついた。
「嫌よ! 好きなの! …………薫」
耳元で名前を呼ばれた瞬間、薫は渾身の力を振り絞って、スミの身体を突き飛ばした。甲高い悲鳴を上げたスミの身体は、軽く吹き飛ぶようにして、
――薫がスミを拒絶したのは、これが初めてであった。
華奢な身体を地面にしたたかに打ちつけたスミは、泥にまみれながらよろりと上体を起こし、得体の知れないものを見る目を薫に向けた。常ならば、隠しきれない好意できらきらと光る黒い瞳は、くすんだ黒曜石のように輝きを失っていた。
「ス、スミ……」
「――
感情の消え失せた声音で、悪意を持って吐き捨てられた言葉に、薫はヒュッと息を詰めたのであった。